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2008年9月

2008年9月19日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その31)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【47】

 〈このことは,『資本論』第1部で別の諸観点から検討したジェイムズ・ミルとS.ベーリとのあいだの資本蓄積にかんする争い,すなわち《産業》資本の大きさが不変な場合のそれの作用の拡張可能性にかんする争いに,きっばりと決着をつけるものである。この点にはあとで立ち帰らなければならない。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクによる縦線が引かれている。そしてさらにその左には一つの記号が書かれている。これは「A」という文字なのか,「×)」というしるしなのか,確信をもって判断することができない。〉

 【マルクスはここでは『資本論』第1部のジェイムズ・ミルとサミュエル・ベーリとのあいだの資本蓄積にかんする争い、なるものを取り上げている。つまり上記のマルクスの論述は、この両者の争いに〈きっぱりと決着をつける〉ものだというのである。この両者の争いとはどういうものであろうか?
 この両者の争いについては詳しくは知るよしもないが、マルクスが第1部で論じていることは(これは現行版では22章第5節にある注64、フランス語版では24章第5節の注56に関連しているのだが、この第5節は現行版とフランス語版とでは大きく異なっており、マルクス自身はドルゲに宛てた英語版への指示から見て、第8稿では、恐らくフランス語版を想定して論じていると考えてよいであろう)、経済学者たちは社会資本を固定的なものと見て(そこには労働財源も固定的にものとして低賃金を正当化する底意があった)、それをドグマとしていたが、ベーリはそれを批判していたようである。注では次のベーリの一文が引用されている。

 「経済学者たちは、一定量の資本および一定数の労働者を、一様な力を持つ生産用具として、またある一様な強度で作用するものとして取りあつかう傾向が強い。・・・・商品が生産の唯一の動因であると主張する人々は、総じて生産というものは拡大されえない、というのは、そのような拡大のためには、生活手段、原料、および道具が前もって増加されていなければならないからである、というように論証するのであるが、これは事実上、いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない、言いかえれば、いかなる増大も不可能であるということになる」(S・ベイリー『貨幣とその価値の転変』、五八、七〇ページ)

 こうした論争に〈きっぱりと決着をつける〉とマルクスはいうのだが、それは要するに問題は蓄積のために必要なのは、〈与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列、あるいは違った機能規定を前提する〉だけなのだということなのである。ベイリーが「いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない、言いかえれば、いかなる増大も不可能であるということになる」というのに対して、マルクスはそうでなく、問題は与えられた生産規模においても、そこにおける生産物のさまざまな要素の配列如何、機能如何によるのだと反論しているわけである。

 だから「蓄積のためには蓄積が前提される」という主張を、マルクスは一方でその正当性を認め、自らも前提しているのに、他方で、それを否定しているかに見える場合もあるのは、それを否定しているときは、まさにここでベイリーが述べているような意味で、つまり「いかなる生産の増大も、前もって生産が増大しなければ起こりえない」といった主張の批判として(「増大」には「増大」が前提するという同義反復に対して、「同じ規模」でも蓄積は可能だという批判として)述べていると解すべきであろう。

 蓄積のためには蓄積が前提されるというのは、蓄積に必要な追加的な生産手段や生活手段が市場に見出される必要があるということであり、そのためには前年度の剰余生産物がそうしたものとして生産されていなければならないこと、すなわちそれらを生産した前年度の再生産の機能配置がすでにそうしたものになっていなければならないこと(これ自体は必ずしも生産の「規模の増大」を前提せずとも、「同じ規模」でも可能である)、すなわちすでに単純再生産ではなかったこと(つまり拡大再生産=蓄積のための機能配置であったこと)を前提するという意味で言われていると解すべきであろう。

 ところで話は違うが、この『資本論』第1部の関連部分を読むついでに第22章第4節を読んでみたが、ここではマルクスは「蓄積の大きさを規定する事情」について述べている。そして「蓄積の大きさの規定については、剰余価値の分量を規定する一切の事情が一緒に作用する」として、ここではそれらの事情を蓄積に関して新たな観点を提供する限りで概括するとしている。そこで注目すべきことにマルクスは二つ目の事情として「社会的労働の生産性の程度」を上げているが、そこで次のように述べている。

 《現実的労賃は労働の生産性に比例しては騰貴しない。だから、同じ可変資本価値がより多くの労働力を、したがってより多くの労働を、運動させる。同じ不変資本価値が、より多くの生産手段--すなわち、より多くの労働手段・労働材料・および補助材料--となって現われる。つまり、より多くの生産物形成者ならびに価値形成者または労働吸収者を、提供する。だから、追加資本の価値が同等不変ならば、また減少しても、加速度的蓄積が行われる。再生産の規模が質料的に拡大されるばかりでなく、剰余価値の生産が追加資本の価値よりも急速に増加する。》(『資本論』第1部、青木版940頁)

 このようにマルクスは社会的生産性の程度が異なれば、同じ価値額でもその素材的内容が異なること、だから加速度的に蓄積が進むことを指摘しているのである。これを見ても蓄積を「もっぱら価値にかかわる概念」であるかにいうH氏の主張がまったく根拠のないものであることが分かるであろう。マルクスは「加速度的蓄積が行われる」という言葉を、もう一度「再生産の規模が質料的に拡大されるばかりでなく、剰余価値の生産が追加資本の価値よりも急速に増加する」と言い換えている。つまり「蓄積」を「質料的な拡大」と「価値の増加」の両面から見ているのである。

 またマルクスは「生産過程のありふれた日常、例えバその突発的な膨張や収縮のごとき」(同上947頁)とも述べている。つまり再生産過程が突発的に膨張したり、収縮するのは生産過程のありふれた日常だとマルクスは述べている。それに比べて、H氏が理解する再生産過程はあまりにも機械的であり、彼はだからそこにしょっちゅう恐慌を見るのである。】

【48】

 〈さて,表式b)(1)をもっと詳しく分析しよう。 I でもIIでも剰余価値の半分が,収入として支出されないで蓄積される,すなわち追加資本の要素に転化させられる,と前提しよう。1000m( I )の半分つまり500はいずれか一方の形態で蓄積される(すなわち追加生産資本として,または可能的追加貨幣資本としてとどめられる)のだから,1000v+500m( I )だけが収入として支出される。それゆえここでは,cIIの正常な大きさとして現われるのも,1500だけである。1500(v+m)( I )と1500c(II)とのあいだの転換は,単純再生産の過程としてすでに述べたから,それ以上研究する必要はない。同様に4000c( I )も考察にはいらない。というのは,新たに開始される再生産(それは今度は拡大された規模で行なわれる)のための再配列も同様に単純再生産の過程としてすでに論究したからである。

 (1)「b)」一明らかに「a)」の誤記である。鉛筆で「a)」と訂正されている。〉

 【表式a)をさらに分析するとして、マルクスはこのパラグラフでは、 I 、IIともそれぞれ剰余価値の半分を蓄積すると仮定する。だから I の1000v+500mが消費されるのだから、それと交換されるIIcも1500だけだとしている。しかしマルクスはこのパラグラフではこうした I (1000v+500m)とII(1500c)の交換は単純再生産の過程としてすでに分析したものであり、また I 4000cも同じように単純再生産ですでに論及したとしている。つまりこのパラグラフでは拡大再生産の過程には単純再生産の過程が含まれており、だからその過程そのものはすでに単純再生産の過程の分析の時に論及したので、ここでは取り上げる必要がないことを指摘しているのである。

 このパラグラフで考察しておく必要があるのは、マルクスが《1000m( I )の半分つまり500はいずれか一方の形態で蓄積される(すなわち追加生産資本として,または可能的追加貨幣資本としてとどめられる)》と述べていることについてである。マルクスは一体何を言いたいのであろうか?
 もし500m( I )のすべてが不変資本の蓄積に回されると仮定するなら、これは500m( I )を販売して貨幣蓄蔵を行う資本家群A(つまりこれから蓄積のために必要な潜勢的貨幣資本を蓄蔵する資本家群)と現実に生産資本として蓄積する資本家群B(つまりそれまで蓄蔵してきた貨幣蓄蔵が必要な額に達したのでそれを現実に投資する資本家群)とに分かれる事実を述べていると理解することができる。つまり500m( I )は、生産物としては、資本家群Bによって購入され「追加的生産資本」として現実に蓄積される。他方、剰余価値としては、資本家群Aによって販売されて「可能的追加貨幣資本としてとどめられる」のである。
 そうではなく、500m( I )の一部分が追加的不変資本として、他の部分が追加的可変資本として蓄積されるとするなら、それは追加的不変資本としては、現実に生産資本に転換されて蓄積されるのに対して、可変資本としては、追加的労働力が現実に追加的生産資本と結合されて価値を生み出した後に、支払われるために、とりあえずは「可能的貨幣資本としてとどめられる」事実を述べていると理解することができる。
 果たしてどちらであろうか、この問題については結論を急がず、とりあえずは保留しておこう。】


2008年9月13日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その30)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【44】

〈|59|さて,次の表式によって再生産を考察しよう。

 a) I ) 4000c+1000v+1000m6000
                             合計=8252
   II ) 1500c+ 376v+ 376m2252

 まず第1に気がつくのは,年間の社会的再生産の総額が8252で,表式 I )で9000だったのに比べて小さくなっているということである。表式 I よりもはるかに大きい額を取ること,たとえば次のようにすることもできないことはない。

  I ) 40000c+10000v+10000m=60000
                               合計=82520
 II ) 15000c+ 3760v+ 3760m=22520

〔しかしながらa)で〕表式 I での額よりも小さい額を選んだのは,次のことが目につくようにするためにほかならない。すなわち,拡大された規模での再生産(これはここでは,より大きな資本投下で営まれる生産のことである)は生産物の絶対的大きさとは少しも関係がないということ,この再生産は,与えられた商品量について,ただ,与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列あるいは違った機能規定を前提するだけであり,《したがって》価値の大きさから見れば単純再生産にすぎない,ということである。単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって,この変化が,そのあとに続いて行なわれる拡大された規椹での再生産の物質的前提なのである。〉

 【ここからマルクスは「さて、次の表式によって再生産を考察しよう」と拡大再生産のいわゆる出発式を提起している。この提起は突然のように思えるかも知れないが、しかし決してそうではない。なぜなら、これまでの経過はまさにそれを準備してきたのだからである。つまりそれまでのパラグラフでは(特に「4)」と「5)」の前半部分において)拡大再生産を考察するためには、最初からそのための機能配置を前提して行わなければならないことをマルクスは何度も確認してきたのである。だからここで初めてそのような最初から拡大再生産の機能配置になっている表式を提起しているのである。それ以前のさまざまな困難や不合理の説明は、まさにこうした拡大再生産の機能配置を最初から前提した出発式からわれわれは考察を開始する必要があるのだということを論証するためにしてきたのである。だからここにおいて、こうした表式の提示は、決して突然のことではないのである。

 ところでエンゲルスはこのパラグラフの前に「第三節 蓄積の表式的叙述」という表題を挿入している。しかしマルクス自身は、ここでは決して蓄積の表式的叙述を考察することが目的ではない。マルクスはその前までの数パラグラフにおける考察の結論として、単純再生産の基礎では蓄積を論じることは困難であること、そのためには別の機能配列による再生産を考える必要があることまでは明らかにしたのである。だからこのパラグラフからは、それではその別の機能配列とはどういうものでなければならないか、またそこでは、単純再生産とは違って、何が新たな分析の課題になるのかを明らかにしようと考えているのである。とりあえず、このパラグラフの内容を検討してみよう。

 マルクスはまず以下のような a)と項目を打った一つの表式を持ち出し、それによって再生産を考察してみようと提起する。

 a)  I )4000c+1000v+1000m=6000
                              合計=8252
    II ) 1500c+ 376v+ 376m=2252

 これ自体はすでに基本的に拡大再生産の表式になっている。しかしマルクスはすぐにその拡大再生産の表式の計算に移るわけではない(つまり蓄積そのものを表式的に敍述しようとするわけではない)。まずその表式の特徴を次の順序で分析するのである。
 まずこのパラグラフでは、総資本の合計額が単純再生産を考察した時の表式の総資本額9000より小さいことに注目し、それは拡大再生産が決して生産物の絶対的大きさには関係ないことを示すためにあえてこうした数値を取ったのだと次のように説明する。

 〈a)で表式 I (単純再生産の表式--引用者)での額よりも小さい額を選んだのは、次のことが目につくようにするためにほかならない。すなわち、拡大された規模での再生産(これはここでは、より大きな資本投下で営まれる生産のことである)は生産物の絶対的大きさとは少しも関係がないということ、この再生産は、与えられた商品量については、ただ、与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列あるいは違った機能規定を前提するだけであり、《したがって》価値の大きさから見れば単純再生産に過ぎない、ということである。単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって、この変化が、そのあとに続いて行われる拡大された規模での再生産の物質的前提なのである。〉

 まさにマルクスがいろいろと単純再生産を基礎にして蓄積を論じていたのは、単純再生産を基礎にしては蓄積を論じることは不可能なこと、むしろ後者は前者とは違った質的規定を持っており、別の機能規定による配列が必要であることを示さんがためであったのである。

 こうしてこれまでのマルクスの謎めいた叙述もその理由が分かるのである。ただマルクス自身は、こうした分析を「部門IIの蓄積」と題したところでやっていることである。つまり部門 I の蓄積では、特に追加不変資本の蓄積を問題にするだけならば、部門 I だけを問題にすれば良かったが、しかし部門 I でも追加可変資本を問題にしようとすると、すでに部門IIにおける蓄積が前提されること、だから部門IIの蓄積を論じようとするのだが、しかしそれはすでに I 、II両部門の、つまり社会的総資本の拡大再生産を問題にすることになったわけである。つまり部門IIだけの蓄積を論じることはもはや無意味であることが分かるのである。確かに部門IIの蓄積を論じる場合でも、部門IIの可変資本の蓄積だけを論じるのならば、確かに部門IIだけを問題にすればよい。しかし部門IIの蓄積では当然、その追加的不変資本の蓄積も論じなければならず、結局、それは部門 I の蓄積を前提せざるをえないことになるのであり、だから結局、 I 、II両部門の蓄積を、つまり社会的総資本の拡大再生産を論じなければならないことになるのである。だからマルクスは「部門IIの蓄積」と題しながら結局、社会的総資本の蓄積を論じることになっているのである。】

【45】

 〈可変資本と不変資本,等々の割合を変えて,表式(a)を別のかたちで,とりわけ次のように描くこともできないことはない。

 b) I ) 4000c+875v+875m=5750
                           合計=8252
   II ) 1750c+376v+376m 2502

 こうするとすれば,表式は単純な規模での再生産のために配列されたものとして現われ,したがって剰余価値は全部収入として支出されてしまい,蓄積は行なわれないことになる。〉

 【これも問題は量(規模)ではなく、質(機能配置)であることを示すものであろう。すなわち、同じ規模でも一方は拡大再生産の表式を、他方は単純再生産の表式を示すことは可能であるということを示しているわけである。】

【46】

 〈表式a)で現われようとb)で現われようと,どちらの場合にも年間生産物の価値の大きさは同じであって,ただ,一方のb)の場合には年問生産物の諸要素の機能配置がふたたび同じ規模での再生産が開始されるようになっているのに,他方のb)(1)ではその機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎〔Basis)をなしているだけである。

 (1)「b)」一明らかに「a)」の誤記である。鉛筆で「a)」と訂正されている。〉

 【上記の【45】と合わせて、この二つのパラグラフも、基本的には【44】のパラグラフで論じたことをさらに説明しているだけである。つまりこの二つのパラグラフではマルクスは総資本額を先の表式a)と同じ8252となる単純再生産の表式を呈示している。そうすれば、より一層、単純再生産と拡大再生産とではただ機能配置が違うだけであることが明瞭に捉えられるからである。〈a)ではその機能配置が拡大された規模での再生産の物質的基礎をなしているだけ〉なのである。

  このようにマルクスは、すでにわれわれが見てきたように、拡大再生産の出発式を提示するまでにも、何度も拡大再生産のためには最初から単純再生産とは異なる機能配置による表式が必要であること、単純再生産を前提にその一部分だけの蓄積を前提していては決して拡大再生産の概念には到達できないことを明らかにし、拡大再生産のためには、最初からそのための機能配置にもとづいた社会的総資本の--つまり I ・II両部門を含む--出発式を提示する必要があることを論証してきたのだが、すでにそうした機能配置にもとづいた出発式を提示したあとも、やはりそのことを、上記のように、何度も強調しているわけである。これを見ても、マルクスにとって、このことが--すなわち単純再生産と拡大再生産の質的相違を示すことが--どれほど重要だと考えていたかを、それこそが拡大再生産の概念の本質的な内容をなすものと考えられていたかを示すものではないだろうか。
 だからこそ、あたかもマルクスの問題意識が単純再生産から拡大再生産に如何に「移行」するかにあるかのように誤解させるエンゲルスの勝手な修正が、どれほど労働者をその正しい理解から遠ざけ、惑わせる罪深いものであるかが分かるのである。そしてまただからこそ、そのエンゲルスの修正を持ち上げ、問題をより明瞭にするものであり、適切な修正であると擁護する大谷禎之介氏らの主張が、まったく許しがたいものであったか、それを徹底的に批判する必要があったかが、納得して頂けるのではないかと思うわけである。】

2008年9月 7日 (日)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その29)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【42】

 〈この困難を回避するために,次のようにしてみるひとがあるかもしれな[3]い。--資本家II の商品倉庫に寝ていて《直接には》生産資本に転換されない500(c)(II)は,過剰生産であるどころか,逆に再生産の必要な一要素を表わしているのであって,この要素をわれわれは無視してぎたのだ。すでに見たように,《ひとつには》 I そのものの内部での新たな貨幣資本の形成を可能にするために,ひとつには徐々に消耗されていく固定資本の価値を過渡的に貨幣形態で確保するために,貨幣の貯え(1)が《多数の点で》積み上げられなければならず,したがって流通から引きあげられなければならない。他方では--表式の示すところでは,すべての貨幣とすべての商品が一見して明らかにもっぱら資本家 I またはII の手のなかにあって,ここには商人貨幣取扱業者銀行業者も,またただ消費するだけで直接には商品生産に関与しない諸階級も存在しないのだから--,再生産にとっては,その機構を動かしておくために,商品在庫がここではそれの各生産者の手のなかでたえず形成されるということも,同様に不可欠なのだ。だから,資本家IIの倉庫に寝ている500c(II)は,再生産に含まれている消費過程の連続性を媒介する,ここではある年から次の年への移行を媒介する,商品在庫(消費手段での)を表わしているのだ。この消費ファンドは(それは《まだ》,その売り手であると同時にその生産者でもある人の手にあるが),今年ゼロにまで下がって次の年にはゼロから始めるというわけにはいかないのであって,それは今日から明目に移る場合にもそうはでぎないのと同じことだ。このような商品在庫の形成は--たとえその大きさは変わるにせよ--たえず《新たに》行なわれなければならないのだから,われわれの資本家的生産者IIは,自分の生産資本の一部分が一時は商品形態のまま固着していても自分の生産過程を続行できるだけの貨幣準備資本をもっていなければならないのだ。そのうえ彼らは,前提によれば,商人的《全》業務と生産業務とを兼ねており,したがってまた彼らは,再生産過程の諸機能がさまざまな種類の資本家のあいだで独立化している場合には商人の手にあるはずの《追加》貨幣資本をも,思うように処分できなければならないのだ。

 (1)「貨幣の貯え」--原語はGeldvorratであり,Warenvorrat(商品在庫)に対応するものである。〉

 【このパラグラフでは、先に見た「困難」を回避する措置として、IIにおける過剰生産を必然的なものとして、それは必要な「在庫」として捉えるという措置を問題提起するものである。このように、まず「困難」を提起し、それを回避するさまざまな措置をあげながら、それらの無効を反証するという叙述の仕方は、『資本論』のさまざまなところで見られるのであるが、こうしたことも、明らかにマルクスにとっては拡大再生産の概念を明らかにし、その出発式を提起するための必要な準備段階なのであろう。こうした考察の過程そのものが拡大再生産とは如何なるものかを解明して行く一過程でもあるのである。このパラグラフの大要もすこし見ておこう。

  この困難を回避するために、資本家IIの商品在庫は過剰生産であるどころか、逆に再生産の必要な一要素を表しているのであって、ただそれはをわれわれはこれまでは無視してきただけだ、と主張する人があるかもしれない。
 そもそも部門 I で貨幣が蓄蔵されることはありふれたことである。一つはすでに見たように、蓄積にために必要だし、あるいは固定資本を補填するために貨幣形態で確保する必要が生じる等々だからである。だから当然、そうした場合は部門IIで商品在庫が生じるのであって、生じなければならないのである。
 われわれが想定している再生産の表式では、すべての貨幣とすべての商品は一見して明らかにもっぱら資本家 I と資本家IIの手にあるのであって、それ以外の、例えば商人や貨幣取扱業者や銀行業者や、あるいはただ消費するだけで直接には商品生産に関与しない階級の存在も捨象されているのだから、再生産を動かしていくためには、当然、それぞれの生産者の手のなかで絶えず商品の在庫が形成されるということも不可欠なのである。
 だから今問題になっている資本家IIの倉庫に眠っている500c(II)は、再生産に含まれている消費過程の連続性を媒介するものであり、ある年から次の年への移行を媒介する商品在庫(消費手段での)を表しているのだ。この消費ファンドは今年はゼロにまで下がって次の年にはまたゼロから始めるというわけにはいかないのであって、それは今日から明日に移る場合にもそうはできないのと同じである。だからこのような商品在庫の形成は--例えその大きさは変わるにしても--絶えず新たに行わなければならないのだから、われわれの資本家的生産者IIは、自分の生産資本の一部分が一時的に商品のまま固着していても自分の生産過程を続行できるだけの貨幣準備資本をもっていなければならないのだ。
 そもそも、われわれの仮定によれば、彼らは商人的業務と生産的業務を兼ねており、だから再生産過程の諸機能がさまざまな種類の資本家のあいだに独立化している場合には商人の手にあるはずの追加貨幣資本をも、思うように処分できるはずである。だから、そうした貨幣準備資本の存在は決して無理な想定ではないのである

 まあ、大体、以上のような理屈が述べられている。そして次のパラグラフでこの理屈が覆されるのである。】

【43】

 〈これにたいしては次のように答えなければならない。1)このような在庫形成--およびその必要性--は,資本家 I についても資本家IIについても言えることである。《単なる》商品販売者として《見れば》,彼らはただ,それぞれ違った種類の商品を売るということによって互いに区別されるだけである。商品IIでの在庫は,それ以前からの商品 I での在庫を前提する。この在庫を一方の側で無視するのなら,われわれは他方の側でもそれを無視しなければならない。だが,それを両方の側で考察に入れてみても,問題は少しも変わらないのである。2)今年は来年のための商品在庫(IIの側)を抱えて終わるのと同様に,今年はIIの側が去年から持ち越した商品在庫で始まったのである。だから,年間再生産--その最も抽象的な表現に還元されたそれ--の分析では,われわれは商品在庫をどちらの側についても無視しなければならない。われわれは,全生産物〔Production〕を,したがって今年が商品在庫として来年に引ぎ渡すべきものを今年の分とすることによって,同時にまた他方では,今年が去年から受け取った商品在庫を今年の分から引き去るのであり,こうして実際に1平均年の総生[6]産物を分析の対象として眼前にもつことになるのである。3)いま避けようとしているこの困難が単純再生産の考察では生じなかったという事清は,とりもなおさず,ここでの問題が I の諸要素の再配列,違った配置(再生産にかんしての)だけに起囚する一つの独自な現象にあることを証明している。この別の配置なしには,およそ拡大された規模での再生産は行なわれえないのである。|〉

 【ここでは上記の「困難」を「回避」する措置として考え出された必要な「在庫」という考え方に対して、それを否定する形で回答を与えるというものになっている。
 それを否定する理由としては--

 (1)まずこうした「在庫」は I でもIIでもありうるのであり、 I でそれを無視するなら、IIでもそうすべきであること、
 (2)IIの側で今年は来年のための商品在庫を抱えるにしても、今年はそもそも去年から持ち越した在庫で始まったのであり、だから年間再生産を分析する場合、在庫そのものは無視しても何ら差し支えないし、無視すべきであろう、
 (3)またいま避けようとしている困難が単純再生産の考察では生じなかったという事情は、とりもなおさず、ここでの問題は I の諸要素の再配列、違った配置(再生産に関しての)だけに起因する一つの独自な現象であることを証明している、

 というものであり、特に(3)そのものは、決して「在庫」そのものの否定にはなっていない。むしろマルクスが拘っている問題が、結局は単純再生産を前提しながら、そこで拡大再生産のための機能配置を仮定すれば困難が生じるという現象そのものであることを明らかにしているのである。
 つまりマルクスはこれらの一連の分析によって、単純再生産から、それを前提にしては、拡大再生産の考察には「移行」できないことを明らかにしたのである。だからマルクスは最後に「この別の配列なしには、およそ拡大された規模での再生産は行われえないのである」と結論しているのである。

 つまり「4)」(マルクスが付けた番号)では部門II の蓄積の考察へ移行するための部門 I の枠内での問題提起を行い、単純再生産をベースにして拡大再生産を考察することの困難を指摘した。「5)」(同)では「部門II の蓄積」を考察する前提として、だから部門IIに場面を移したのだが、「4)」で提起した困難を引き続いて考察して、結論として、単純再生産を前提にしてはやはり拡大再生産の考察は不可能なこと、拡大再生産にはそれとは別の機能配置を考えたものを想定する必要があることを導き出しているのである。そして、では、それはどういうものかを示すのが、次のパラグラフからなのである。】

2008年9月 1日 (月)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その28)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【41】

 〈a)(1)cIIについての第1の困難--すなわち商品資本IIの構成部分から不変資本IIの現物形態への《再》転化--は,単純再生産にかんするものである。前にあげた表式

    1000v+1000m( I )
     \ /
     2000c(II)

をとってみよう。(2)いま,たとえば(1000/2)mすなわち500m( I ),つまり剰余生産物 I の半分がふたたびそれ自身不変資本として部類 I に合体されるとすれば, I の剰余生産物のうち I に保留しておかれるこの部分は,cIIのどの部分をも補填することができない。それは消費手段には転換されないで(そしてこの場合, I とII とのあいだの流通のこの部分では,1000v( I )よる1000c(II)の補填とは違って現実の相互的交換,つまり諸商品の双方的場所変換が行なわれる), I 《そのもの》の《なかで》追加生産手段として役だつべぎものである。それはこの機能を I とIIとで同時に果たすことはできない。あるいは,別の言いかたをすれば,資本家は,自分の剰余生産物の価値を消費手段に支出すると《同時に》その剰余生産物を[1]||58|《自分で》生産的に消費すること,すなわち自分の生産的資本に合体することはできない。だから,2000(v+m)( I )ではなくてただ1500(v+m)( I )だけが,つまり(1000v+500m) I だけが,2000(c)II)と  転換可能である。すなわち,500c(II)は,その商品形態から生産資本(不変資本)IIに再転化できないのである。したがって,IIでは過剰生産が生じることになり,その大きさはちょうど I で行なわれた,生産 I の規模の拡大のための過程に対応することになる。IIでの過剰生産はもしかすると I にも強く反作用して,そのために労働者 I がIIに支出した1000の還流さえも部分的にしか行なわれず,したがってこの1000が可変資本の形態で資本家 I の手に帰ってこないかもしれない。--この資本家 I たちは不変な規模での再生産においてさえも,そしてもちろんそれを拡大しようと試みるだけでも,非常に妨げられていると感じることになる。またそのさい考えるべきことは, I では単純再生産が行なわれただけだということ,表式 I に見られる諸要素が--たとえば来年といった将来の拡大を目的として--違うように配列ないし配置されているだけだということである。

 (1)この「a)」には,赤鉛筆でL型のカギがつけられている。
 (2)以下の部分は,表式の右側に書いたのち,ふたたびページの左端から書かれている。〉

 【この部分は「a)」と冒頭に打たれ「cIIについての第1の困難」と表題がついている。
 まずこのパラグラフで気づくのは、マルクスは「部門II での蓄積」と5)の表題を書いているが、ここでは部門 I と部門II と一緒にした表式を出していることである。しかもこのパラグラフではまだ「部門IIでの蓄積」そのものはまったく問題になっていない。むしろ問題になっているのは、部門 I の蓄積である(但しそのための機能配置だけ)。もちろん、その表式は単純再生産の時のものなのだが、少なくとも、先のパラグラフ(【39】)で、マルクスが部門 I とIIとを合わせて問題にしていたように、ここからは部門IIでの蓄積を考察しようとするのだが、そのために部門 I の蓄積も同時に考察する必要があることは暗黙の前提とされていることが分かるのである。
 ここでマルクスは「cIIについての第一の困難」を問題にしている。それは「商品資本IIの構成部分から不変資本IIの現物形態への再転化」の問題として出されているが、しかしそれは「部門IIでの蓄積」には関係なく、むしろ、それは部門IIでの単純再生産に関するものだとも指摘している。
 そしてマルクスはその「第一の困難」を説明しているのであるが、その内容は、先に「4)」と番号が打たれた数パラグラフで考察してきたものの延長であるように思える。しかし主体は明らかに違っているのである。「4)」では問題はあくまでも部門 I の可変資本の蓄積であった。その意味では主体はいまだ部門 I にあったのである。しかし今回は場面は部門IIに移っている。そこが違うところである。
 そのうえでマルクスは「4)」と同じような問題、つまり単純再生産を基礎に拡大再生産を展開しようとすると矛盾に陥ることを明らかにしようとしていると思えるのである。
 ここでは明らかにマルクスはそれこそ文字通り単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じているのである。そしてそれが不合理であること--「困難」であること--を示しているのである。具体的にその内容を要約してみよう。

 cIIについての第一の困難は単純再生産に関するものである。前にあげた表式1)で単純再生産の関係式、 I (1000v+1000m)=II(2000c)で、1000m( I )の半分500m( I )がそれ自身不変資本として部門 I に合体されるとしよう。そうすれば I の剰余生産物のうち I の蓄積分として保留されるこの部分は、cIIのどの部分をも補填することはできない。それは消費手段には転換されないで I の追加生産手段として役立つべきものである。それはいうまでもなく、 I とIIとで同時に機能を果たすことはできない。つまり資本家は、自分の剰余生産物の価値を消費手段に支出すると同時にそれを自分で生産的に消費はできないのである。だから2000m( I )ではなく、ただ1500m( I )だけが、つまり(1000v+500m) I だけが、2000cIIと転換可能である。だから2000cIIのうち500cIIは、その商品形態から生産資本(不変資本)IIに再転化できないのである。したがって、IIでは過剰生産が生じることになり、その大きさはちょうど I での蓄積の額に対応する。あるいはIIでの過剰生産はもしかすると I にも強く反作用して、そのために労働者 I がIIに支出した1000v I の還流さえも部分的にしか行われず、したがって資本家 I にこの1000が可変的貨幣資本の形態で帰って来ないかも知れない。--つまり資本家 I たちは不変な規模での再生産においてさえも、ただそれを拡大すしようと試みるだけでも(なぜなら、彼らはまだ500m( I )を蓄積に回すために、ただその実現形態を、貨幣形態のまま流通から引き上げただけで、その現実的な蓄積をやったわけではないから)、非常に妨げられていると感じることになる。しかしそのさい考えるべきことは、 I では価値の大きさからみて単純再生産が行われたというだけだということ、表式1)(単純再生産の表式)に見られる諸要素がただ違うように配列ないし配置されているだけだということである。

 このように、マルクスがここで「IIcの第一の困難」と述べているのは、「部門IIでの蓄積」に関するものというより、単純再生産の表式を前提して、部門 I において、それを構成する諸要素を、蓄積のための配列ないし配置に変えることによるものである。つまり単純再生産から拡大再生産に「移行」しようとすると生じる「困難」こそが、すなわちここで述べられている「第一の困難」の中身なのである。つまり拡大再生産は、単純再生産とは違った構成要素とその配置から出発する必要があり、決して単純再生産を前提して、その部分的修正から拡大再生産に移行しようとするなら、それはさまざまな困難や矛盾に陥るというのが、マルクスがここで明らかにしている一つといえるのである。】

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