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2009年1月20日 (火)

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その3)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その3)

 

 鍵括弧で括られた部分の解読

 そしてマルクスは鍵カッコをつけて、そのあと「ここで次のことを指摘しておかなければならない」と前書きして、以下、論じることになる。だからこの鍵カッコでは当然、資本主義社会における攪乱に関連した問題であると予測できる。しかしとりあえず、マルクスの文章にそって、その内容を次に見て行くことにしよう。

 この鍵カッコの部分の文章には、その間にさらにマルカッコを入れたりして、さまざまな挿入文がある。それらをすべてカットすると、次のような一文の続きが見える。

 《鉄道のようなそうした大規模な企業は一定分量の力を労働市場から引き上げるのであるが、この力は強壮な男が充用される農業などのような特定の部門からのみ出てきうる。潜在的な労働者の一部分または公然とした予備軍が吸収される。労働市場の、これまで雇用事情のよかった諸部分でさえ影響を受ける。それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る。資本主義的生産様式における矛盾。商品の買い手としての労働者は市場にとって重要である。彼らの商品の売り手としては、それを最低限に制限する傾向。さらに次の矛盾。資本主義的生産がそのすべての力能を発揮する諸時期は過剰生産の時期であることが明らかとなる。なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにおいて充用されうることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界を画され制限されている等々だからである。けれども、ここでの話のいっさいが次の篇ではじめて問題になることである。》さらに次の矛盾」以下は、マルクスの筆跡の判読が難しいこともあり、nieと読むかnurと読むかによって、訳文が違ってくる。だからその判読そのものも大きな論争点になっている。エンゲルスはnieと判読し、市原氏も同じ理解である。しかし、ここではその論争そのものは取り上げずに、大谷氏の訳--nurと読む場合--を仮に挿入してみることにする)。

 このようにマルクス自身が入れた挿入文をすべてとりあえず捨象してみると、これは一連の文章であることが分かる。その後半部分だけをエンゲルスは切り離して注にしたのであるが、まず確認できるのはこうしたエンゲルスの措置は適切とは言えないということである。  この一連の文章で、マルクスが問題にしているのは、鉄道建設のような大規模な企業は労働力を労働市場から吸収し、労働市場を圧迫させて、賃金を全体として騰貴させるが、そのこと自体、資本主義的生産の矛盾であると述べているように思える。というのはこれは第三巻で明らかになるが、労賃の騰貴は絶対的な過剰生産を引き寄せるからであり、資本主義的生産の矛盾を極度に高めるからである。それは直接、資本の利潤率の突然の低下をもたらし、崩落を招く。  だからマルクスはこうしたことを頭に入れながら、資本主義的生産の矛盾の二つの契機を指摘している。この二つは相互に関連している。

 (1)まず最初は「商品の買い手としての労働者は市場にとって重要である。彼らの商品の売り手としては、それを最低限に制限する傾向」というものである。  この矛盾は、その直前で言っていることと当然関連している。つまりマルクスは鉄道などの大規模な投資が行われると労働力が生産に吸収され、「それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る」と述べている。つまり全労働者階級は最大の賃金大量を受け取るのだが、まさにそのときこそが資本主義的生産様式の矛盾は暴露されるのだ、というのがマルクスが言いたいことなのである。総賃金大量を受け取った全労働者階級は、彼らに商品を売りつける資本にとっては重要だが、しかし資本にとっては労働者の賃金を最低限にとどめておくことは死活的な条件である。その最低限が騰貴するということは、すなわち資本がその生産の死活的な条件を失うことを意味するからである。(なおこれに関連して、マルクスはエンゲルスが注にした部分の直前で、「それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る」と述べている。この部分の訳も大谷氏の訳とは若干の相違があるが、この市原氏の訳の方が分かりやすいような気がする。ここでマルクスが「騰貴の最低限」と述べている意味が今一つよく分からなかった。富塚氏は「最低限」は「最高限」の誤植ではないかと述べているが、しかしこれは「最低限」でいいと思う。「騰貴の最低限」というのは、「騰貴した最低限」の意味、つまり「最低限の騰貴」「最低限が騰貴してしまう」という意味と考えて良いと思う。つまり資本は賃金を常に最低限にする傾向があり、またそれが資本にとって死活的な条件なのだが、その最低限が騰貴してしまうわけである。マルクスの言いたいのはそういうことではないかと思う)。  (2)だからマルクスは、次の矛盾として、「資本主義的生産がそのすべての力能を発揮する諸時期は過剰生産の時期であることが明らかとなる」と続けていると考えられる。過剰生産とは、それ以上の拡張を行っても、利潤率がこれまでどおりかあるいはそれ以下しか得られないことを意味するからである。「可変資本の大量」が資本の利潤率を押し下げること、これこそ絶対的過剰生産以外の何ものでもない。

 「なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにおいて充用されうることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界を画され制限されている等々だからである。」

 この一文は明らかに過剰生産の時期であることの理由を述べていることは明らかである。しかしこれは絶対的過剰生産に資本が陥り、それが生産をストップさせてしまう理由として、マルクスは述べていると考えるべきであろう。すなわち次のように.……

 なぜなら、資本が生産を行うことが出来るのは、それによって剰余価値が生産されるだけでなく、それが実現できるかぎりにおいてだからである。だから剰余価値が生産されても、それが"正常な"利潤を得る価格で実現しないなら、生産はストップするし、だからこそそれは過剰生産の"過剰"なる意味なのである。そして商品資本の実現、つまり商品の販売は、社会の絶対的な消費欲求によって規定されているのではなくて、社会の大多数の成員が貧乏のままであらざるをえないような消費欲求によって規定されているのだから、剰余価値の実現はたちまち限界を露呈せざるを得ないのである。しかし資本主義的生産が個人的消費と如何に絡み合っているか、あるいは資本主義的生産の力能が剰余価値の生産とその実現とに如何に制約されているかということは第三篇(再生産過程の実体的諸条件の考察)で明らかになることである。    もう一つ自分自身で完全に了解したというわけではないが、一応の回答としておこう。

 結局、マルクスはかぎカッコで括った部分で何を書き留めておきたかったのか、なぜ、それをかぎカッコで括って書いておく必要があると思ったのかを考えてみるに、その直前で、マルクスは回転期間の長い資本の場合、再生産過程に攪乱が生じざるをえないことを考察してきた。特に労働力に対する強い需要が生じて、賃金の騰貴によって、可変資本部分が膨れ上がることを見てきたのである。それでマルクスはこの労働力を強力に引きつける回転期間の長い大規模な生産ということに関連して、第三部で論じる予定の絶対的過剰生産にこれは関連していることを想定して、かぎカッコでそれに関するメモ書きをしたと言えるだろう(またもう一つ考えられる理由としては、この問題が「恐慌」に関連するものだからといえるかも知れない。市原氏によれば、マルクスは第二部の諸草稿では「恐慌」に関連した部分をすべて鍵括弧で括っているとのことだからである)。  だからマルクスがかぎカッコで述べていることは、主に、鉄道建設のような大規規模な投資が行われると、労働力に対する需要が高まり、それが他の部門にも影響して、全体として労賃が騰貴し、可変資本部分が膨らんで、資本が行き詰まるという事態なのである。  だからマルクスにとっては、決して不破氏や富塚氏などがいうような「生産と消費の矛盾」といったことに主眼があるのではないことが分かる。マルクスにとってかぎカッコのなかで論じたかったのは、生産規模の大きなものは、全体として労賃を引き上げるという事実に関連して、絶対的過剰生産への示唆をここで与えることだったのである。そしてその意味では、久留間鮫造氏がエンゲルスが注釈にしたところでマルクスが問題にしているのは第3部第3篇第15章に関連すると考えたのは正しかったのである。ただ、久留間氏は、だからマルクスが《次の篇》と述べているのは、第3部を指すのだと考えたのだが、それは正しくなっかたわけである。というのは、すでに考察してきたことから分かるように、マルクスが《次の篇》と書いているのは、そうした絶対的過剰生産を論じるためにも必要不可欠な前提として、資本の蓄積が生産される剰余価値とどのように関連しているのか、また労働力や彼らの個人的消費が再生産過程において現実にどのように関連し合っているのかを考察する必要があるが、それらは《次の篇》、すなわち第2部第3篇で行なう予定だということだったからである。  われわれはこの部分が第II稿で書かれたことに留意する必要がある。つまりマルクスはすでに第3部の主要草稿を書き上げているのである。つまり第3部で絶対的過剰生産についてすでに論じた上で、それを踏まえて、この草稿を書いているということである。  そこでは資本は利潤率の傾向的低下を利潤量の絶対的拡大によって補おうとして蓄積衝動に駆り立てられ、他方で、諸資本の集中と集積が加速されることが論じられていた。つまり生産規模はますます大規模になっていくのである。そうした大規模な資本投資が、それだけ回転期間も長くなり、よって労働力に対する強い需要が生じること、そしてそれが労賃の一般的騰貴をもたらし、可変資本大量を招くこと、そうすれば利潤率の突然の低落、すなわち絶対的過剰生産に陥るわけである。  だからマルクスはそれについてかぎカッコで論じておく必要を感じたのであろう。またマルクスにとっては第三部で述べたそうした絶対的過剰生産は、まだ再生産過程を踏まえたものではなかったのだが、しかし、資本の生産が剰余価値の生産やその実現とに如何に制約し合っているか、また個人的消費とも深く内的に関連しているかは、まさに社会的な総再生産過程の考察を行う第2部第3篇の課題であることを指摘して、このメモ書きを終えていると考えるべきであろう。

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