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2008年10月

2008年10月31日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その36)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【54】

 〈部門II は,それが充用する労働者たち--それは同時に彼らの労働力を充用する--が同時に直接に,《彼ら(1)自身の生産した》商品をふたたびまたこの部門から買わなければならないという点で,部門 I よりも有利な立場にあることを忘れてはならない。部門II は,彼らの労働力の買い手で[15]あると同時に,彼らが充用する労働力の所有者への商品の売り手なのだ。1)(2)したがって,部門II は,第一に--そしてこれは部門 I の資本家にも共通なことなのであるが--,容易に賃銀をその正常な平均水準よりも低く圧し下げることができる。これによって,可変資本の貨幣形態として機能している貨幣の一部分が遊離させられる。そして,もしもこの同じ過程がたえず繰り返されるならば,部門II での蓄蔵貨幣形成の,したがってまた可能的な追加貨幣資本の形成の,一つの正常な源泉になることができるのだが。われわれはもちろん,正常な形成を間題にしているここでは,偶然の儲け口とはなんのかかわりもない。また,忘れてはならないのは,現実に支払われる《正常な》労賃(それは,他の事情が変わらないかぎり,可変資本の大きさを規定する)はけっして資本家の善意によって支払われるものではなく,与えられた事情のもとで支払われざるをえないものなのだということである。これで,いまの説明の仕方は片付いている。376vを部門II が支出すべき可変資本として前提している以上,いま新たにぶつかった間題を説明するのに,II が前貸しするのは376vではなくて,《もしかしたら》350vでしかないかもしれない,などという仮定を,にわかにこっそりと持ちこんではならないのである。

 (1)「彼ら」--原語はihrであるが,ihnenの誤記であろう。
 (2)この「1)」は左側に突きだすように書かれている。この文中に「第一に」とあるところから見ても,この「1)」は後出の「2)」に対応するようにあとから書き加えられたものと思われる。さらにこの「1)」と次の語とのあいだに_| ̄ というしるしが赤鉛筆で書かれている(改行の指示?)。〉

 【さてそこで、マルクスは部門IIが部門 I とは異なり、部門IIで雇用される労働者は彼らが賃金の支払を受ける同じ資本家から彼らの必要生活手段を購入するという特徴に注目する。すなわち〈部門II は,彼らの労働力の買い手であると同時に,彼らが充用する労働力の所有者への商品の売り手〉であるということである。ここからマルクスは二つの可能性を見いだそうとする。このパラグラフではその1)がまず追究される。
 この1)で検討される可能性そのものは部門 I でも同じなのだが、資本家は彼らの賃金を正常な水準よりも低く押し下げて、それによって貨幣資本の一部分を遊離させ、それを部門IIでの蓄蔵貨幣形成のための〈一つの正常な源泉になることができる〉のではないかというのである。
 しかし〈正常な源泉〉というのであれば、正常な〉労賃も支払われることが前提されなければならず、だから367vを部門IIが支出すべき可変資本として前提している以上は、新しい問題にぶつかったからといって、それ以下の支払の可能性をこっそり持ち込むことはできないのだ、とこの可能性を否定するのである。】

【55】

 〈2)だが他方で,部門II は全体として見れば,労働力の買い手であると同時に,同じくふたたび自分自身の労働者に自分の商品を売る売り手でもある,という点で,部門 I よりも有利である。そしてこれをどのように利用することができるかということ--名目上は正常な労賃を支払いながら事実上は同じ労働者からその一部分を《相応の商品》等価なしにくすねてふたたび取り返す,あるいは盗み《返す》ことができるということ,これを一部は現物支給制度によって,一部は流通媒介物の変造(法的にはある[17]いは捕えられるものでないかもしれないが)によってやってのけることができるということ--,これについてはどの工業国にもだれにでもわかる材料がころがっている。たとえば,イギリス合衆国に。(1)この機会にこれを適当な例をあげてもう少し詳しく説明すること。(2)これは1)で述べたのと同じやり方であって,ただそれが変装され回り道をして実行されるだけのことである。だから,ここでも1)の場合と同様に退けられなければならない。《ここで問題になるのは現実に支払われる労賃であって,名目的に支払われる労賃ではないのである。》

 (1)この文の前にインクでΓ型のカギがつけられており,文の直後には「×」じるしがある。そしてこの文の左側にはインクで縦線が引かれ,そのいちばん上には「×」じるしが書かれている。
 (2)この点については,後出の,草稿67-68ぺ一ジの「ドラモンド氏」についての記述が参照されるべきであろう。〉

 【ここでは2)として、もう一つの可能性が上げられている。1)はいわば部門 I でも部門IIでも可能なものであった。しかし2)は部門 I にはない部門IIに固有なものである。つまり〈部門II は全体として見れば,労働力の買い手であると同時に,同じくふたたび自分自身の労働者に自分の商品を売る売り手でもある〉。だからこれを利用して、IIの資本家は〈名目上は正常な労賃を支払いながら事実上は同じ労働者からその一部分を《相応の商品》等価なしにくすねてふたたび取り返す,あるいは盗み《返す》ことができる〉のではないかというのである。その方法としては一つは〈現物支給制度〉、もう一つは〈流通媒介物の変造〉によってである。そしてマルクスはこれらは〈どこの工業国にもだれにでもわかる材料がころがっている〉という。
 しかしこうしたことも、結局、基本的には1)と同じであって、つまり〈正常な源泉〉を求める限りは〈正常な〉労賃を前提しなければならず、ただ名目上にそうであれば良いというものではないのだと、こうした可能性も否定されるのである。
 ところでこうした労働者から詐取する資本家のやり口について、大谷氏は「ドラモンド氏」の例についてマルクスが記述している部分を参照せよと書いているが、これは後にわれわれが検討しなければならない部分なので、その際に検討するとして、今回はパスしておこう。】

【56】

 〈要するに,資本主義的機構の客観的な分析にあっては,この機構に依然として法外に付着しているもろもろの汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである。ところが奇妙なことには,私にたいするブルジョア的批判者の《大》多数は,私が『資本論』の第1部のなかでたとえば,資本家が労働力の現実の価値を支払うというほとんど資本家がやらないことを仮定することによって,まるでその資本家にたいして不法なことでもしたかのようにわめき立てるのである!(1)|

 (1)最後の部分は不完全文章であるが,言わんとするところは明らかである。エンゲルスによる文章によっておく。〉

 【結局、マルクスは、資本主義的機構の客観的な分析にあっては、労賃の労働力の価値以下への押し下げであるとか、名目的には価値どおりに支払ながら、裏からこっそりとその一部を取り返したり盗み返したりして実質的にはそれ以下に引き下げるような〈この機構に依然として法外に付着しているもろもろの汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである〉と結論する。
 そしてついでに、ところがこうした科学的な客観的な分析方法を理解しない連中は、奇妙なことに、『資本論』第1部で資本家が労働者に労働力の価値どおりに支払うと仮定していることについて、まるで資本家に不法なことをしたかにわめきたてて批判するのだと指摘している。これは実際には、どういうことなのかについては、次のパラグラフ(【57】)で「シェフレ」をあげているので、その部分で検討することにしよう。】

2008年10月25日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その35)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【51】

 〈それどころか,II は,新たな可能的貨幣資本の形成のためには,すなわち現実の蓄積に伴っていてこの蓄積の条件を(資本主義的な基礎の上では)なしており実際にはまず単純な蓄蔵貨幣形成として現われる〔sich darste11en〕新たな可能的貨幣資本の形成のためには,まったく不毛の地のように見える。〉

 【確かに、140m(II)の剰余価値部分の商品資本が、まったく販売できないのであれば、IIにとって蓄積のための〈新たな可能的貨幣資本の形成〉はまったく不可能事であり、まったく不毛の地〉であることは明らかである。しかしいうまでもなく、こうした仮定そのものが不合理なものであり、ありえないことなのだが。

 ただここで注目すべきなのは、マルクスが〈新たな可能的貨幣資本の形成ためには〉を説明して、すなわち現実の蓄積に伴っていてこの蓄積の条件を(資本主義的な基礎の上では)なしており実際にはまず単純な蓄蔵貨幣形成として現われる〔sich darste11en〕新たな可能的貨幣資本の形成のためには〉と言い換えていることである。ここらあたりにマルクスの問題意識が那辺にあるかを類推する切っ掛けがありそうである。
 つまりマルクスは資本主義的な基礎の上で、現実の蓄積に伴っていて、その蓄積の条件になっているものとして、実際にはまず単純な蓄蔵貨幣形成として現われる〈新たな可能的貨幣資本の形成〉について述べているのである。つまりこれは現実の蓄積の前にまずそれに必要な額になるまでに、単純な貨幣蓄蔵が必要であること、それが資本主義的な生産の基礎上で蓄積のための必要な条件の一つになっているということを、マルクスは述べているわけである。つまりわれわれがb)の最初ところで指摘した問題意識がやはりマルクス自身にあることがこの一文を持ってしても分かるのである。

 しかしまあ、われわれは、マルクスの問題意識を類推するばかりでなく、その前にマルクスの説明をとりあえずは追うことにしよう。】

【52】

 〈まず第1に376v(II)がある。労働力に前貸しされたこの376の貨幣資本[14]は,商品(II)が買われることによって,貨幣形態にある可変資本という形態でたえず資本家IIのもとに帰ってくる。このようにたえず繰り返し出発点--資本家のふところ--から離れてはまたそこに帰ってくるということは,この循環のなかで運動する貨幣をけっしてふやしはしない。だからこれは貨幣蓄積の源泉ではない。この貨幣はまた,流通から引きあげられることもできないのであり,したがって蓄蔵貨幣の形態で可能的な新貨幣資本を形成することはできないのである。〉

 【さて、マルクスは蓄積のための〈貨幣源泉はII のどこでわき出るのか?〉と探索しようとするのだが、その手始めとして〈まず第1に376v(II)がある〉という。この376v(II)についての言及は【58】まで続くのであるが、こうしてわれわれが先に疑問としたものへの、一つの回答らしきものが得られるのである。
 すなわちわれわれは【49】でマルクスが単純再生産との対比において、拡大再生産の表式における独自の課題を確認するなかで、〈したがって,ここで研究しなければならないものとして残っているのは,500m( I )と376v+376m(II)とであって〉としていたことについて、次のような疑問を呈しておいた。

 〈2)マルクスは残された研究課題として376v(II)も上げている。しかしこれは本来は単純再生産ですでに考察済みのものではないのか、という疑問である。〉

 つまり本来なら376v(II)はすでに単純再生産で考察ずみであり、拡大再生産に固有の課題というものでは無かった筈なのであるが、しかしマルクスは何故か、それを考察の対象に上げていたのである。その理由がここに来て明確になったのである。つまりそれはIIにおける蓄積のための貨幣源泉はどこにあるのか、という"謎かけ"をやるために、敢えてそれを考察の対象に残したというわけである。
 しかしマルクスは単純再生産を考察したときに、すでに次のように指摘していたのである。

 〈部門 I では、労賃に投ぜられた貨幣、すなわち貨幣形態で前貸しされた可変資本が貨幣形態で帰ってくるのは、直接にではなく、間接にであり、回り道を通ってである。これに反して、IIでは500ポンドの労賃は直接に労働者から資本家に帰ってくるのであって、この復帰は、売買が同じ人々の間で繰り返されて彼らがかわるがわる商品の買い手または売り手として絶えず相対している場合には、常に直接的なのである。資本家IIは労働力の代価を貨幣で支払う。こうすることによって彼は労働力を自分の資本に合体させるのであり、そして、彼にとってはただ貨幣資本の生産資本への転化でしかないこの流通過程を経てはじめて自分の賃金労働者としての労働者に産業資本家として相対するのである。しかし、次に、第一段では売り手であり自分の労働力の商人であった労働者が、第二段では買い手として、貨幣所持者として、商品の売り手である資本家に相対する。こうして、労賃に投ぜられた貨幣は資本家の手に帰ってくる。これらの商品の販売に詐取などが含まれていないで、商品と貨幣とでの等価物同士が交換される限り、この販売は、資本家がそれによって儲ける過程ではない。資本家は労働者に最初は貨幣で次には商品で二度支払うのではない。資本家の貨幣は、労働者がそれを彼のもとで商品に換えるや否や、彼の手に帰ってくるのである。〉(全集版509-510頁)

 このように、マルクスは単純再生産では明確に〈資本家がそれによって儲ける過程ではない〉と述べている。つまりそこには〈商品と貨幣とでの等価物同士が交換される限り〉では〈貨幣源泉〉などはないと明確に語っていたのである。
 だから以下のマルクスの考察の結論もすでにミエミエであるが、しかし、まあそれをわれわれはとりあえずは追ってみることにする。

 このパラグラフでは、まずマルクスは単純再生産の考察のときと同じく、こうした貨幣が直接的に還流する〈この循環の運動からは貨幣をけっしてふやしはしない。だからこれは貨幣蓄積の源泉ではない〉と確認する。蓄蔵貨幣形態で可能的な新貨幣資本を形成することはできないのである〉

【53】

 〈だが,待て! ここにはなにか儲け口(1)はないものか?

 (1)「儲け口」--判読に苦しんだが,Schmusと読んでおく。次パラグラフにも出てくる。〉

 【しかし、マルクスはそうした中からも、敢えて貨幣源泉を探り出そうとあらゆる可能性を探ろうとする。ここには何か儲け口はないものか〉と。】

【54】

 〈部門II は,それが充用する労働者たち--それは同時に彼らの労働力を充用する--が同時に直接に,《彼ら(1)自身の生産した》商品をふたたびまたこの部門から買わなければならないという点で,部門 I よりも有利な立場にあることを忘れてはならない。部門II は,彼らの労働力の買い手で[15]あると同時に,彼らが充用する労働力の所有者への商品の売り手なのだ。1)(2)したがって,部門II は,第一に--そしてこれは部門 I の資本家にも共通なことなのであるが--,容易に賃銀をその正常な平均水準よりも低く圧し下げることができる。これによって,可変資本の貨幣形態として機能している貨幣の一部分が遊離させられる。そして,もしもこの同じ過程がたえず繰り返されるならば,部門II での蓄蔵貨幣形成の,したがってまた可能的な追加貨幣資本の形成の,一つの正常な源泉になることができるのだが。われわれはもちろん,正常な形成を間題にしているここでは,偶然の儲け口とはなんのかかわりもない。また,忘れてはならないのは,現実に支払われる《正常な》労賃(それは,他の事情が変わらないかぎり,可変資本の大きさを規定する)はけっして資本家の善意によって支払われるものではなく,与えられた事情のもとで支払われざるをえないものなのだということである。これで,いまの説明の仕方は片付いている。376vを部門II が支出すべき可変資本として前提している以上,いま新たにぶつかった間題を説明するのに,II が前貸しするのは376vではなくて,《もしかしたら》350vでしかないかもしれない,などという仮定を,にわかにこっそりと持ちこんではならないのである。

 (1)「彼ら」--原語はihrであるが,ihnenの誤記であろう。
 (2)この「1)」は左側に突きだすように書かれている。この文中に「第一に」とあるところから見ても,この「1)」は後出の「2)」に対応するようにあとから書き加えられたものと思われる。さらにこの「1)」と次の語とのあいだに_| ̄ というしるしが赤鉛筆で書かれている(改行の指示?)。〉

 【さてそこで、マルクスは部門IIが部門 I とは異なり、部門IIで雇用される労働者は彼らが賃金の支払を受ける同じ資本家から彼らの必要生活手段を購入するという特徴に注目する。すなわち〈部門II は,彼らの労働力の買い手であると同時に,彼らが充用する労働力の所有者への商品の売り手〉でもあるということである。ここからマルクスは二つの可能性を見いだそうとする。このパラグラフではその1)がまず追究される。
 この第一の可能性そのものは部門 I でも同じなのだが、資本家は彼らの賃金を正常な水準よりも低く押し下げて、それによって貨幣資本の一部分を遊離させ、それを部門IIでの蓄蔵貨幣形成のための〈一つの正常な源泉になることができる〉のではないかというのである。
 しかし〈正常な源泉〉というのであれば、正常な〉労賃も支払われることが前提されなければならず、だから367vを部門IIが支出すべき可変資本として前提している以上は、新しい問題にぶつかったからといって、それ以下の支払の可能性をこっそり持ち込むことはできないのだ、とこの可能性は否定するのである。】

2008年10月17日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その34)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 (以下は、【50】パラグラフの解読の続きである。)

 …………

 さて、マルクスが問題にするのは、IIの不変資本として蓄積される部分140m(II)が、実際に生産資本に転化することができるのは、IIの側での一方的な購買によってのみ行うことができる、というものである。というのは I の剰余生産物500m( I )は〈その全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているのであり、したがって商品IIと交換されることはできないからである〉という。
 ここでわれわれは【49】で指摘した疑問の一つが明らかになる。われわれはマルクスが〈ここで研究しなければならないものとして残っている〉ものを500m I と(376v+376m)IIとしていることに対して、次のような疑問を提示しておいた。

 〈1)マルクスは第II部門の蓄積額を188と計算したあとそれを既存の有機的構成(4:1)にもとづいて、可変資本にいくら不変資本にいくらと計算しているが、どうしてか第 I 部門の蓄積分500mについてはそれをやっていない。それはどうしてか、という疑問である。〉

 つまり本来なら I の蓄積分500mもIIと同様に、そのどれだけの部分が不変資本として、またしかじかの部分が可変資本として蓄積されるとすべきところを不問にしてきたのは、まさにここで「一つの新しい問題」を読者に提示するためであったことが分かるのである。
 マルクスは I の剰余生産物500m( I )はその全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているという。確かに I の剰余生産物500mは I の蓄積に回されるのだから、それは I の内部で蓄積に役立つといえばそのとおりである。価値から見れば確かにこれは正しい。しかし生産物の素材的内容から見れば、決してそうではない。なぜなら、500m( I )は商品資本としては、すべて生産手段からなっている。もしそれを I 部門の可変資本として蓄積する場合、それは I で新たに雇用される労働者の生活手段として役立たないからである。だからその部分については、やはりIIとの交換は不可避である。しかしマルクスはこうした分析はとりあえずは置いておいて、ただ500m( I )は I の内部で蓄積に役立つという前提だけに留めているのである。

 しかもこうした前提は、その前にマルクスが述べていることと矛盾しているかに思える。マルクスは〈140 m(II)は,m( I )の諸商品のうちそれと同じ価値額の一部分によって補填されることによってのみ,生産資本に転化することができる。{m I のうちmII と転換されるべぎ部分が,生産 I にも生産II にもはいることのできる生産手段か,それとも実際の生産手段としてはもっばら生産II にだけはいることができる生産手段か,このどちらかから成っているのでなければならないことは自明である。}〉と述べていた。つまりここでは明らかにm( I )にはm(II)を補填する部分が含まれていることが暗に前提されているのである。だからマルクスは〈したがって,II は140m( I )を現金で買わなければならない〉ともしているのである。つまり500m( I )うち140m( I )はIIに販売されることを前提しているのである。しかしこれは先にマルクスが述べていた I の剰余生産物500m( I )は〈その全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているのであり、したがって商品IIと交換されることはできない〉ということと矛盾しているかに見える。ただ良くみると、マルクスがここで〈したがって商品IIと交換されることはできない〉としているのは、最初に述べている〈ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換され……、同じように,商品が貨幣と交換され,その貨幣がまた別の種類の商品と交換される〉というような通常の意味での「商品交換」は出来ないと述べているのである。しかし少なくともマルクスは140m( I )はIIに販売されることは認めているのだから、少なくとも素材的には500m( I )の〈その全部が I の内部で蓄積に役立つことになっている〉とは言えないであろう。そのうちの140m( I )はIIに販売されるのである(もちろん価値としては500m I は全部部門 I に投下されるのだが)。
 ではマルクスは何をもって「新しい問題」としているのであろうか。それは140m( I )はIIに販売されるが、しかし I はIIから何も買わないということである。なぜなら、500m( I )はすべて蓄積に回され、資本家の個人的消費には回されないからだ、というのである(ここらあたりに、500m I が一部は不変資本として、他の一部は可変資本として投下されるかどうかをまったく不問にしたまま議論を進めている理由がありそうである)。〈したがって,II は140m( I )を現金で買わなければならないが,しかもそのあとで自分の商品を I に売ることによって彼のもとにこの貨幣が還流するということなしにそうしなければならないのである〉という。そして〈そのための貨幣源泉はII のどこでわき出るのか?〉というのが、マルクスがここで提起している〈一つの新しい問題〉なのである。

 何のために、マルクスはこうした〈一つの新しい問題〉を突きつけているのだろうか? それを考えるためには、なぜこうした問題が例え外観上であれ、生じているのかそのカラクリを考えてみれば明らかになる。それはすでに上記の考察のなかでも指摘してきたが、今一度、箇条書き的に上げてみよう。

 1)マルクスは500m( I )のすべてが蓄積に回されるとしている。しかし他方でそのうちの140m( I )はIIに販売されることも認めている。しかし I は140m( I )をIIに販売して受け取った貨幣額140をどのように蓄積に回すのか、何に投下するのかについてはマルクスは何も言わない。ただその全部が I の内部で蓄積に役立つと述べるだけである。
 2)しかし140m( I )がIIに販売されるということは、それが例え〈生産 I にも生産II にもはいることのできる生産手段か,それとも実際の生産手段としてはもっばら生産II にだけはいることができる生産手段か,このどちらかから成っているのでなければならないことは自明である〉としても、IIの生産手段として利用されることは明らかである。つまりそれは I の蓄積には現物形態としてはまったく入っていかないことは明らかなのである。だからマルクスが500m( I )の〈その全部が I の内部で蓄積に役立つことになっている〉という場合、そのうちの140m( I )の部分については、明らかにその現物形態としてではなく、その剰余価値額について述べているのであって、それが何に投下されるかはマルクス自身は何も述べていないが、少なくともそれは I の追加的な生産手段として投下されないことだけは明らかである。なぜなら、それは現物形態としてはIIの生産手段として販売されたのだから。同時に I の生産手段として役立つことなど出来ない筈だからである。それならその販売された貨幣額(実現された剰余価値)が、結局、 I の追加的な労働力の購入のために、すなわち I の追加的可変資本として投下されることは明らかであろう。しかしマルクスはそのことについてはまったく意図的に不問にして隠している。
 3)もし、140m( I )が I の追加的可変資本として投下されるなら、どうなるのであろうか。その場合は、140m( I )をIIに販売した貨幣額が、 I の追加的労働力の購入に投下され、それを受け取った I の追加的労働者がその貨幣でもってIIから彼らの生活手段を購入することによって、その貨幣額はIIに還流することになるのである。だからその場合は、〈したがって,II は140m( I )を現金で買わなければならないが,しかもそのあとで自分の商品を I に売ることによって彼のもとにこの貨幣が還流するということなしにそうしなければならないのである〉といった問題は生じないであろう。つまりマルクスが〈一つの新しい問題にぶつかる〉としているような事態は生じないのである。
 4)だから問題の根本は、マルクスが部門 I での蓄積を、部門IIの場合と同じように、一部を不変資本として、他の一部を可変資本として蓄積するというように、明確に仮定して論じていないところにあることが分かるのである。

 なぜマルクスはこうした仮定を明確にしなかったのであろうか? それは今の時点は分からない。ただマルクスがこうした「新しい問題」を提起している理由は、やはり最初にも述べたように、蓄積に伴う商品交換には、貨幣蓄蔵の契機がはいり、だから一方における一方的販売と他方における一方的購買という事態が生じ、しかもそれらが価値額として一致していなければならないという問題を部門IIにおける蓄積における「一つの新しい問題」として提起したかったと思うのである。ただそれがマルクスの意図したほどには明確には出来ていないということであろうか。
 ただそうした問題であるなら、すでに指摘したように、部門 I の不変資本の蓄積のところで考察済みではないのか、それがどうして「新しい問題」と言えるのか、という疑問が当然でてくるであろう。確かに蓄積には潜勢的貨幣資本のための貨幣蓄蔵の契機が必要であることそのものは考察済みである。しかし I の不変資本の蓄積の場合には、一方における貨幣蓄蔵者と他方における現実に資本を蓄積する資本家という、資本家同士の関係だけを問題にすれば良かった。しかし今回の場合は、 IIの場合は不変資本の蓄積だが、I の場合は可変資本の蓄積である。だから今回のケースは、両方の資本家が直接関係し合うものではないのである。今回の場合は、両方の資本家の補填関係の間に、 I の追加労働者が媒介項として入ってくるのである。しかも追加労働者は、貨幣蓄蔵とはまったく何の関係もない。彼らは支払われた賃金でただ生活手段を購入するだけである。つまり今回は I の不変資本の蓄積の場合とは異なり、 I の追加労働者を媒介して、なおかつ I とIIとのそれぞれの蓄積において、現実の蓄積に先行する貨幣蓄蔵がどのようにして行なわれるのか、そしてそれらの間にはどのような関連が生じてくるのか、という「新しい問題」が突き出されているのである。恐らくマルクスは、その「新しい問題」を、最初は外観上の困難として提起し、その解決の方法を示そうと考えていたのだが、ただそれが必ずしもマルクスの思惑どおりには十分な形では提起されえなかったように思えるのである(なおこの問題は、この草稿の一番最後のエンゲルスが「補遺」とした部分で再度論じられている)。

 いずれにせよ、マルクスは、そのための貨幣源泉はII のどこでわき出るのか?〉という外観上の困難を、これまでも繰り返してきたように、それを“解決”する方法をあれこれと考え出しながら、他方でそれらの解決方法の不合理を論証して否定するというやり方で、そうした困難そのものが一つの外観であることを暴露しようとするのである。それが以下のパラグラフの内容である。】

2008年10月12日 (日)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その33)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 (以下は、前回の不破氏の批判の続きである。何度もいうが、このブログには10000字という字数制限があるために、どうしてもこのように途中で文章が切断されることになってしまうが、ご容赦願いたい。)

 【……………………

 しかし私に言わせれば、こうした出鱈目なマルクス読みをみると、「思わず苦笑を誘われる」どころか、腹立たしい限りでしかないのである。自己の無理解を自覚せず、マルクスをわけも分からずに右往左往する小人と見做し、それに対して自分をあたかも何もかも分かっている大人と自惚れ、一段高いところから小人マルクスを見おろして「苦笑」して悦に入っている不破なる人物に対して、「お前は一体何様のつもりだ!」と言いたくなるのである。
 われわれはこれまでマルクスが書いているものをそのままとにかく理解しようと苦闘し、徹底して考え抜いてきた。なかなか理解できない部分についても、それは自分自身の無理解から来るものと考えて、とにかくマルクスの書いたものを前提に考え抜いてきたのである。そしてそうすれば、マルクスの書いているものは、エンゲルスの余計な修正を取り除けば、極めて明瞭であり、一貫していること、そこにはどんなジグザグも「試行錯誤」もないことを確認してきたのである。こうしたわれわれのマルクス読みからするなら、上記の不破氏のような解釈はまったく安易であり、お笑い草でしかないのである。

 不破氏は表式a)でマルクスは何を課題として考察しているのかについて何一つ真剣な分析をおこなっていない。彼は表式a)でもマルクスは「第二年目の計算をいくら進めても、部門 I と部門IIの関係をなりたたせる合理的な数字がでてこない」などと述べている。しかしマルクスは表式a)に関して、そうした計算を一つもやっていないのである。表式a)ではそうした計算をすることが課題ではないからである。彼はマルクスが一つもやってもいないことをあたかもマルクスがやっているかに空想をたくましくし、〈マルクスは、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらせ、「しかし、待て! ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」とか、「突然、仮定をすり替えてはならない」とかの言葉をあちこちに書きつけますが、この行き詰まりからの出口はどうしても見つかりません〉などと述べている。しかしここで不破氏が引用している「しかし、待て! ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」というのは、マルクスがb)と項目を打った部分(わわれの番号では次の【50】以下で)出てくる言葉であり、そこではマルクスは「一つの新しい問題にぶつかる」とのべているように、もはや問題は変わっているのである。そうしたそれぞれの項目--a)とb)--の課題の相違を考慮せずに、それらをまったくゴッチャにして論じているのが不破氏の読み方の特徴なのである。これを見ても彼のマルクス読みが如何に粗雑なものであるかがわかるのである。【50】以下のパラグラフではマルクスは何を課題にしているのかについては、すぐに考察する。

 しかし何度もいうが、表式a)でマルクスが考察しているのは、拡大再生産の表式では、単純再生産と違って何が独自の課題になるのかということである。単純再生産と異なる拡大再生産に固有の課題を確認すること、これが表式aを提示した意味である(だからこれは同じくこの表式をもとに考察を進めているb)と項目が打たれた部分、すなわち【50】パラグラフから【61】パラグラフまでの部分--横線を引いて新たな拡大再生産の表式の計算が始まる直前までの部分についても、基本的には同じことが言えるのである)。だからこの段階では I 、II両部門が同時に蓄積するという想定そのものが重要なのであって、それがどのような蓄積率でおこなわれるのかということはどうでもよいことなのである。だからこそマルクスは仮に剰余価値の半分が蓄積されると想定したに過ぎない。それはマルクス自身の未熟さや試行錯誤を示すものでは決してない。】

【50】

 〈b)(1)われわれはここで一つの新しい問題にぶつかるのであるが,ある種[12]類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ,同じように,商品が貨幣と交換され,その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ,という日常的な理解にとっては,このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるにちがいない。||60|140 m(II)は,m( I )の諸商品のうちそれと同じ価値額の一部分によって補填されることによってのみ,生産資本に転化することができる。{m I のうちmIIと転換されるべぎ部分が,生産 I にも生産IIにもはいることのできる生産手段か,それとも実際の生産手段としてはもっばら生産IIにだけはいることができる生産手段か,このどちらかから成っているのでなければならないことは自明である。}この補填はIIの側での一方的な購買によってのみ行なわれることができる。というのは,まだこれから考察されるべき剰余生産物500m( I )はその全部が I の内部で蓄積に役立つことになっているのであり,したがって商品IIと交換されることはできないからである。換言すれば,それが《 I によって》同時に蓄積もされ食われもするということはありえないからである。したがって,IIは140m( I )を現金で買わなければならないが,しかもそのあとで自分の商品を I に売ることによって彼のもとにこの貨幣が還流するということなしにそうしなければならないのである。しかもこれは,毎年の新たな《再》生産のたびに--それが拡大された規模での再生産であるかぎり--たえず繰り返される過程なのである。そのための貨幣源泉はIIのどこでわき出るのか?

 (1)この「b)」には,赤鉛筆でL型のカギがつけられている。〉

 【このパラグラフにマルクスはb)という項目を付けている。これはいうまでもなく、【41】にa)としたのに対応している。このa)、b)二つの項目の付け方はやや判りにくい。一体、マルクスはこの二つの項目をどういう意図によってわけたのであろうか? この問題について少し考えてみよう。
 a)ではマルクスは「部門IIでの蓄積」として、単純再生産を基礎に拡大再生産を考えた場合の「困難」について分析を進め、結局、拡大再生産は単純再生産とは違った別の配列が前提されることを明らかにする。これが前半部分(【41】~【43】)である。そうした結果を踏まえて、【44】からは最初から機能配列が単純再生産と異なる新たな表式を呈示し、その分析を開始する。最初は単純再生産と比較して、再び拡大再生産は生産の規模(量)の問題ではなく、機能配置(質)の問題であることを指摘する。そしてさらに新しい拡大再生産の表式を分析するとして、拡大再生産の表式では何が独自の課題であるかをやはり単純再生産との関連のなかで明らかにする。つまり拡大再生産にはすでに単純再生産で論じたものが含まれており、だからそうしたものは論及する必要はないこと、拡大再生産で独自に問題にすべきことは、 I 部門の蓄積ファンドである I 500mとII部門の376vと376mであることを指摘するのである。これがこれまでのa)で論じられたことである。
 b)もその限りでは確かに一つの「困難」の考察であることは明らかである。それは外観上の「困難」なのだが、しかし困難であることは確かなように思える。つまりマルクスは、実際の拡大再生産の表式の計算に移る前に、その前提として、二つの困難を取り上げ、そうすることによって、単純再生産とは異なる拡大再生産に固有の課題について明確にしようとしたと考えられる。だからこのa)、b)とも実際の拡大再生産の表式の計算--それは拡大再生産に潜む法則性を解明することが課題になるのであるが--に移る前の一定の導入的部分といえるかも知れない。

 とにかくマルクスが「一つの新しい問題にぶつかる」として論じている内容について検討を進めることにしよう。それは果たして一体何なのか、マルクスはその問題提起によって何を明らかにしようとしているのか、それが問題である。
 まずマルクスは〈ある種類の諸商品が他の種類の諸商品と交換されるのが常だ,同じように,商品が貨幣と交換され,その貨幣がまた別の種類の商品と交換されるのが常だ,という日常的な理解にとっては,このような問題があるということだけでも奇妙だと思われるにちがいない〉と述べている。これは何を意味するのか、これは要するに蓄積のための商品交換には、普通の商品交換としてわれわれが考えているものと異なる要素が入っていくることを暗示しているのである。それは何か、実はすでにわれわれはそれについては考察ずみなのである。それはこの草稿の最初のあたり(例えば【3】パラグラフ以降)で考察したことである。マルクスは【15】パラグラフで〈商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは、貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり、またそのことは、単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の、正常な経過の、この生産様式に特有な一定の条件を生み出すのである〉と述べていた。つまり普通の商品交換では貨幣は単に流通手段として考察されていたのである。しかし拡大再生産のための商品交換においては、必ずその前に蓄積のための一定の貨幣蓄蔵が伴うというのであった。しかも正常な再生産のためには、その蓄蔵される貨幣に転換される商品の内容やその量にも一定の条件が加わってくるのである(それは剰余価値を表す商品資本のうち蓄積に回される部分の転換したものでなければならず、一方で蓄蔵される貨幣量が他方で現実の蓄積のために投下される貨幣資本額と一致する必要があった等々)。そうした拡大再生産に伴う新たな条件を特に第II部門におけるそれをマルクスは「一つの新しい問題」として論じようとしていると思われるのである。【15】パラグラフでは、第 I 部門における問題として論じ、ただそうした条件を示唆しただけであったが、実際に拡大再生産を表式として敍述しようとするなら、まさにそうした条件が具体的に検討される必要があるのであるが、マルクスはそれをやる前に、まずそれを「一つの新しい問題」として、すなわち外観上の困難の一つとして提示して、その問題の重要性とそれを解明する難しさを示そうとしているかに思われるのである。

 (以下、やはりこの考察も途中で切り上げなければならなくなった。以下は次回に続くことになる。)

2008年10月 7日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その32)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【49】

 〈したがって,ここで研究しなければならないものとして残っているのは,500m( I )と376v+376m(II)とであって,《それらが》一方では両方のそれぞれの側での内部関係に関わるかぎりで,他方では両方の側のあいだでの運動に関わるかぎりで,研究する必要があるのである。IIでも同じく剰余価値の半分が蓄積されることが前提されているのだから,ここでは188が資本に転化することになり,そのうちの1/4(1)の47が可変資本で,これを概数計算のために48とすれば,不変資本に転化されるべき188-48=140が残る。

 (1)「1/4」--II部門のv:cは376:1500=1:4なので「1/4」としたのであろうが,188を1:4に分けるには「1/5」にしなければならない。そうすれば,以下の数字も,概数計算で可変資本38,不変資本150となるはずのところである。〉

 【だからこのパラグラフでは、拡大再生産の過程で研究しなければならないのは、蓄積に回される I 500mとII(376v+376m)とであると研究課題を特定し限定している。そしてそれらが〈一方で両方のそれぞれの側での内部関係に関わるかぎりで、他方では両方の側のあいだでの運動に関わるかぎりで、研究する必要がある〉とも指摘し、やはり拡大再生産における研究課題を特定することがこのパラグラフの課題であることを思わせる。しかもマルクスはその研究課題をより詳しく論じていることに注目すべきである。すなわち〈一方で両方のそれぞれの側での内部関係に関わるかぎりで、他方では両方の側のあいだでの運動に関わるかぎりで〉と述べているように、 I 500mが追加的不変資本と追加的可変資本に分割されることを前提し、追加的不変資本は I の〈内部関係に関わるもの〉であること、追加的可変資本は〈両方の側のあいだでの運動に関わる〉こと、同じように、II376mの蓄積分についても同じことが言いうるということがすでに前提された上で、こうした考察をマルクスは行っているのである。
 このようにマルクスはII部門の蓄積についても言及しているが、計算間違いを行っている(もちろん、単なる計算間違いだけでなく、概数計算を避けるためには、IIは1500c+375v+375m=2250の方が良り適切な拡大再生産の出発式になったと思われる)。しかし注目すべきことは、ここではすでに第 I 部門の蓄積と同時に第II部門の蓄積が前提されなければならないことがすでに確認されていることである。問題は両部門の蓄積が前提された場合、考察の対象にすべきなのは、何と何かを明確にすること、これが表式aの課題なのである。
 いずれにせよ、ここまでのパラグラフではマルクスは拡大再生産の過程ではわれわれは何を問題にする必要があるのか、その研究課題を明らかにしてきたのであり、だから両部門の蓄積率を50%にしたことは、それ自体としては何ら問題ではなかったのである(多くの論者はマルクスが蓄積率を I ・II両部門とも同じにしたのは、まだこの時点ではマルクスは拡大再生産の正しい表式に到達していなかったからだとか、マルクスの「試行錯誤」を示す一例だと考えているのだが、この問題については別途検討することにしよう)。というのはここでは実際の再生産表式にもとづく計算そのものが問題になっていないからである。問題は、 I もIIも同時に蓄積すると仮定するということが肝心なのであって、どういう蓄積率にすべきかといったことはここではまだ問題にもなっていないのである。だから仮に両部門ともその剰余価値の半分を蓄積に回すとしたのである。これが重要なことなのである。両部門がこうした蓄積で実際に均衡するのどうかは、まだここでは問題になっていない。それは実際に拡大再生産の表式を計算する過程で課題になることだからである。

 さて、表式aの課題を上記のように理解したとしても、一定の理解できない問題が残る。それについても指摘だけはしておこう。マルクスは〈ここで研究しなければならないものとして残っている〉ものを500m I と(376v+376m)IIとしている。しかしここで気付くのは、

 1)マルクスは第II部門の蓄積額を188と計算したあとそれを既存の有機的構成(4:1)にもとづいて、可変資本にいくら不変資本にいくらと計算しているが、どうしてか第 I 部門の蓄積分500mについてはそれをやっていない。それはどうしてなのか、という疑問である。もちろん、部門 I については、すでにその不変資本だけの蓄積を考察し、さらに可変資本の蓄積の考察を行ってきた過程があると言えば、そうであるが、しかしやはりここでもそうした考察を行ってしかるべきのように思えるのに、それをやっていないのである。
 2)マルクスは残された研究課題としてII376vも上げている。しかしこれは本来は単純再生産ですでに考察済みのものではないのか、という疑問である。つまり〈ここで研究しなければならないものとして残っている〉ものは本来は両部門の蓄積分 I 500mとII188mだけであって、それ以外はすでに単純再生産で考察済みではないのか、ということである。なぜマルクスは考察の課題をあのように設定したのであろうか。
 ただ後者の疑問に関して考えられうるのは、マルクスにとっては、第 I 部門の蓄積については、その不変資本の蓄積についても、可変資本の蓄積についても不十分ながら検討してきたが、第II部門の蓄積についてはほとんどその内容を検討していないということがある。これまで第II部門の蓄積で検討してきたのは、第 I 部門の蓄積に関連させて、第II部門の不変資本の蓄積だけを問題にしてきたのである。だから第II部門で残っているのは、第II部門の可変資本と剰余価値部分、すなわち「376v+376m(II)」だけだと考えたのかもしれない、ということである。(なおこれらの疑問については、後にマルクスの意図は明らかになるのであるが、とりあえずは疑問として提示しておくだけにしよう)。

 さて、次の問題として、a)式でマルクスが両部門の蓄積率を50%にしたことについて、それはマルクスの「試行錯誤の一つだ」というタワケタことを主張している御仁の所説を検討しておこう。こうした主張をしている人は数多いが、われわれはその代表者として不破哲三氏に登場願おう。
 不破氏の『マルクスと『資本論』--再生産論と恐慌(上・中・下)』(2003年新日本出版社刊)は、マルクスをどのように読んではいけないか、という典型例を示すものである。氏は自身の思いつきにもとづいて、ただ自分の思いつきに合う部分だけを好き勝手に引用・解釈して、まるでマルクスに似て非ざるマルクス像をでっち上げる作業に勤しんでいる。マルクスの諸著作をそのありのままに、そこから素直に読み取り・学ぶのではなく、勝手な思いつきをまず前提し、それに合致するかしないかで取捨選択し、それに合致するものだけを取り上げ、そうでないものは無視し、あるいは自分のおもいつきに合致するように無理やりねじ曲げて解釈する等々である。だからそのマルクスの読み方は極めて粗雑極まりないものになっている。その一例を見てみよう。

 不破氏によると、マルクスは第8草稿のなかで、正しい拡大再生産表式に到達するために「試行錯誤」を繰り返しているのだそうである(我等が大谷禎之介氏も同じような解釈をしているのだが)。われわれがすでに見てきように、マルクスが拡大再生産は単純再生産とは質的に異なるものであり、後者から前者には質的な飛躍があることを論証するために、単純再生産を前提した上で、その一部の蓄積を行おうとするなら、不合理に陥ることを論じているすべての部分は、彼らにはマルクス自身の「試行錯誤」と思えるのである。
 そしてこのa)式においても、不破氏によると、それはマルクスの「三回目の挑戦--新境地を開いたものの思わぬところでつまずく」というような代物らしい。彼の主張を紹介しておこう。氏は上記の「表式a)」を紹介したあと次のようにいう。

 〈この表式は、 I (v+m)=IIcという単純再生産の交換関係を満たしていません。マルクスは、三回目のこの考察では、単純再生産から積み上げるというやり方は捨て、拡大再生産のためには、出発年次から独自の表式が必要だという認識に、すでに到達していたのです(部門IIの資本構成が1500c+376vとなっているのは、1500c+375vの計算ミスだと思います)。
 実際、マルクスは、このあとで、拡大再生産を表現するためにつくったこの新しい表式a)を、単純再生産の表式とくらべて、その特徴がどこにあるかを浮き出させる作業をしています。すなわち、部門 I 、部門IIの合計8252という表式a)と同じ生産額を、単純再生産の基準〔 I (v+m)=IIc〕を守る形で配列しなおした表b)を示し、これでは「剰余価値はすべて収入として支出され、蓄積されはしないであろう」と論じるのです。(このあと不破氏は表式b)を掲げているが、これは省略する--引用者)
 表式b)とくらべると、表式a)の方は、 I (v+m)がIIcより大きくなるように数字の設定をおこなっており、 I (v+m)とIIcとの変換をおこなっても、 I mに蓄積のための剰余が残るように配列されていることが分かります。そこに、拡大再生産の「物質的基礎」があるのだというのが、マルクスの説明でした。
 これは、貴重な前進でした。マルクスは、二回目の挑戦での苦労をへて、 I (v+m)>IIcという交換関係が拡大再生産に必要だという認識に、この時点で、事実上到達していた、と見てもよいでしょう。拡大再生産の表式の問題は、ここまでくれば、もう解決されるはずでした。ところが、ことの経過はそうはなりませんでした。マルクスは、第二年度へ進むときに、思わぬ失敗をしてしまったのです。
 拡大再生産をめざして第一年度目から第二年目に進むためには、mの一部を蓄積しなければなりません。どれだけの蓄積をするか、マルクスは何気なく次の想定をしてしまいました。
 「さて、表式a)を立ち入って分析してみよう。 I でもIIでも剰余価値の半分は、収入として支出されないで蓄積される、すなわち追加資本の要素に転化されると想定しよう」(頁数は略す--引用者)
 これが、新たな災いのもとでした。第二年目についての計算をいくら進めても、部門 I と部門IIの関係をなりたたせる合理的な数字がでてこないのです。マルクスは、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらせ、「しかし、待て! ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」(頁数略--同)とか、「突然、仮定をすり替えてはならない」(同)とかの言葉をあちこちに書きつけますが、この行き詰まりからの出口はどうしても見つかりません。せっかく正常な軌道を見つけてそこへ乗り出したはずなのに、なぜ数式的にうまくゆかないのか、あれこれと袋小路からの出口を探すマルクスの模索には、あせりの調子さえ感じるものがあります。
 最後には、マルクスは矛盾からの出口を求めて、現物支給制度(トラック・システム)などによる賃金の切り下げまで、仮定しようとします。さすがに、続く文章ではすぐにそんな仮定をしたこと自体を反省し、「資本主義的機構の客観的分析にさいしては、この機構になお異常に固く付着している一定の汚点を、理論的諸困難をかたづけるため逃げ道として利用してはならない」(同)という自戒を言葉を書きつけています。こういう文章を読むと、難関からの脱出路を求めて苦悩するマルクスの心情が察せられて、思わず苦笑を誘われます〉(同書・下196-198頁)

(以下、この不破氏の主張の批判は次回に)

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