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2008年8月 3日 (日)

現代貨幣論研究(2)

§§§『季刊・経済理論』第45巻第2号(2008年7月)の特集評論§§§

 『季刊・経済理論』第45巻第2号が「現代の貨幣・信用論争」を特集している。「現代貨幣論研究」を一つの課題にしている以上、これを検討せざるをえない。というわけで、大枚2100円も払って買う羽目に。貧乏人にとっては、大変な出費であるがしようがない。

 特集論文は以下の4つである。

 まず最初に大友敏明氏が「特集にあたって」を書いている。しかしこれはまあどうでもいいだろう。
 ●「貨幣・中央銀行・国家の関連」(楊枝嗣朗)
 ●「内生的貨幣供給論と信用創造」(吉田 暁)
 ●《「貨幣貸付資本と現実資本」論、その現代的意義--MEGA版(手稿)によって--》(小林賢齊)
 ●「金融資本主導下の貨幣的均衡--現代資本主義分析におけるボスト・ケインズ派とマルクス派」(野下保利)

 最初の楊枝氏のものに関しては、ほとんど期待はしていなかった。同氏の論文は『佐賀大学経済論集』掲載のものはほとんどが公開されており(http://portal.dl.saga-u.ac.jp/)、検討させて頂く機会があったが、まあ学ぶべきものが何も無かったからである。同氏の学問的立場は、ご自身はどう思われているのか分からないが、すでにマルクス経済学からかなり遠いところにある。今回も大して変わらない、だからこれは無視することにした。

 私が一番期待したのは、小林氏のものである。ただそれは題名だけを見てということもあったが、この4人のなかでマルクス経済学者として、まあまあまともな学者の一人ではないかと期待するところもあったからである。しかし残念ながら期待外れだった。
 確かに同氏はマルクスの草稿を丹念に読み、その要点を纏めておられる。しかしマルクスが現行の第3部第5篇第30-32章「貨幣資本と現実資本(I・II・III)」で、「信用という事柄全体で唯一困難な問題(die einzig schwierigen Fragen)」として考察している「二つの問題」、すなわち「第一に、貨幣貸付資本(monied Capital)の相対的増大または減少は、一言でいえば、その一時的またはより継続的蓄積は、生産的資本の蓄積に対してどのような関係にあるのか? そして第二に、それ[貨幣貸付資本]は何らかの形態で一国に現存する貨幣の量の大きさに対してどのような関係にあるのか?」(これはマルクスによって再提示された定式化で代表させた)について、同氏は「マルクスは『2つの問題』の考察によって何を解明しようとしていたのであろうか。その狙いは何処にあったのであろうか」と問題提起をしながら、その答えとして、オーヴァーストーンの「『誤った貨幣理論』を根底的に批判しようとした」のだとするのは、あまりにも問題の矮小化ではないのかと思ったのである。こんな評価ではがっかりである。
 現代資本主義においても、実体経済とかけ離れた信用の膨張と金融の肥大化は顕著であるが、マルクスはこうした資本主義に特徴的な傾向を「比類なく困難な問題」(大谷禎之介氏の訳)として定式化し、それを解明する基礎を与えようとしたのではないのだろうか? 私にはそのように思われるのだが。
 また同氏が、マルクスがこの第3部の草稿を書いたあと、十数年後に『資本論』の最後の草稿として書いた第2部第8草稿について何も触れていないのはおかしいのではないだろうか。「貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積」が「どのような関係にあるのか?」を問うなら、それはまず第2部の社会的総資本の「蓄積または拡大再生産」論でその関連が解明されていなければならないハズである。しかしマルクスが第3部第5篇のこの部分を考察していたときには、まだ第2部の「蓄積または拡大再生産」論はまった手つかずだった。だから当然、マルクスのこの部分(第3部第30-32章該当部分)には再生産論的視点は皆無なのである。
 しかしマルクスはそうした欠陥を第8草稿で見事に解決しているのではないのか、潜勢的貨幣資本の蓄蔵と現実の資本蓄積との内的関係をマルクスは見事に解いているのである。だから少なくとも「貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積」について、その基礎的な関係、すなわち「貨幣資本」が蓄積のための剰余価値の実現形態である限りにおいて、それらがどういう関係にあるのかは解明されているのである。もちろん第3部の当該箇所で考察されている「蓄積される貨幣資本」というのは、そうした「潜勢的追加的貨幣資本」に限定されたものではなく、「貸付可能な貨幣資本一般」であり、「架空な貨幣資本」も含まれることは明らかである。しかし現実資本の蓄積と潜勢的貨幣資本の蓄蔵との密接な関連を解明すれば、あとはそれ以外の「架空な貨幣資本」との関連も自ずから明らかになるハズではないだろうか。だからもしマルクスが第8草稿の「蓄積または拡大再生産」の考察を踏まえて、第3部第30-32章該当部分の考察を再び行う機会があったなら、もっと違った考察がなされただろうことが期待できたと思うのである。そうした第2部第8草稿との関連をもっと追究し明らかにすべきだったのでは無かったのかと思った次第である。これが一番期待外れであった。

 吉田暁氏のものについては、まったく期待はしていなかった。同氏の立場も決してマルクス経済学のものとはいえないと以前から思っていたからである。実際、今回の論文もそうしたものである。しかし同氏のものは単刀直入で分かりやすい。だからむしろ同氏の論考を批判的に検討する方がより実りが大きいと判断した次第である。われわれにとって必要なのは「現代の貨幣」を理論的に究明していくことであり、それに資するということがすべての価値判断の中心に置かれるべきだからである。そこで同氏の主張をここでは主に検討することにしたい。
 吉田氏の所説は「内生的貨幣供給論」というものらしい。それは要するに現象を現象のままに敍述するということ以上ではない。マルクス経済学ではこうした立場を表現するのにもっとも相応しいものとして「俗流経済学」という名称を与えることにしているが、同氏の立場はまさにこれである。少し同氏の主張を検討してみよう、そうすればたちまち納得が行くであろう。

 吉田氏は書いている。

 〈西川元彦は「貨幣がまずあってそれが貸借されるのでなく、逆に貸借関係から貨幣が生まれてくる」と述べたが、内生的貨幣供給論の本質を示す明言である。〉

 確かに明言(迷言?)である。
 いま一人の事業主があって、彼は100万円の貨幣を必要とする。彼は銀行に行って、100万円の借金を申し込む。すると銀行は彼の名義で預金を開設し、そこに100万円と記帳する。こうして貨幣は発生した(この場合は預金通貨)。事業主は必要なら100万円を現金で、つまり日本銀行券で引き出すこともできる。これが貨幣の発生である。そもそも日銀券は日本銀行が輪転機を回して印刷して始めてこの世に出てくるのであって、だから貨幣が生まれるのは日銀の輪転機からである(正確には日銀の注文によって独立行政法人国立印刷局が製造し日銀に納めているのだそうであるが)。そしてその輪転機を回させるのは、市中銀行における貸借関係が起点なのだ。まず市中銀行から預金者が預金を現金で引き出すことによって,現金(日銀券)に対する需要が発生し、市中銀行は日銀の当座預金から必要な額の現金を引き出し、それを預金者に支払うわけである。そしてもし日本銀行において日銀券が不足すれば日銀は輪転機を回すであろう。だから市中銀行における「貸借関係から貨幣が生まれてくる」のである。
 しかしこれはただ現象を現象のまま記述しただけである。理論もクソもない。こんなものが「内生的貨幣供給論」とか言って何か立派な“理論”であるかに持て囃されるのだから何ともお粗末な話ではある。
 彼は貸借関係の前に貨幣はないという。しかし事業主が100万円の借金を申し込むとき、この「100万円」というのは果たして何なのか? 貨幣を前提せずして、どうして「100万円」という一定の貨幣額、その名称が出てくるのか。
 それにもしここに一人の労働者がいるとしよう。彼は事業主に雇用されて、一カ月働いた。彼の賃金15万円は彼の口座に振り込まれたとしよう。彼はそれを銀行から現金で引き出すとする。この場合、労働者は別に銀行から金を借りたわけではない。労働者の口座の増えた預金額は確かに労働者の銀行に対する債権であり、まあ労働者が銀行に貸したといえばいえなくもない。しかし少なくともここでは労働者が銀行に金を貸したから貨幣が発生したのではない。そうではなく労働者が自分の労働力商品を資本家に販売したから、その対価として貨幣を入手したのである。つまりこの場合は貨幣は労働力商品という商品の運動(売買)の結果でしかない。
 マルクスは貨幣を商品の交換関係から説明している。そして貨幣があるから商品の流通が生じるのではなく、商品の流通があるから貨幣があるのだと論じている。これが正しい立場である。ところが吉田氏の立場は貨幣の発生を説明するのに、肝心の商品の話は一つもでて来ない。しかも彼は「貸借関係があって貨幣が生まれる」などというが貸借関係には貨幣を前提するという基本的なことすら分かっていないのである。少なくとも「100万円」という貸借関係には「100万円」という観念的な貨幣がなければ計算も記帳もできないし、そもそもこうした貸借関係も生じようがない。いや貨幣ではなく、直接商品の貸借だというのか、しかしその場合もその商品の価値を尺度して「○○円」の商品の貸借として記帳しなければならず、そのためには貨幣は計算貨幣として機能しているのである。いずれにせよ貨幣は前提されているのだ。こうした基本的なことすら氏には分かっていないのである。大した“理論家”ではある。(以下、次回へ続く)

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