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2008年11月

2008年11月28日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その44)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【67】

 〈|62|われわれの出発点であった9000の生産物は,再生産のために,用途(Bestimmung〕から見て,また貨幣取引を考慮しないとして,次のように準備されている。
 かつては

 A) I ) 4000c+1000v+1000m=6000
                              =9000
   II ) 1500c+ 500v+ 500m=3000

 〔いまでは〕
                                          
 B) I ) 4000c+100v(+1500消費ファンドで)(1)=6000
                                     =9000
   II ) 1600v(2)+800v(+600消費ファンドで)(3)=3000

(1)「...100v(+1500...)」は,「...1100v(+500...)」とあるべきところである。
(2)「1600v」--明らかに「1600c」の誤記である。
(3)この部分の下線は,もしかすると,これ以下の部分との区切りの線かもしれない。〉

 【まずここに提示されている表式には、大谷氏が注記している部分以外にも誤記と思える部分がある。しかし大谷氏が誤記として注記で訂正している部分についても、やや疑問があるところもある。なぜなら、われわれは何よりもまずマルクスの草稿を大前提に、それをわれわれの勝手な解釈で安易に"訂正"するようなことはできるだけ避けるべきだからである。だからまずそれらを指摘することから開始しよう。

 1)まずA)のII)が〈1500c+ 500v+ 500m=3000〉となっているが、これは明らかに「1500c+750v+750m=3000」の誤植であろう。大谷氏の注記がないところをみると、あるいは草稿ではこうなっていたのを大谷氏が書き写すときに誤写したのかも知れないが、真偽は不明である。
 2)次に大谷氏は「100v(+1500消費ファンドで)」という部分を注記して、本来は「1100v(+500消費ファンドで)」とあるべきだと指摘しているが、果たしてそれは正しいのであろうか。というのは後に出てくる【69】パラグラフのマルクスの記述をみると、マルクスが「消費ファンド」という場合は、すでに転換されて、生活手段になっているものを意味するようだからである。だからマルクスが「100v(+1500消費ファンドで)」と書いた意図は、100vは I の可変資本の蓄積分であり、これを I は貨幣形態で保持しており、それ以外の(1000v+500m) I については、単純再生産の過程で考察したように、1500c(II)と置き換えられて、すでに生活手段になっている、だから「+1500消費ファンドで」と書いていると考えられるからである。だからこれは誤記ではないと解釈した方がよいように思える。
 3)上記の大谷氏の指摘とは別に、B)の I )に「4000c」とあるものこそ、明らかに「4400c」の誤記ではないかと思える。これはすべてを合計しても6000にならないことを考えれば、間違いなく誤記であろう。これも大谷氏は注記を忘れたか、それともマルクス自身は正しく書いていたのに大谷氏が誤写したのか、判断はつかない。

 よって上記の誤記の指摘にもとづいて、パラグラフそのものを正しく書き直すと、次のようになる(以後、正しい数値にもとづいて書き直したものは赤字で表記することにする)。

 〈|62|われわれの出発点であった9000の生産物は,再生産のために,用途(Bestimmung〕から見て,また貨幣取引を考慮しないとして,次のように準備されている。
 かつては

 A) I ) 4000c+1000v+1000m=6000            
                                =9000
   II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000

 〔いまでは〕


 B) I ) 4400c+100v(+1500消費ファンドで)=6000
                                    =9000
   II ) 1600c+ 800v(+600消費ファンドで)=3000 


                                       〉

 これをもとにこのパラグラフの考察を始めることにしよう。
 しかし、この表式を考察するために、先の【66】の途中で出てきたものと比較しながら考えよう。その表式をだからもう一度転写しておこう(ややこしいので、後者をB'としよう)。

 B')I ) 4400c+1100v(貨幣)=5500                 
                            =7900
   II ) 1600c+ 800v(貨幣) =2400

 BとB'との相違は、明らかに後者には資本家の消費ファンドが省略されていることである。しかしそれだけでなく、B'の場合は I の可変資本が追加分も含めてすべて貨幣形態のまま保持されているのに対して、Bの方は、蓄積分だけ、つまり追加的な可変資本だけが貨幣形態で保持されているが、それ以外の可変資本(既存の労働力に転換される部分)については、すでに転換されて、労働者の消費ファンドになっていることである。だから【66】で考察したような面倒な考察--賃金が週給で支払われる等々--は不要であるということである。またB'は現実に拡大された規模での再生産を開始する時点の資本総額を示しているのに対して、Bはただ出発式に置かれた社会的な商品資本総額が蓄積のために配置変えされた後のものを示しており、だからそこには資本家の消費ファンドも含まれたものになっていると考えることができる。】

【68】

 〈いまこの基礎の上での現実の蓄積が現実に行なわれれば,われわれは次のものを受け取ることになる。

  I )4400c+1100v+1100m
 II )1600c+  800v+  800m

                                         〉

 【もちろん、剰余価値率は100%と仮定されている。これは最初の(初年度に)現実の蓄積が行われた年末に、その一年間に生産された商品資本総額を表している。これが次の年の、つまり第2年度の出発式になるわけである。そして次のパラグラフから第2年度の蓄積の考察が行われている。】

 

2008年11月25日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その43)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


 (以下は、【66】パラグラフの解読の続きである)

 次にマルクスが〈蓄積のために変えられた配列〉として提示しているものを検討することにしよう(もう一度、その部分だけを下に書き写しておく)。

 B) I ) 4400c+1100v(貨幣)=5500                   
                              =7900
   II ) 1600c+ 800v(貨幣) =2400
   ──────────────────────────────
        6000c+1900v      +《150(II)》必要生活手段の形態
                                 での商品在庫

 この表式は、これから拡大された規模での再生産を開始するための、その最初の時点における資本配列を示している。つまり部門 I の資本家は生産手段で4400cを持ち、1100vの可変貨幣資本(うち100は追加分)を持っている。彼らはこれから必要な労働力(追加分も含めて)購入して、4400cの生産手段と合体させて、それを生産的に消費して拡大された規模での再生産を行うのだが、それに応じて週給なら週毎に1100vの可変貨幣資本うちから労働者階級に賃金を支払い、一年間で1100の貨幣を支払ってしまうわけである。そしてその支払を受けた I の労働者階級は、その賃金でIIから必要生活手段を購入して年度の終わりには、1100の貨幣はIIに還流することになる(残りの500は I の資本家が彼らの個人的消費手段をIIから購入することによってIIに還流する)。
  もし同じことが部門IIの可変資本についても言いうるとしよう。するとIIの場合は、拡大された規模での再生産を開始するためには、まず最初に1600の貨幣を投じて、 I から(1000v+100mv+500mk)を購入しなければならない(mvは剰余価値のうち追加可変資本として蓄積される部分、mkは剰余価値のうち資本家の消費分)。しかしそのちう500mk I については、 I の資本家がまず自分が保有する貨幣500を投じてIIから彼らの個人的消費手段を購入するとしよう。そうするとIIは最初に I に販売した500cIIの売り上げに、手持ちの貨幣1100を加えて合計1600を投じるわけである。こうして、IIは1600cを生産手段として持つことができる。そしてそれを生産的に消費するための労働力を追加分も含めて購入するわけだが、そのためにやはり同じく800vも最初は可変貨幣資本として貨幣形態で保持していなければならない(うち50は追加分)。こうしてIIは拡大再生産を現実に開始することができる。だからIIは出発の時点では、最初に1900の貨幣を持っており、うち最初に1100を投じ、それにIIcの一部の売上金500を加えて、1600の生産手段を購入し、残りの800を可変資本として貨幣形態のまま保持するわけである。その代わりにIIは、前年度に生産された1000c(すでに500cは I に販売したから)と750v、さらに追加的に必要生活手段として生産された剰余価値のうちの蓄積分150mの合計1900を、すべて商品資本(必要生活手段)のまま販売せずに、商品在庫として持っていることになる。なぜ、こうしたことが生じるのかというと、IIが生産したこれらはすべて労働者の必要生活手段の現物形態で存在しているが、それらは現実に拡大された規模での再生産が開始されるとともに、 I とIIの労働者階級(追加分も含んだ)に徐々に販売されていくと仮定されているからである。だからマルクスが〈150(II)〉だけを〈必要生活手段の形態で の商品在庫〉としているのはおかしいのである。ただマルクスがこうしているのは、ここでは、つまり拡大再生産の考察においては、恐らくIIの蓄積分だけを考えて、それ以外はすべて、すでに単純再生産の過程で考察済みだとして捨象しているからではないかと考えられる。

 次にマルクスは〈Bの生産は次の配列で始まったのであった〉として提示しているものも少し検討しておこう(同じくその部分だけをもう一度書き写しておく)。

       I )  4000c+1000v
                      =5500c1750v  合計=7250
      II )  1500c+ 750v

 この表式は、実は前年度に生産を開始した時点のものである。剰余価値率を100%とするなら、前年度の末には、われわれが拡大再生産の出発式としたBの表式になることになる(もう一度、B式を書き写しておこう)。

  I ) 4000c+1000v+1000m=6000       
                              合計=9000
 II ) 1500c+ 750v+  750m=3000

 これが前年度一年間に生産された総商品資本なのである。それが今年度の出発式になっているのだ。
 つまり前年度の出発時点の資本額は合計7250であった、ところが今年度の出発時点の資本額は合計7900である。つまり生産規模は650だけ増加している(これが年度末にその一年間に生産された総商品資本額で比較すると、9000対9800となり、増加分は800となる)。しかしこれは当然である。なぜなら、両部門の剰余価値、合計1750mのうち、部門 I では500mが蓄積に回り、部門IIでは150mが蓄積に回ったのだから、合計650だけ資本額が増加したのだからである。】

2008年11月24日 (月)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その42)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【66】

 〈BのII)は今では不変資本として1600cをもっている。これを処理するためにはII)は50vを貨幣で労働力の買い入れのために追加しなければならない。したがってIIの可変資本は750から800に増大する。そこでBのII)は次のようになる。

  B)II)1600c+800v+50m(50の追加可変貨幣資本のための在庫として)+100m(追加の100v I のための在庫として)+最後に600m(これはII〔の資本家〕自身の消費ファンドになる)

じっさい,BのII)では,その全生産物が蓄積のために必要な形態で整えられるためには,剰余価値のうち,まえよりも150だけ大きい部分が必要消費手段の形態で再生産されなければならない。拡大された規模での再生産が現実に始まれば, I の可変貨幣資本100は, I の労働者階級の手を経て、IIに還流する。これにたいしてIIは100m(商品在庫にある)を I 〔の[23]労働者階級〕に引き渡し,同時に,商品在庫にある50をII自身の労働者階級に引き渡す。BのIIの消費ファンドになる600mを引き去ると,蓄積のために変えられた配列は次のようになる。

 B) I ) 4400c+1100v(貨幣)=5500
                             =7900
   II ) 1600c+ 800v(貨幣) =2400
  -----------------------
       6000c+1900v    +《150(II)》 必要生活手段の
                             形態での商品在庫

他方,Bの生産は次の配列で始まったのであった。

    I )4000c+1000v
                   =5500c1750v  合計=7250
   II ) 1500c+ 750v

                                         〉

 【まずここでマルクスは〈BのII)は今では不変資本として1600cをもっている。これを処理するためにはII)は50vを貨幣で労働力の買い入れのために追加しなければならない。したがってIIの可変資本は750から800に増大する〉と述べている。つまりIIは1500cについては、すでに単純再生産の過程で考察したように、1000v( I )と転換してそれを生産手段として持ち、また100m( I )もすでに貨幣で購入したのだから、これも不変資本の現物形態として持っている。つまり1600cを転換した現物形態(生産手段)として持っている。だからこれだけの生産手段を生産的に消費して「処理」するためには、それに必要な労働力を購入する必要があるが、すでに750vは既存の労働力として購入は決定ずみであるから、新規に購入する追加労働力を既存の資本の有機的構成比である2:1で計算すれば、100cに対して50vとなり、よってそれを貨幣形態で保持するとマルクスはしているわけである(続く記述をみると750vについてもやはり貨幣形態のまま保持していることになっている)。つまりIIは100m( I )を購入するために貨幣100を支出し、いままた自身の追加労働力を購入するために、50の貨幣を追加しなければならないわけである。こうしてIIの可変資本は750から800に増加する。よってBのIIは次のようになる。

 II)1600c+800v+50m(50の追加可変資本のための在庫)+100m(追加の100v I のための在庫)+600m(IIの資本家の消費ファンド)

 これは何を表すかというと、まず1600cについては、うち1500cは、(1000v+500m) I と「置き換えられ」て、すでに生産手段に転換され、さらに追加的に貨幣で購入された100m( I )の生産手段と合体されたものである。800vについては、そのうち50は貨幣形態のままで保持するとされており、後の記述では750も貨幣形態のままのようである。だからこの800vは、拡大された再生産が開始されるとともに、すでに前年と同様に雇用された労働者には750を、今年度に新たに雇用された追加労働者には50を、例えば週給なら週ごとに順々に支給される可変貨幣資本と考えることができる。50mは今年度に追加的に雇用される労働者に販売する生活手段の在庫であり(その販売によってIIは最初に持ち出した貨幣50を回収する)、100mは I 部門で今年度に新たに追加的に雇用された労働者に販売して、最初に100m( I )を購入するために投じた貨幣100を回収するための生活手段の在庫である。そして最後に600mはIIの資本家のための個人的消費手段であり、IIの資本家たちは相互に貨幣を出し合ってそれを購入して消費することになる。
 ところで、ここまで考えて、少し疑問が生じてくる。すなわち前年度と同じ労働者を雇用する可変貨幣資本750を貨幣形態で持っているのであれば、前年度に生産された商品資本750vIIはまだ実現されておらず、商品在庫として存在していなければならない。もしIIにおける追加可変資本について、一方でそれを貨幣形態で持ちながら、他方で、それを商品在庫として持っていると仮定するなら、当然、前年度に引き続いて今年度も雇用される労働者についても同じ仮定をすべきと思えるからである。しかし何故か、マルクスは既存の労働者分については可変資本の貨幣形態での保持は仮定しながら、彼らに販売する生活手段を在庫として保持することについては不問にしている。あるいはマルクスにとっては、IIの750vについては単純再生産の過程で考察済みだとの判断があるのかも知れない。しかし一応、疑問として提示しておく。
 さて、だからBでは全生産物が蓄積のために必要な形態で存在するためには、剰余価値のうち前よりも(この「前よりも」というのは、「単純再生産の場合よりも」ということであろう)、150だけ大きい部分が必要消費手段の形態で再生産されなければならない。つまり機能配置が単純再生産とは変えられていなければならない。単純再生産の場合のように、IIの剰余価値のすべてがIIの資本家のための消費手段ではなく、 I の追加労働者の分(100)とIIの追加労働者の分(50)の合計150だけが必要消費手段として、つまり労働者の消費に充てられる現物形態で生産されていなければならないということである。そしてこの150というのはIIの剰余価値750mのうち蓄積に回される部分に他ならない(だからIIの蓄積率は I が50%だったのに対して、150/750=20%ということになる)。つまりIIの蓄積に回される剰余価値部分はそれまでの資本家の消費手段としてではなく、労働者の必要消費手段として生産されていなければならないということである。(同じようなことは I についても言いうるであろう。すなわち蓄積される500m( I )のうち追加不変資本に転化される400mについては、単純再生産の場合であれば、IIで充用される生産手段(消費手段の生産のための生産手段)として生産される必要があったが、今度は I のための生産手段(生産手段の生産のための生産手段)として生産されていなければならない、つまり I についても、そのような機能配置になっていなければならないわけである)。
 すでに指摘したように、拡大された規模での再生産が現実に始まれば、 I の追加的可変貨幣資本100(これはIIが最初に100m( I )を購入するために支出した貨幣である)は、 I の追加的労働者階級の手を経て、IIに還流する。これに対してIIは100m(商品在庫としてある)を I の追加的労働者階級に徐々に引き渡し、同時に、商品在庫にある50m(II)もII自身の追加的労働者階級に引き渡し、最初に投じた追加可変貨幣資本50を回収する。(何度もいうが、 I 、IIにおける追加的な可変資本についてこうした仮定をするのであれば、本来なら既存の可変資本-- I の場合は1000v、IIの場合は750v--についても同じような仮定をしなければならないであろう。恐らくマルクスはそれはすでに単純再生産の過程で考察済みとして省略しているのであろう)。

 (以下、このパラグラフの解読は字数の関係でここで中断する。続きは次回に。)

 

2008年11月19日 (水)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その41)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 


 【2、拡大再生産の法則】

 
 【草稿では、ここにはただ単に横線が引かれているだけである。しかしこの横線は、重要な意味も持っていると考えている。というのは、われわれはここから大項目「2、拡大再生産の法則」が始まると考えているからである。ただそれは、われわれが最初に提示した全体の見通しにもとにそう考えているのであって、とりあえず、そうした大項目を設定しておいて、その内容の検討に入り、その是非については最後に再び総括的に考えることにしよう。】

【62】

 〈A) 単純再生産の表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000
                               合計=9000
  II ) 2000c+ 500v+ 500m=3000

  B  拡大された規模での再生産のための出発表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000
                               合計=9000
   II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000

 

 【ここで新たな表式が提示されている。単純再生産の表式(A式)は、以前、単純再生産の考察を行ったところで提示された(全集版S.396)ものと同じであり、拡大再生産の表式(B式)は、【44】パラグラフのa)式とくらべると、II部門の有機的構成が変わっている。a)式では4:1と部門 I と同じであったのが、今回は2:1になっている。ただ両式の商品資本総額はどちらも9000として、蓄積に必要なのは量的拡大ではなく質的な(機能配置の)変化であることを示している。以下、主にB式にもとづいて、拡大再生産の表式による敍述が試みられる。この一連の計算でマルクスは何を課題としているのかについては、その後を辿るなかでおいおい考えて行くことにしよう。】

【63】

 Bの I で,剰余価値の半分,つまり500が蓄積されると仮定すれば,われわれがまず受け取るのは1500c(II)と取り替えられるべき1000v+500m( I )すなわち1500 I である。この場合にはBの I )4000c+500mが残り,この後者の500mが蓄積されることになる。{1000v+500m( I )が1500cII と置き換えられるのは単純再生産の過程であって,すでに単純再生産のところで論じた。}〉

 【ここでマルクスはBの I 部門で剰余価値の半分500が蓄積されると仮定し、その場合に〈われわれがまず受け取るのは1500c(II)と取り替えられるべき1000v+500m( I )すなわち1500 I である〉と述べている。われわれがまず受け取る〉というのはやや奇妙に思えるが、要するに500mが蓄積に回るのだから、それは資本家の消費として支出されず、だから個人的消費に回るのは1000vと500m、すなわち1500 I だという意味であろう。だから残りは4000cと500mであり、後者は蓄積されるわけである。またここで〈1000v+500m( I )が1500cII と置き換えられるのは単純再生産の過程であって,すでに単純再生産のところで論じた〉ことも確認されている。ただここでマルクスは単に〈置き換えられる〉と述べているだけであることにも注意を促しておこう。】

【64】

 〈500m( I )のうち400は不変資本に転化し100は可変資本に転化すると仮定しよう。このように資本化されるべき400mの〔 I の〕内部での転換はすでに論究した。つまり,それはそのままc( I )に合体されることができるのであり,そこでわれわれはB)の I )として,4400c+1000v+100m( I )を受け取ることになる。〉

 【ここでは I の蓄積される500mが I の既存の有機的構成である4:1の割合で、すなわち400は不変資本に、100は可変資本に転化すると仮定されている。a)式では、蓄積される有機的構成は部門IIについてだけまず仮定して、それに合うように部門 I の蓄積の割合が前提されていたが、今回は部門 I での蓄積の有機的構成比がまず仮定されていることに注意すべきであろう。そしてマルクスは不変資本に転化される400mの I の内部での転換についてはすでに論究したと述べているが、これは単純再生産で4000c( I )の I 内部での転換と基本的には同じだからである。だから400mはそのままc( I )に合体されるとしているのである。
 次にマルクスは〈そこでわれわれはBの I )として、4400c+1000v+100m( I )を受け取ることになる〉と述べているが、ここで100mは I で可変資本に転化される予定の剰余価値の蓄積分の一部であるが、まだそれは実現されて可変貨幣資本に転換されておらず、依然として商品資本のままで存在していることに注意が必要であろう。ただ不変資本に転化される部分の400mはすでに転換されて4000cと合体されてしまっている。】

【65】

 〈B)のII)のほうでは,蓄積のために I から100m( I )を買い,それが《今度は》II の追加不変資本になるが,他方,II)が支払う貨幣は I 追加可変資本の貨幣形態に転化する。そこで,B)の I )は,4400c+1100v(貨幣で)5500となる。〉

 【次に部門IIに考察が移り、部門IIでは、蓄積のために I から100m( I )を買い、それがIIの追加不変資本になるとされている。つまり100m( I )というのは、 I の可変資本に転化されるべき蓄積分であるが、それをIIがその追加不変資本に転換するために買うと前提されているのである。つまりIIの蓄積は、だからこの場合は I の蓄積に規定されて決まってくるものと前提されている。a)式ではIIの追加不変資本分140m(II)に対応して、140m( I )が販売されると仮定されていたが、今回は部門 I の蓄積に対応して、部門IIの蓄積が仮定されている。
 そしてその100m( I )を購入するためにIIが支払う貨幣について、何もここでは論じられていない。a)式の考察では、それはIIが現金で購入する必要があると仮定されており、そのための〈貨幣源泉〉が議論されたのに、ここではただIIが貨幣を支払うことが仮定され、その貨幣が I の追加可変資本の貨幣形態に転化する、とされている。こうしてBの I は〈4400c+1100v(貨幣で)=5500となる〉とされている。つまりこれは部門 I の資本家の個人的消費分を除いた蓄積を開始する資本総額を表している。そのうち不変資本部分(追加分も含めた)については、すでに転換ずみであるが、可変資本については、貨幣形態で保持したままとされている。これは恐らくマルクスは蓄積の開始時点では、可変資本については、貨幣形態のままで保持して、蓄積が進む(生産が進む)とともに、順次(例えば週給で)労働者(追加労働者も含めて)に支払われると考えているからであろう。だから可変資本が貨幣形態のままであるということは、必ずしも追加労働者も含めて労働力が購入されていない(つまりその部分の転換がされていない)ことを意味するわけではないであろう。
 ただし細かいことをいえば、マルクスは1100v全部が貨幣形態で存在するとしているが、しかし1000vについては、すでに【63】で1000c(II)と〈置き換えられるのは単純再生産の過程であって、すでに単純再生産のところで論じた〉と述べていたのだから、1000vはすでに1000c(II)と「置き換えられた」と仮定するなら、少なくとも1000vについてはすでに貨幣形態ではないはずなのではないだろうか。しかしまあ、これはよいとしよう。】

2008年11月15日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その40)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は、【61】パラグラフの解読に続く「補足」である。)

 

 〔補足〕

 {さて、以下はまったくついでに論じるのだが、こうしてマルクスが本来問題にしているものを忠実に辿れば、いわゆる表式a)が多くの論者(例えば不破哲三氏)が考えるようなものでは決してないことがわかるのである。それを少し論証してみよう。
 もう一度表式a)を概数を省くために次のように書いて考えてみよう(もちろん言うまでもないが、概数を厭わないならマルクスの数式のままでもよいのである)。

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000
                              合計=8250
  II ) 1500c+ 375v+ 375m=2250

  ここでマルクスは I 、II両部門ともその剰余価値の半分を蓄積すると仮定している。多くの論者はこうしたマルクスの仮定が間違っているのだというのである。しかし果たしてそうか。
 マルクスはそれぞれの部門の蓄積率を50%とはしたが、それがどのような配分で、すなわちどのような有機的構成にもとづいて行われるかについては、第II部門についてだけ、旧来の有機的構成、すなわち4:1でなされると仮定しているだけで、第 I 部門については、まったくその蓄積分の構成については論じていない。ただ第 II 部門はその追加不変資本150m(II)を第 I 部門から現金で購入すると仮定しているだけである。これは何を意味するかは明らかである。これは部門 I の蓄積は500m( I )のうち、150mは追加可変資本に投下するということを意味するのである。とするなら、残りの350mが追加不変資本に投下されるということでしかない。つまり部門 I の蓄積の有機的構成は、マルクスは直接には何も論じていないが、しかし、第II部門に生産手段をどれだけ販売するかという形で、その追加可変資本の蓄積量を明らかにしており、その結果、部門 I の蓄積の追加不変資本と追加可変資本の割合は7:3で行われるとマルクス自身は仮定していることがわかるのである(ところが不破氏も含めて多くの論者は、マルクスが一つもそのように仮定もしていないのに、第 I 部門も既存の有機的構成比4:1で蓄積するのだと暗黙のうちに前提して、マルクスが一つもやってもいない計算をして、だから表式a)でマルクスが両部門の蓄積率を「何気なく」50%にしたのが「新たな災いのもと」であり、「つまずき」だというのである。だからそれはマルクスがまだこの時点では、拡大再生産の正しい表式に到達していなかったことを示しており、マルクスが依然として「試行錯誤」の中にあることを示しているのだ、などと中傷して恥じないのである!)。
 そうすると第1年度の蓄積のために配置転換された表式は次のようになる(但し、あらかじめもう一度断っておくが、マルクス自身は表式a)で拡大再生産の表式の年次展開の計算をやるつもりなどはなく、それがこの表式を提示した目的では無かったこと、課題は別にあったことはすでに何度も指摘してきたのであって、だから以後の計算はあくまでも、マルクスが表式a)では依然として試行錯誤の中にあり、混乱しているかに主張する馬鹿げた論者たち--不破氏がその典型だが--に対する反論のためにだけに論じるのだ、ということを確認しておいて欲しい)。

    I ) (4000c+350c)+(1000v+150v)+500m=6000     
                      
   II ) (1500c+ 150c)+(375v+37.5v)+ 187.5m=2250    

 だから第1年度の生産の開始は次式で行うことになる。

  I ) 4350c+1150v
                  
 II ) 1650c+ 412.5v

 今、剰余価値率を100%とすると、第1年度の末には次のようになっている。

   I ) 4350c+1150v+1150m=6650
                                                            合計=9125
  II ) 1650c+ 412.5v+412.5m=2475

  ここでもやはり両部門とも蓄積率を50%とする。ただし第II部門だけ旧来の有機的構成(4:1)で蓄積を行うが、第 I 部門については、第II部門の蓄積に合う形で蓄積するという仮定しか存在しない。すると第2年度の蓄積のための配置転換は次のようになる。

   I ) (4350c+410c)+(1150v+165v)+575m=6650
               
  II )(1650c+165c)+(412.5v+41.25v)+206.25m=2475

 そして第2年度の末には次のようになる。

   I ) 4761c+1315v+1315m=7390
                                                              合計=10112.5
  II ) 1815c+453.75v+453.75m=2722.5
    
 以下、計算は不要であろう。つまりマルクスの仮定--蓄積率は両部門50%で第II部門の蓄積が旧来の有機的構成(4:1)で行われ、それにもとづいて第 I 部門の蓄積の構成比が決まってくるという仮定--にもとづけば、決して表式a)が不破哲三氏などが言うような未完成なものではないことがわかるであろう。不破氏はこうしたマルクス自身が仮定していることさえも正確に読み取る努力を怠り、表式a)でもマルクスは第 I 部門の蓄積を既存の有機的構成比の4:1で行うと仮定していると勝手に独断して、しかもマルクス自身は何一つやってもいない計算をやっているかに論じ立て、「第二年目についての計算をいくら進めても、部門 I と部門IIとの関係をなりたたせる合理的な数字が出てこないのです。マルクスはああでもない、こうでもないと考えをめぐらせ、......なぜ数式的にうまくゆかないのか、あれこれと袋小路からの出口を探すマルクスの模索には、あせりの調子さえ感じさせるものがあります」(前掲書198頁)などと見てきたようなウソを並べているのである。しかし、上記の計算結果を見ても、マルクス自身が想定している条件をもとに計算しさえすれば、表式a)が決して、「数式的にうまくゆかない」といったものではないことが分かるであろう。不破なる人物が、これを見ても如何に出鱈目であるか、いい加減な自身のマルクス読みを棚に上げて、どれほどマルクスを侮辱しているかが分かるであろう。しかし、まあ、怒りは納まらないが、これぐらいにしよう。あるいはこれは、少なくとも表式a)に関する限りでは、要らざる考察であったかも知れないからである。}】

2008年11月12日 (水)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その39)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

(以下は、【61】パラグラフの考察の続きです)

 では問題をどのように考えればよいのであろうか。マルクスのようにまず外観上の困難を提示するというような回りくどいやり方をやめて問題をストレートに論じるなら、次のように考えるべきであろう(但し数値はマルクスの間違った数値をそのまま使う)。

 部門 I の資本家は1000mの剰余価値の半分500mを蓄積に回す。彼らはそのうち360mを追加不変資本に、140mを追加可変資本に投下する(だからこの場合、部門 I は旧来の有機的構成とは異なる蓄積を行うことになる)。他方、部門IIの資本家も彼らの376mの剰余価値の半分188mを蓄積に回す。彼らはそのうち140mを追加不変資本に、48mを追加可変資本に投下する(IIの場合も有機的構成は旧来のものと異なるが、マルクス自身は旧来の4:1の構成にしたかったようであるが計算を間違ったためにこうした数値になっている)。
 部門 I でも部門IIでも、剰余価値を実現し、入手した貨幣を流通から引き上げて、将来の蓄積のために蓄蔵するAなる資本家群と、これまで蓄蔵してきた潜勢的可変資本が必要な額に達したために、それを流通に投じて現実に蓄積を行おうとしているBなる資本家群が存在するとしよう。そうすると貨幣流通を媒介した転換は次のように行われる。

 1)今、B(II)の資本家が必要な額に達した彼らの潜勢的貨幣資本188ポンドのうち140ポンドを投じて、資本家A( I )から140m( I )を購入し、また48ポンドを投じてII部門において追加労働者を雇用する。こうして資本家B(II)は貨幣資本188ポンドを流通に投じて、140m( I )を追加的生産手段として購入し、別途購入した追加労働力とを生産過程で合体させ、現実の拡大された規模での再生産を行う。またA( I )の資本家たちは彼らの売り上げ140ポンドを流通から引き上げ蓄蔵する。
 2)A( I )の資本家たちは、500mのうちすでに140mはB(II)の資本家に販売したので、残りの360mをB( I )の資本家に販売し、その売り上げを蓄蔵する。こうして彼らは500mの剰余価値をすべて実現し、その売り上げ500ポンドを流通から引き上げ蓄蔵したことになる。
 3)B( I )の資本家は、すでにこれまで蓄蔵して必要な額に達した500ポンドを投じて現実の蓄積を行おうとしている。彼らはまずそのうち360ポンドを投じてA( I )の資本家から追加的生産手段を購入する。さらに彼らは残りの140ポンドを投じて、新たな追加的労働者を部門 I で雇用する。こうして彼らはこれまで蓄蔵してきた貨幣資本500ポンドをすべて投じて、追加生産手段と追加労働力を購入し、生産過程でそれらを合体させて現実に拡大された規模での再生産を行う。
 4) I で新たに雇用された追加労働者は、賃金として受け取った140ポンドを使って、A(II)の資本家から生活手段を購入する。こうしてA(II)の資本家は彼らの蓄積に回すべき剰余価値188mのうち140mを販売し、その売り上げを将来の蓄積のために蓄蔵する。また残りの48mの生活手段はIIで追加的に雇用された労働者に販売し、やはりそれを蓄蔵する。こうしてA(II)の資本家は彼らの剰余価値188mをすべて販売し、その売り上げ188ポンドをすべて蓄蔵したことになる。
 5)またII部門で新たに雇用された追加労働者はB(II)から支払われた48ポンドを使ってA(II)から彼らの生活手段を購入し、彼らの労働力を再生産する。
 6)こうしてすべての剰余価値を表す商品資本は実現され、その売り上げは将来の蓄積のために蓄蔵されるとともに、これまで蓄蔵されてきた潜勢的貨幣資本は現実に投じられて、拡大された規模での再生産が開始されることになる。

 こうしてマルクスが〈一つの新しい問題にぶつかる〉とした難題、すなわち蓄積のための〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉という問題は解決されている。それは部門 I における不変資本の蓄積の場合に考察したのと同じように、IIにおいても、現実に蓄積をする資本家群Bが存在する一方で、他方でこれから将来の蓄積のために必要な額に達するまで貨幣蓄蔵を繰り返す資本家群Aが存在することを前提することである。そうすれば、IIにおける140m( I )を購入する資本家は、ただ一方的に購入するだけで、 I にどんな商品も販売する必要がない存在として登場するであろう。このように、マルクスの考えていた謎解きは、これから現実に蓄積するために一方的販売を行う資本家群Bを前提すると同時に、ただ販売するだけで購買せずに、将来の蓄積のために売り上げを蓄蔵する資本家群Aを前提すれば、これ以外に新たな〈貨幣源泉〉といったものをIIで探し回る必要などはないということなのである。
 確かに I の不変資本の蓄積の場合とは異なり、今回の場合は、 I 、IIの追加労働者が媒介項として入ってくるが、彼らはただ資本家から支払われた賃金をすぐに生活手段の購入に支出する存在であり、その限りでは、ただ媒介するだけで、何ら新しい問題を持ち込むものではないことが分かる。もちろん、これはすべてが均衡していることを前提に考察しているからそうなのであって、現実の過程はこうした均衡が前提されているわけではない。だから労働者が介在することはそれだけ過程を複雑にし、過程の攪乱の可能性を一層増大させる契機であることは確かであろう。
 こうした結論を導き出すために、マルクスは〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉とその可能性をあれこれと探し回り、しかしそれらの考えられうる可能性はよく考えるならすべて不可であることを反証するという回りくどい方法をとっているのである。つまりもともと〈貨幣源泉などはIIのどこにもないし、その必要もないのだ〉というのが、マルクスがこうした謎めいた論証の結論として想定していたものなのである。
 なぜなら、 I でわれわれが想定したように、当然、IIにおいても、諸資本の蓄積の年齢階層は様々でありえ、一方で現実に蓄積を行う資本家たちが存在するなら、他方で、将来の蓄積に備えて当面は貨幣蓄蔵を繰り返すだけの資本家たちも存在することは当然ではないだろうか。それならそれ以外に〈貨幣源泉〉をIIで探し回る必要がないのは、 I でそうであったのと同じである。どうしてIIにおいてだけ蓄積のための貨幣源泉なるものを探し回る必要があるのであろうか。IIの資本家も資本家という点では I の資本家と異なることはないはずだからである、云々。これがマルクスが最終的にはこの謎のカラクリとして考えていたことであろう。

 以上が、われわれが最初に想定した、大項目「1、拡大再生産の概念」に当たる部分である。つまり以上で拡大再生産の概念は展開されたのである。もちろん、マルクスが当初想定したであろうものにはほど遠いほどそれは未完成ではあるが、しかしまがりなりにも拡大再生産が単純再生産とは質的に異なること、だから拡大再生産のためには最初から機能配列が単純再生産とは異なるものが前提されなければならないことは明らかにされたのである。あとは実際に、そのような配列の条件を満たす具体的な数値をつかって拡大再生産の表式を想定し、そこに内在する諸法則を究明していくことことが次の課題となるのである。

 (以上で、【61】パラグラフの解読は終わりであるが、このあと、先に不破哲三氏の諸説を批判したが、その補足が続くことになる。しかしそれを加えると字数オーバーになって中途半端なところで切断しなければならなくなるので、それは次回に回すことにする。)

2008年11月 7日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その38)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【61】

 〈その1つは,資本家IIの一部分が他の部分をだまして貨幣を掠めることに成功することである、新たな貨幣資本の形成のためには,われわれの知っているように,あらかじめ通流媒介物が拡大されていることはけっして必要ではない。どの方面かで貨幣が流通から引きあげられて蓄蔵貨幣として貯えられるということのほかには,なにも必要ではない。この貨幣が盗まれたものであり,したがってまた資本家IIのある部分のもとでの追加貨幣資本の形成がはっきりした貨幣損失と結びついているということが,云々、云々。〉

 【まずマルクスは〈二通の道〉のうち一つを問題にする。それは資本家IIの一部が他の部分をだまして貨幣を掠めることだという。しかしマルクスはこの考察を〈云々、云々。〉という形で最後まで敍述せずに終えている。
 しかしこれはある意味、検討するまでもないことであろう。というのは、マルクスはすでに【56】でいわば結論的に〈資本主義的機構の客観的な分析にあっては,この機構に依然として法外に付着しているもろもろの汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである〉と述べていたからである。資本家の一部が他の部分から貨幣を掠め取るというようなことは決して〈正常な貨幣源泉〉とは言い難く、マルクスがここで否定しているような〈理論的な困難を除くための逃げ道〉の一つでしかないであろうからである。だからマルクスにとっては、この後の敍述はすでに必要はないと思ったから〈云々、云々。〉という形で中断したと考えられる。

 ただマルクスは〈二通りの道〉と述べているが、一つの道しか論じていない。もう一つの道とはどういうものを想定していたのであろうか? これについては何も書かれていないから類推のしようもないが、次のような類推をやってみた。
 マルクスがこの時点でもう一度、敢えて〈新たな貨幣資本の形成のためには,われわれの知っているように,あらかじめ通流媒介物が拡大されていることはけっして必要ではない。どの方面かで貨幣が流通から引きあげられて蓄蔵貨幣として貯えられるということのほかには,なにも必要ではない〉ということを確認し、蓄積のための貨幣蓄蔵のためには新たな追加貨幣は不要なこと、既存の流通媒介物を前提して、ただその一部を流通から引き上げる可能性が生じさえすればよいということを確認している。そして先の【59】では〈この転換に必要な貨幣は,流通手段として機能するだけであって,正常な経過の場合には,当事者たちがそれを流通に前貸しした程度に応じて彼らのもとに還流してたえず繰り返し同じ軌道を走らなければならない〉とも述べている。こうしたことから類推するならば、貨幣が〈たえず繰り返し同じ軌道を走る〉というなら、もしこうした資本家同士が彼らの売買を互いにツケで買い且つ売るならば、それらは相殺されて、彼らが本来なら流通に投じなければならない貨幣は不要になるだろう。つまりその分の貨幣は遊離し、流通に投じるまでもなくなり、追加的貨幣資本の形成が可能になるのではないか、という考えである。
 しかしいうまでもなく、こうした可能性も否定されなければならない。というのはこうした貨幣は、マルクスが〈ただ流通手段としてのみ機能するだけ〉と述べているように、それらは貨幣資本として社会的には前提されていないものだからである。こうした貨幣は単純再生産の貨幣流通を媒介にした商品資本の転換で明らかにされたように、資本家たちが彼らが所持する商品資本とは別個に同時に所持するものと仮定され、ただ彼らの商品資本を流通させるためだけに流通に投じるもの(そして流通が終われば最初に投じた当事者の手許に還流してくるもの)と仮定されているものである。だからそれらは元々から商品資本(剰余価値)の実現形態として存在するものではないのである。だからまたそれらは決して蓄積元本にはなりえないものなのである。だからそれらが流通に不要なら、当然、蓄蔵されたままになるしかないが、しかしそれらは決して新たな追加的貨幣資本として登場することはないのである。

 勝手な類推はこれぐらいにして、われわれにはまだ解決すべき重要な問題が残っている。すなわちこのb)から始まった一連の〈一つの新しい問題にぶつかる〉として考察しているところで、果たしてマルクスは何を明らかにしようとしているのであろうか、という問題である。われわれはそれを考えるために、もう一度マルクスの展開をあとづけながら、本来ならそれは如何にして解決されるべきなのかを考えてみることにしよう。というのは、マルクスはこれまでと同様に、まず外観上の困難を提示して、それを解決するさまざまな可能性を列挙して、その上でそれらがすべて不可であることを論証するというやり方によって、課題を明らかにしようとしたと考えられるからである。
 マルクスが〈一つの新しい問題にぶつかる〉として考えているのは、明らかに部門IIにおける蓄積のための追加的潜勢的貨幣資本の形成のための蓄蔵貨幣の形成は如何にしてなされるのか、そのための〈貨幣源泉〉が部門IIのどこにあるのか、ということである。
 それを問題提起するために、マルクスはまず部門 I の500mがすべて部門 I 内部で蓄積に利用されることを前提する。ただその時に500m( I )のうちどれだけが追加的不変資本として、またどれだけが追加的可変資本として投下されるのかということは敢えて不問にしているのである。ここらあたりにマルクスの工夫とカラクリがあるように思える。ただマルクスは〈140m(II)はm( I )の諸商品のうちそれと同じ価値額の一部分によって補填されることによってのみ、生産資本に転化することができる〉と、部門IIでは追加的不変資本として投じられることは前提し、〈IIは140m( I )を現金で買わなければならない〉と述べている。マルクスは500m( I )がどういう割合で蓄積されるかについては敢えて詳しい考察を省いているのであるが、密かにここではそのうちの140m( I )を可変資本に投じることが前提されていることを明らかにしている。なぜなら、マルクスは部門 I が140mをIIに販売することは認めているからである。ただ部門 I は140mはIIに販売するが、しかしIIからは一切商品は購入しないとも述べている。だからIIは140m( I )を現金で購入する必要があるというわけである。
 確かに部門 I の資本家たちは140m( I )を販売するが、しかし彼らは決して同じ価値額だけの商品を部門IIの資本家から購入するわけではない。というのは、彼らは140m( I )をIIに販売して入手した貨幣を、部門 I において、新しい追加の労働力を購入するために支出するのであって、その限りでは、決してIIから商品を購入しないからである。マルクスが言っているのはこの事実である。
 しかしそれなら、とすぐに読者は考えるだろう。確かに部門 I の資本家はIIから商品を購入しないが、その代わりに部門 I に新たに雇用された追加労働者が彼らの生活手段を部門IIから購入するのではないか、と。だから資本家 I は部門IIからは直接には何も商品は購入しないが、彼らが追加可変資本として投じた貨幣は、 I の追加労働者を媒介して、部門IIに還流するではないか、と。だから資本家IIが例え現金で140m( I )を購入したとしても、彼らが流通に投じたその現金は、 I の追加労働者を媒介して彼らの手許に還流するのだ、と。確かにそうである。しかしそれをマルクスは500m( I )がどういう割合で蓄積されるかについて不問にすることによって、敢えて隠し、その上で、そこに外観上の困難を見いだそうとしたわけなのである。そこにマルクスの工夫があるのであるが、やや無理は否めない。(以下、このパラグラフの考察は次回に続く)

2008年11月 4日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その37)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【57】

 〈|61|(1)ここで,私の持ちまえの「寛容さ」で,シェフレを引用してもよい。〔)〕

 (1)ここにインクで「×)」というしるしが書かれている。〉

 【さて、【56】で指摘したように、『資本論』第1部に関して、〈資本家が労働力の現実の価値を支払うというほとんど資本家がやらないことを仮定することによって,まるでその資本家にたいして不法なことでもしたかのようにわめき立てる〉連中の一人としてシェフレの名が上げられている。シェフレとは如何なる人物でどのようにマルクスを批判したのか、少し調べてみた。

 まずマル・エン全集の人命索引には次のような紹介がある。

 〈シェフレ,アルベルト・フリードリヒ・エーバーハルト(1831-1903)ドイツの俗流経済学者、社会学者、階級闘争をやめるように説教し、ブルジョアジーとプロレタリアートとの協調を呼びかけた。〉

 次にマルクスは「アーノルド・ワーグナー著『経済学教科書』への傍注」(全集19巻)のなかで、ワーグナーの主張を逐一批判しながら、ついでに次のように述べている。

 〈ついでながら、私はたとえばぽ労働力の価値の規定にあたっては、その価値が現実に支払われるということから出発しているが、これは実際にはそうでないのだ。シェフレ氏は『資本主義』うんぬんのなかで、この点をとらえて「気まえがいい」とか、それに類することを言っている。彼がここであてこすっているのは、科学的に必要な手続きにすぎないのだ。〉(359頁、下線はマルクスによる強調)

 またエンゲルスはカウツキーへの手紙(1881年2月1日付)で講壇社会主義者について次のように批判しながらシェフレにも言及している。

 〈たとえ講壇社会主義者たちが、われわれ、プロレタリア社会主義者にたいして、襲うかもしれぬ過剰人口と、それから生じてくる新しい社会秩序の崩壊の危険を、われわれがどのようにして避けることができるのかという謎を彼らに解きあかすべきだと、執拗に要求していても、そんなことは、私が連中にそういう親切までほどこしてやる理由とはなりません。こうした連中自身の混乱した超弩級の賢明さから生ずるいっさいの疑惑や疑問を解いてやることは、ないしは、たとえば、シェフレひとりで何冊ものあの厚い著書にまとめている、恐るべきたわごとにいちいち反論するだけでも、まったく時間の浪費だと私は考えます。/これらの諸公が括弧づきで引用している『資本論』からのまちがった引用文のすべてを訂正しようとするだけでも、すでにかなり大きな一冊の本になるでしょう。彼らは、人に彼らの質問に答えてほしいと要求するまえに、まず読んだり書き写したりすることを習うべきなのです。〉(全集35巻123頁)

 またこの35巻の注解には、シェフレが一人でまとめたという「何冊もの分厚い著書」として次のようなものが列挙されている。

 〈1882年までに、アルベルト・エーバーハルト・フリードリヒ・シェフレは、とりわけ次の諸著を著わした。すなわち、『人間的経済の社会制度』第3版、全2巻、テユービンゲン、1873年、『資本主義と社会主義』第2版、テユービンゲン、1878年、『社会的身体の構造と生命』全4巻、テユービンゲン、 1875-1878年、『国家学のエンチュクロペディー』テユービンゲン、1878年、『租税政策原理』テユービンゲン、1880年、『協調主義的共済基金強制』テユービンゲン、1882年。彼の著作のうちで最も広く流布したのは、『社会主義の真髄』ゴータ、1875年である。この著書は、1891年までに13版に及んだ。〉

 これらの著書でシェフレは『資本論』から引用しながら、それをねじ曲げて批判したようなのである。】

【58】

 〈こういうわけで,すぐまえに述べた目的のためには376v(II)ではどうすることもできないのである。〉

 【以上で、とりあえず第II部門における蓄積のための貨幣源泉はどこにあるのかの探索の最初の取り組みとして取り上げた376v(II)の考察は切り上げている。つまりそこには貨幣源泉と言えるようなものはありえないというのが一つの結論である。】

【59】

 〈しかし376m(II)のほうはもっと疑わしいようである。ここでは,同じ部門の資本家たちだけが相対していて,自分たちが生産した消費手段を互いに買い合い互いに売り合っている。この転換に必要な貨幣は,流通手段として機能するだけであって,正常な経過の場合には,当事者たちがそれを流通に前貸しした程度に応じて彼らのもとに還流してたえず繰り返し同じ軌道を走らなければならない。〉

 【マルクスはもう一つの考察の対象として376m(II)を取り上げる。ところがこの部分の特徴として、マルクスは〈ここでは,同じ部門の資本家たちだけが相対していて,自分たちが生産した消費手段を互いに買い合い互いに売り合っている〉と述べている。しかしこれは不可解である。というのは、この376m(II)について【49】では〈IIでも同じく剰余価値の半分が蓄積されることが前提されているのだから,ここでは188が資本に転化することになり,そのうちの1/4の47が可変資本で,これを概数計算のために48とすれば,不変資本に転化されるべき188-48=140が残る〉と述べていたからである(ただしマルクスは計算間違いをしているが、そのまま引用しておく)。つまり蓄積を前提すれば、決して〈同じ部門の資本家たちだけが相対していて,自分たちが生産した消費手段を互いに買い合い互いに売り合っている〉とは言えないのである。だからマルクスがここで述べている特徴は、単純再生産を想定するか、あるいは376mのうち蓄積した残り半分の資本家IIの個人的消費に入る部分に限定する場合にのみ妥当するであろう。マルクスの上記の既述だけではそのどちらかはわかりにくい。
 それはともかく、この場合、貨幣は流通手段として機能し、正常な経過においては、貨幣はそれを流通に投じた当事者の手ともに還流し、絶えずそれを繰り返すとマルクスは指摘している。】

【60】

 〈この貨幣を流通から引きあげ,こうして《XXX(1)》可能的な追加貨幣資本を形成するために蓄蔵貨幣を形成することは,二通りの道によってだけ可能であるように見える。

 (1)ここに,3文字ぐらいの語が消されており,その行上に1語ないし2語書かれているが,判読できない。〉

 【では、ここに如何なる貨幣源泉が潜んでいるというのであろうか。マルクスは、それは〈二通の道によってだけ可能であるように見える〉という。
 ただここでも注意が必要なのは、マルクスは〈この貨幣を流通から引きあげ,こうして可能的な追加貨幣資本を形成するために蓄蔵貨幣を形成すること〉と述べていることである。つまりマルクスが問題にしているのは、やはり蓄積のための可能的貨幣資本を形成するための蓄蔵貨幣の形成なのである。つまりこれはすでに指摘したように、【3】以下で部門 I について考察されていたものと基本的には同じであり、蓄積のための貨幣蓄蔵ということである(そのためには販売はするが購買はせずに貨幣を流通から引き上げる必要があり、外観上の困難をもたらしたのであった)。それが部門IIにおいて如何にしてなされるのか、これがマルクスの本来の問題意識であることがわかるのである。】

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