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2008年8月 3日 (日)

現代貨幣論研究(3)

§§§『季刊・経済理論』第45巻第2号(2008年7月)の特集評論(続き)§§§


 彼らが知らないか、あるいは知らないふりをしているのは次のような事実である。歴史上、商品交換が始まり貨幣がそれを媒介するようになってからは、諸商品の交換に必要な何らかの一定量の貨幣が流通に存在したということである。それは誰もまたどんな国家も恣意的に決めるような性格のものではなく、現実の商品交換そのものなかで決まってくるものなのである。だから商品交換の行われている社会では、その一国のなかで商品交換を行うために必要な流通必要貨幣量というものは客観的に決まってきたということである。歴代のさまざまな権力者や国家が、やることができたのはただその客観的に商品生産とその交換によって決まってくる流通に必要な貨幣量に対して、それを代理する何らかの手段や制度を人為的に作ることによってそこに介入することだけである。彼らは決して商品生産とその交換を強制的に止めさせることをやらない限り、それらの交換に必要な一定の貨幣量が流通に存在しなければならないという客観的な現実そのものを決して変えることはできなかったのである。そしてそれは国家が近代国家になり、社会が資本主義社会になっても何一つ変わらなかった。国家がやれたことは、社会の物質代謝を司る商品生産とその交換という客観的な過程とその交換に必要な一定の流通貨幣量という現実に対して、ただ何らかの貨幣制度を人為的につくり、その流通必要量にあった何らかの国家や権力者が人為的にあるいは恣意的に作った代理物をその客観的な流通必要貨幣量の代わり滑り込ませることができたにすぎないのである。商品生産とその交換を媒介するに必要な一国内の流通必要量そのものを彼らは決して変えることはできなかったのである。例えば明治政府はそれまで流通していた小判や朱銀に変わって太政官札を滑り込ませようとしたり、あるいは不換の銀行券を滑り込ませようとしたが、しかし何を流通に投げ込もうと、それらが代理する客観的な流通必要貨幣量というのもの自体を恣意的に変化させることはできなかったのである。彼らは客観的に存在している貨幣の流通必要量を代理する何らかの人為的手段をそれに代わって流通に投げ込むことができただけなのである。

 そして今日の政府と日銀にも同じことがいえるのである。日銀が貨幣を作っているのではない。毎日毎日労働者が働き、商品が生産され、それが交換される現実がまずある。それがなければ社会は一日一秒たりとも存続できない客観的な物質代謝の現実である。それは社会が生産する商品の価値とその貨幣表現である価格総額、そしてそれが流通する場合に必要な貨幣量というのものは誰が何と言おうとそれ自体として客観的に決まっているのである。日銀はただそれに対応した銀行券を発行して流通に投げ込むだけにすぎないのである。それがどういう手続きを経て流通に投げ込まれるかといったことは本質的なことではない。そうした手続きそのものが何か貨幣を作るのではないからである。貨幣そのものは現実に生産される商品とその交換という客観的な過程そのものによって、その必要量は決まっているのであり、もし日銀が銀行券をそこに投げ込まなければそれとは異なる別の何ものかがそれを代理しなければならないのであり、必ず代理されるような性格のものなのである。あるいはもし銀行券以外の代理物がなければ、金そのものが登場するであろう。それは誰も干渉することのできない客観的な法則であり、商品生産とその交換を止めない限り客観的に歴然として貫く法則なのである。日銀はただその法則的に決まってくる客観的貨幣量に代理するものを流通に投げ込んでいるだけにすぎない。
 日本銀行券の流通高はここ数年は80兆円前後で推移しているが、この80兆円というのは日銀が恣意的に決めることは決してできないのである。彼らにできることは、ただ古くなった銀行券を回収してそれを新しいものに換えて、その流通必要高をただ維持することだけである。だから日銀が貨幣を作っているのではなく、貨幣は現実に存在しているのである。ただ日銀は現実に存在している貨幣に代わるものを、それとすり替えて、流通に滑り込ませているだけなのである。

 日銀が貨幣を作っていないということは、もし日銀が日銀券を明日から発行しない、流通しているものも回収すると例え決めたとしても、商品生産とその交換が中止されない限り--そしてもしそれが中止されるなら、われわれの社会の物質代謝が停止することであり、だからその社会を構成するわれわれ自身が死滅することを意味するのだが--、日銀券に代わる何らかのものが--そしてなにもなければ当然金が--貨幣として流通しはじめるしはじめなければならないような性格のものなのである。

 要するに吉田氏らには「貨幣の概念」がそもそも無いのである。彼らも学者として当然、マルクスの『資本論』や『経済学批判』を一通りは読んだだろうが、しかし彼らにはそれは金貨が流通していた一昔前の古くさい現実を説明することはできても、現代の資本主義社会を説明するようなものには思えなかったのである。

 しかし彼らが気付かなかったのは、金貨が例え流通していたとしても、その「金貨」とマルクスが『資本論』で考察している「貨幣」とは決して同じではないということである。貨幣とは一般的な等価形態が金という商品に固着したものをいうのだが、しかしそれは決して金貨と同じではない。金貨はすでに鋳貨であり、流通手段である。彼らは貨幣の概念を理解しなかったから、それらの抽象的な諸機能もまったく理解しなかったし、貨幣と「通貨」(広義の流通手段)とをゴッチャにして平気なのである。もっとも彼らは「預金通貨」などを持ち出すところをみると、「通貨」の概念すらあやふやであることを自ら暴露しているのではあるが。

 マルクスが『資本論』の冒頭で考察している「商品論」や「貨幣論」は決して一昔前の古くさくなった理論などでは決してない。それはまさに現代の資本主義の現実そのものを深く分析しているものなのである。『資本論』の冒頭で明らかにされている諸法則は、まさに現代の資本主義のなかに深く貫いている法則でもあるのである。それが彼らには分かっていない。しかしそれをここですぐに開陳してしまえば、この連載は終わってしまうので、それは徐々に明らかにするとして、とりあえず、この特集記事の検討は終えよう。

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