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2009年1月20日 (火)

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その1)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その1)

 市原健志氏は「『資本論』に関する若干の新事実について--草稿を調査して--」(『商学論纂』28-5・6/1987/3)という論考で、エンゲルスによって「注釈32」(これは『資本論』現行版の第2部「資本の流通過程」第17章「可変資本の回転」第3節「社会的に見た可変資本の回転」にある注釈である。全集版387頁参照)とされた部分(これはマルクスが鍵カッコで括っている最後の部分に該当する)のあたりの草稿を調査し、マルクスが鍵カッコで括った少し前のあたりから、エンゲルスの編集の手が多く加わっていることを指摘し、その部分の草稿を翻訳されている。その論考を検討して気付いた点を書いておくことにする。

 いうまでもなく、この注釈32の解釈については、故久留間鮫造氏と富塚良三氏との論争、またそれを引き継いだ形で、大谷禎之介氏と富塚氏との論争が長く行なわれてきた。その争点のうちの一部は草稿の調査が進むなかで、解決されたともいえるが、しかし、マルクスの草稿の筆跡の判読が困難なこともあって、エンゲルスが注釈とした部分の一字をnieと読むか、nurと読むべきかという論争として、新たな論点も生じ、今日においても依然として続いており(しかもこの論争に大村泉氏らいわゆる「仙台グループ」の一部も参戦して)、いまだ決着がついていないともいえる問題である。だからここで披露する私見も、とりあえずのものと理解願いたい。

 鍵括弧に括る前の部分でマルクスは何を論じているか

 われわれは、市原氏の翻訳にもとづいて、マルクスが鍵括弧で括る前の部分で、何を論じてきたのかを読み解くことから始めよう。こうした場合、私がいつもやっているように、マルクスの文章を自分なりに解釈したものを、平易に書き直すという形で、やって行きたい。

 マルクスのこの部分は現行版でもかなり長い一つのパラグラフになっている。このパラグラフは「第二に」という文言から始まっているように、マルクスは直前で「第一に」として、小さい三つのパラグラフの中で述べていることに対応している。

 ではその「第一に」として述べていることは、どういうことであろうか。

 マルクスは今回の部分でもそうだが、A、B(草稿では I 、II)なる二つの資本を例にあげて論じている。この二つの資本を例にあげて考察するのは、実は今回の問題のパラグラフが入っている「第16章 可変資本の回転」「第3節 社会的に見た可変資本の回転」だけではなくて、「第1節 剰余価値の年率」の途中から始まっているのである。マルクスがA、B二つの資本をどのように仮定しているかをマルクス自身の文章で(しかしわれわれは現行版しか検討できないので、現行版によってであるが)確認しておこう。それは以下の文章である。

 《500ポンドの可変資本が一年に10回転し、一年のうちに5000ポンドの剰余価値を生産し、したがってそれにとって剰余価値の年率は1000%であるとして、この資本を資本Aと呼ぶことにしよう。  もう一つの5000ポンドの可変資本Bは、まる一年間(すなわちここでは50週間)にわたって前貸しされ、したがって一年にただ一回だけ回転すると仮定しよう。さらに、一年の終わりには生産物がその完成と同じ日に代価を支払われ、したがって、生産物が転化した貨幣資本がその同じ日に還流するとしよう。そうすれば、この場合には流通期間はゼロであり、回転期間は労働期間に等しく、すなわち一年である。前の場合と同じに、労働過程には毎週100ポンドの可変資本があり、したがって50週間では5000ポンドの可変資本がそこにある。また、[363]剰余価値率は前と同じで100%、すなわち労働日の長さは同じでその半分が剰余労働から成っているとしよう。五週問をとって見れば、投下された可変資本は500ポンド、剰余価値率は100%、したがって五週間に生産される剰余価値量は500ポンドである。この場合に搾取される労働力の量も労働力の搾取度も、ここでの前提によれば、資本Aの場合と正確に同じである。  100ポンドの投下可変資本が毎週100ポンドの剰余価値を生み、したがって50週間では50×100=5000ポンドの投下資本が5000ポンドの剰余価値を生む。一年問に生産される剰余価値の量は前の場合と同じで5000ポンドであるが、剰余価値の年率はまったく違っている。それは、一年間に生産された剰余価値を前貸可変資本で割ったものに等しく、5000m/500vであるが、前に資本Aの場合にはそれは1000%だったのである。  資本Aの場合にも資本Bの場合にも、われわれは毎週1OOポンドの可変資本を支出してきた。価値増殖度または剰余価値率もやはり同じで100%である。可変資本の大きさも同じで、100ポンドである。同じ量の労働力が搾取され、搾取の大きさも程度もどちらの場合にも同じであり、労働日の長さは同じで、それが必要労働と剰余労働とに等分されている。一年間に充用される可変資本総額は同じ大きさで5000ポンドであり、同じ量の労働を動かして、同額の二つの資本によって動かされる労働力から同じ量の剰余価値5000ポンドを引き出す。それにもかかわらず、AとBとの剰余価値の年率には900%の差があるのである。(363-4頁)

 さて、マルクスは第三節の冒頭、しばらく問題を社会的な立場から見ることにしよう」と書いている。そしてマルクスは、まず、次の三つのことを確認している。

 (1)AでもBでも、そこで雇用される労働者数は同じであり、また彼らが年間に支出する労働量も同じであること、つまり社会的には、それだけの労働力はAとBによって差し押さえられており、したがって社会はそれを他のことに支出することはできない。  (2)AでもBでも労働者が年間に受け取る賃金の量は同じであり、だから彼らが社会から生活手段を引き上げる量も同じである。  (3)AでもBでも、労働者たちは毎週支払いを受け、だから彼らは毎週同じだけの生活手段を引き上げるのであり、そのかわりに毎週同じだけの貨幣等価を流通に投げ入れる。

 ここでマルクスが確認している三つの事実は、何を言いたいのであろうか。

 (1)AとBという二つの資本が労働力を購入し、そこから引き出す労働や、また彼らに支払う賃金も同じなのに、Aはそれを500ポンドという資本で行い、Bはその10倍の5000ポンドという資本で行う。彼らは社会の労働力を一定の部署に固定し、拘束する"権利"をそれによって得ているわけだが、しかしそのために必要な資本量は大きく異なるわけである。  (2)また彼らが雇用する労働者が消費する生活手段の量もまったく同じなのに、しかし社会的には、けっして同じではないこと、なぜなら、Aがもし生活手段を生産する資本なら、Aは一年間に彼が雇用する労働者が消費する生活手段を生み出し、それを消費させることができるのに、Bはたとえ同じ生活手段生産部門の資本であっても、自分の雇用する労働者が消費する生活手段を社会に与えることは少なくともその一年間の間にはできない。  (3)さらに彼らが雇用する労働者が流通に投じる貨幣量も同じなのに、しかし実際にはそれに使われる貨幣量は大きく違っている。つまりAは500ポンドなのにBは5000ポンドである。Aはその500ポンドを繰り返し使い、Bはたった一回しか使えないからである。

 こうした違いは、もちろんAとBとの資本の具体的な生産過程と生産物の諸条件から出てくるのだが(流通期間はゼロとする)、しかし両者は資本の運動や効率という点でも、また社会に与える影響という点でも大きく違っている。そうした違いが社会的にはどういう意味を持ってくるのか、それをマルクスは検討しようとしているかに思われる。

 さで、マルクスは以上の三つのことを確認したあと、「しかし、ここから区別がはじまる」として「第一に」と続けている。だからこの「第一に」「第二に」「第三に」とマルクスが考察しているのは、AとBとの社会的に見た「区別」であることが分かる。

 マルクスが「第一に」として考察しているのは、次の事実である。

 (1)AもBも労働者が受け取る貨幣は彼がすでに資本家に与えた価値に対する支払であるが、Aの場合は、労働者が受け取る貨幣は、少なくとも第二回目の回転以降は、自分自分が生産した価値の貨幣形態であるが、Bの場合はそうではなく、二年目からやっとそうなるに過ぎない。  (2)だからAの場合は、資本家は回転期間が短ければ短いほど、労働者を自身の生産物で働かせることができ、それだけ少ない費用で(可変資本額で)、大きな剰余価値量を引き出すことができる。  (3)だから生産規模が一定なら、回転期間の短さに比例して、前貸可変資本、よって流動資本一般の絶対量が小さくなり、剰余価値の年率(年間の総剰余価値量/前貸可変資本量)は大きくなる。だから与えられた前貸資本量では、再生産期間が短くなると、生産規模が大きくなり、剰余価値率が同じなら剰余価値の絶対量も大きくなる。例えば500ポンドの可変資本なら、年10回転するなら、生産規模は5000ポンドとなり、剰余価値率が100%なら5000ポンドの剰余価値量を得るのに、もし同じ可変資本量で年1回転なら、それがいずれも500ポンドに留まる。  (4)だからこれまでの考察で分かったことは、回転期間の相違に応じて、同じ生産的流動資本と労働とを同じ搾取度のもとで働かせても、必要な前貸貨幣資本はさまざまな大きさになるということである。つまり年間4000ポンドの流動不変資本と1000ポンドの可変資本を100%の剰余価値率で働かせる場合、一方が年10回転する回転期間でそれをやるなら、400ポンドの不変資本と100ポンドの可変資本、すなわち500ポンドの前貸貨幣資本でよいが、年1回転なら、結局、その10倍の5000ポンドの貨幣資本が必要である。

 結局、この「第一に」として述べていることは、年間の生産規模が同じでも、回転期間が長いと、前貸貨幣資本量が大きくなり、それが短いと小さくて済むという、貨幣資本の前貸量が回転期間の長短によって増減する事実を述べていると言える。以上は現行版によって考察したが、市原氏によると、この部分はエンゲルスの手は入っているが、論旨にはそれほど影響のない程度だとのことである。

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