無料ブログはココログ

トップページ | 2008年8月 »

2008年7月

2008年7月31日 (木)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その15)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【22】

 〈この可能的追加生産資本が I のA、A'、A"等々の側で次々に可能的貨幣資本(蓄蔵貨幣)に転化していくこということは、彼らの剰余生産物が次々に売れていくこと、つまり購買によって補足されない一方的な商品の販売が次々に行われることを条件とするのであって、このような転化は、流通から次々と貨幣が引き上げられそれに応じて蓄蔵貨幣が形成されることによって行われるのである。この貨幣は--金生産者が買い手である場合は別として--けっして貴金属の富の追加を前提しておらず、た[58]だ,流通の中にある貨幣の機能の変化を前提するだけである。それは、さっきまでは流通手段として機能していたが、いまでは蓄蔵貨幣として、可能的には形成されつつある新貨幣資本として、機能する。だから、追加貨幣資本の形成と一国にある貴金属の量とはけっして互いに因果関係にあるものではないのである。〉

 【このパラグラフも、先のパラグラフと同様、第5篇の第30~32章でマルクスが追究していることと深く関連している。マルクスは同章では、貨幣資本の蓄積は現実資本の蓄積とどのような関連にあるか、ということともう一つは貨幣資本の蓄積は一国にある貨幣の量とどのように関連しているかも追究していたが、まさにこのパラグラフでは後者の問題が論じられているからである(しかも、大谷禎之介氏も指摘するように〔*〕、マルクスにとって、後者の問題は30~32章ではまったく本格的に論じることもなく、未解決のままに残されている)。

 〔*大谷禎之介《「貨幣資本と現実資本」(『資本論』第3部第30-32章)の草稿について》『経済志林』第64巻第4号130-1頁参照〕

 つまり可能的貨幣資本の蓄積というのは、一国の貴金属の量とは因果関係にはないというのがマルクスの結論である。そしてその理由もマルクスはここでは明らかにしている。つまりそれは貴金属の貨幣としての機能の変化に関わるだけだからというのである。つまりそれまでは流通手段として機能していたのが、今度は蓄蔵貨幣として機能するだけだというのだ。

 この第8草稿はマルクスの『資本論』の最後の草稿であり、当然、第3部第5篇の草稿より十数年も後で書かれているわけである。ということは、マルクスは第30~32章で追究した問題について、むしろこの第8草稿のこの二つのパラグラフ(【21】と【22】)で一つの結論らしきものを述べていると言えなくもない。まだ第5篇の草稿を書いていた時には、こうした社会的総資本の再生産の観点から蓄積の問題をマルクス自身は十分には考え抜いていなかったに違いないからである。

 マルクスは、この第8草稿では“貨幣そのものは何ものも生まない”とか、“貨幣資本が蓄蔵された段階ではまだ蓄積ではなく、富でもない”とか、“だからまたそれは価値の量としては単純再生産とは変わらないのだ”ということを、いたるところで強調している。なぜマルクスはこうしたことを強調するのか、と気になったのだが、やはりマルクスの頭の中にあるのは第3部第5篇の「比類なき困難な問題」だったのではなかったかと思うようになった。つまり貨幣資本がどんなに大量に蓄蔵されてもそれ自体は何ら富を生み出したことではないこと、それをマルクスは言いたかったことではないかと思う。実際、そこでマルクスが引き出した結論は、潜勢的貨幣資本の蓄蔵が、実際に拡大再生産に投資されるということは、それが現実資本になるための素材的対象がすでに市場に存在しなければならないという事実だった。つまり貨幣そのものは何も生み出さないのだ、貨幣が資本として投資されるためには、貨幣によって買われる生産手段や労働力が実際市場に存在しないと、拡大再生産は不可能なのである。実際の生産にとっては貨幣というものはまったく意味をなさない、というのがマルクスの言いたいことなのである。だからマルクスは潜勢的な貨幣資本の蓄蔵は、それは他方でそれが投下の対象となる追加的な生産手段が(あるいは追加的な労働力を前提するなら、追加的な消費手段も)市場に見いだされること、つまりすでに拡大再生産が現実に行われて、追加的な生産手段が商品として市場に吐き出されていることが前提されているのだ、あるいはされていなければならないというのがマルクスの結論なのである。だからどんなに大量の「貨幣資本の蓄積」(第3部第5篇段階の表現)が行われたとしても、それは結局は、それ自体が拡大再生産の一結果に過ぎないのだ、というのである。

 もっともこうした結論は、しかしあくまでも第2部第3章(篇)のレベルから見たものでしかないということもわれわれは留意しておく必要がある。というのは、第3部第5章(篇)では、第29章該当部分で、マルクスは「銀行資本の構成部分」を考察し、銀行が貸し出す利子生み資本のほとんどが「架空な貨幣資本」であることを指摘している。だから第30-32章で問題にしている「貨幣資本の蓄積」には、当然、こうした「架空な貨幣資本」も含んだものと考えるべきであろう。しかしわれわれが考察している第2部第3章(篇)では、こうした貨幣信用によって生み出される「架空な貨幣資本」などはもちろん捨象されているのである。われわれがここで問題にしている潜勢的可変資本というのは、あくまでも剰余価値を代表する商品資本のうち蓄積に回す部分が実現された結果、生じた貨幣資本以外ではないのである。そこには架空なものは一つも含まれていない。しかしこうした第2部レベルの考察であるとは言え、マルクスが第3部第30-32章で追究した「比類なき困難な問題」の一つである《貨幣資本の相対的な増大または減少は、要するにそれの一時的な、またはもっと継続的な蓄積は、生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのか?》(前掲大谷論文130頁)という問題の一端を解明していることは確かなのである。つまり「架空な貨幣資本」を除いた「貨幣資本の蓄積」は、現実資本の蓄積の反映であり、表現であるというのがマルクスの拡大再生産論を踏まえた結論なのである。だからそれは他方で、マルクスが第29章等で考察している「架空な貨幣資本」の「架空」性というのは、そもそも何故にそれが「架空」なのかということも、むしろこの第2部第3章(篇)の拡大再生産論を踏まえて始めて明らかにされたと言っても過言ではないのかも知れないのである。

 実際、考えてみれば、貨幣そのものがどんなにあっても、貨幣そのものは何も生み出さないのである。物を生み出すのは生産手段と労働力なのであり、社会の富(使用価値)を生み出すのは労働であり、労働と結合される生産手段なのである。だから貨幣がどんなに大量に蓄蔵されようとも(そして実際の大量の貨幣資本は単なる貨幣請求権でしかなく、将来の労働の成果に対する所有権原でしかないのだが)、それ自体は何の豊かさも示さない、それ自体は富ではないからである。貨幣がどんなにあってもそれで購入できる物的対象、商品がなければそれは何の役にも立たないことは、例えば無人島に流れ着いた人がどんなに大量の金貨を持っていても彼はそこで生き延びるのに、金貨よりも釣り針やナイフがあった方がよほど良かったかと思うだろうことを考えれば分かる。金貨があっても釣り針やナイフを売っている市場がなければ無用の長物でしかない。実際の富は貨幣ではなく、使用価値である。だから貨幣資本がどんなに蓄蔵されようとも、それが転換できる現物資本が市場に存在しなければ無意味なのだ、というのがマルクスが強調したかったことなのである。だからマルクスの頭にあるのはやはり第5篇の「比類なき困難な問題」であることが分かるのである。】

【23】

 〈そこから、さらに次のことが出てくる。すなわち、一国内で(1))--ここでは I)のもとで--機能している生産資本(それに合体された労働力を含めて、というのは、それは剰余生産物の創り手、剰余労働の創り手であるから)がすでに大きければ大きいほど、また労働の生産力が発展しており、したがってまた生産手段の生産の急速な拡張のための技術的な手段が発達していればいるほど--それゆえ剰余生産物の量も(価値《から見て》もこの価値を表わす使用価値の量《から見て》も)大きければ大きいほど--、それだけまた、1)可能的追加生産資本(A、A'、A"等々 I  の手の[59]なかで剰余生産物の形態にある)も大きいのであり、また、2)貨幣に転化した剰余生産物つまり可能的追加貨幣資本(A、A'、A"( I )の手のなかにある)の量もそれだけ大きい、ということである。{だからたとえフラートンが、普通の意味での過剰生産についてはなにも知ろうとしないのに,資本の,つまりは貨幣資本の過剰生産については知ろうとしているのは,これもまた,最良のブルジョア経済学者たちでさえも彼らの制度の機構をまったくわずかしか理解していないことを証明しているのである。}(2)

   (1)「一国内で」の「国」の下には下線がないが、引き忘れであろう。
  (2)この{ }のなかに書かれている部分の左側にはインクで縦線が引かれている。〉


 【これはようするに、一国内の生産(生産手段生産部門の)がすでに高度であればあるほど、それだけ可能的追加貨幣資本、つまり蓄積に投じられる蓄蔵貨幣の量もそれだけ大きいということ、なぜなら、すでに生産資本そのものが価値の量から見ても使用価値の量から見ても大きいからであり、つまりそれだけ追加的な不変資本の素材的対象がすでに大量に生産されていることを意味するからである。つまり一国の蓄積ファンドが大きいということは、その国がすでに高い生産力を持っているということの別の表現に過ぎないということである。
 そしてマルクスはこのことから、カッコで括った補足文のなかで、フラートンを批判して、彼らが「資本の過多」つまり貨幣資本の過剰は認めるのに、生産資本の過剰、つまり過剰生産を認めないのは、こうした最良のブルジョア経済学者でさえ彼らの制度についてまったくわずかしか理解していないことを証明するものだと指摘している。】

2008年7月30日 (水)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その14)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【19】


 〈したがって、単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産されるということになる。それはまさにとりもなおさず(当面の場合には)、《直接に》生産手段の生産に支出された剰余労働 I 、すなわち可能的剰余不変資本の創造に支出された、労働者階級( I )の剰余労働である。だから、 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成--資本家が《まったく》貨幣を支出することになしに形成された彼らの剰余生産物を次々に売っていくことによっての--は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである。〉

 【ここでもマルクスはあくまでも「たんに価値の大きさだけから見れば」という断りを置いて、「単純再生産の内部で、拡大された規模での再生産の物質的土台が生産される」と述べていることに注意が必要である。つまり“単純再生産の中に拡大再生産の物質的土台が生産される”とは言っていないのである! 問題はあくまでも価値の大きさかだけから見た場合に限定されるのであり、質的にはすでに単純再生産ではなく、拡大再生産になっている、つまりその物質的土台が違っていること、ただ価値の大きさから見れば、まだ単純再生産と変わらない、しかし質的には違っている、これがマルクスが言いたいことなのである。
  そしてこのパラグラフでは、さらに次のようなこともマルクスは述べている。結局、拡大再生産の物質的土台が出来ているということは、これから貨幣を蓄蔵して積み立てていくA、A'、A"等々がそのために売る彼らの(無償で入手した)剰余生産物そのものが、すでに I の生産手段の生産のための追加的な生産手段なのであり、それを貨幣化したものを彼らは蓄蔵するに過ぎないということである。つまり貨幣形態で蓄蔵する資本家たちが蓄蔵するために販売する剰余生産物というのは、そもそもすでに I の追加的な生産手段として存在しており、だからそれらはB、B'、B"等々によって購買されて追加的不変資本として充用され得るのだというわけである。結局、このことも言っていることは蓄積にはすでに蓄積されていることが前提されるとマルクスが繰り返し述べてきたことが再確認されているのである。】

【20】

 〈したがって、可能的追加貨幣資本の生産は、ここでは追加貨幣資本は、あとで見るように、まったく別の仕方でも形成され得る}(1)、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかには[57]なにも表現していない。

 (1)この{ }の中の部分の左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【まず最初に括弧のなかで述べられている{追加貨幣資本は、あとで見るように、まったく別の仕方でも形成され得る}というのは、以前にも指摘したが、恐らく信用に関係したものと考えられる。
 さて、このパラグラフでマルクスが言っていることは、追加的貨幣資本、つまりA、A'、A"等々が蓄蔵する貨幣を生み出すことは、彼らがその貨幣を蓄蔵するために販売する剰余生産物そのものの質に関わるのであり、だからそのことはそれらが生産される生産過程そのものに関連した一つの現象であること、すなわち生産資本の一定の形態であり、あるいはその生産資本の諸要素の形態の生産という現象だというのである。つまり蓄積というのは、すでに生産過程において剰余労働で何が生産されるかという現象そのものであり、その中に表現されているというのがマルクスがこのパラグラフで言いたいことである。つまり蓄積というのは、生産過程のそのものの機能配置がすでに単純再生産とは異なっているということである。だからここでもマルクスは拡大再生産の概念そのものを追究していることが分かる。】

【21】

 〈したがって、《可能的》追加貨幣資本の大規模な生産--流通表面〔Circulationsperipherie〕の多数の点での--は、可能的追加生産資本の多方面での生産の結果かつ表現にほかならないのであって、この可能的追加生産資本の成立そのものは産業資本家の側からの「追加」貨幣支出を少しも前提していない。〉

 【ここでマルクスが引き出している結論は、極めて重要であり、注目すべきことである。つまり追加貨幣資本の大規模な生産、それは資本の再生産過程のさまざまな局面で遊離された貨幣や流通表面の多数の点で遊休している貨幣などが、銀行を通じて集中されて資本家に貸し出されるものとしても存在するのだが、しかしそうして集められた追加的貨幣資本が存在するということそのものは、すでに可能的追加生産資本の多方面での生産の結果でありその表現だというのである。ここらあたりは第3部第5篇の第30~32章でマルクスが追究していることと深く関連していると言い得るであろう。貨幣資本の蓄積はどこまで現実資本の蓄積に対応し、それを表現しているのかをマルクスはそれらの章で追究するとしていたが、ここではマルクスは追加的貨幣資本の存在は、すでに追加的生産資本の存在を前提し、その結果であり、表現だと言っているのである。つまり追加的な貨幣資本があるということはすでにそれらは蓄積の一結果であり、それらが現実に生産資本に追加的に投資され蓄積され得るということは、そのための物質的材料が市場にすでに存在するということを意味するのだから、だから蓄積可能な追加的貨幣資本があるいうことは、それらが投資される対象である素材的対象がすでに生産されて市場にあるということ、すなわちすでに生産過程のなかでそれらは生み出されていることを意味し、前提するというわけである。
 そしてマルクスはこうした追加的生産資本の成立そのものは産業資本家の側からの「追加」貨幣支出を少しも前提しないとも述べている。これは第3部第5篇の第30~32章で言及していたもう一つの問題、貨幣資本の蓄積が貨幣の量と如何に関連するかとも関連する問題なのだが、そうした貨幣の追加的支出を必要としないこと、つまり貨幣の量とは無関係であることも指摘している。要するに、問題はこれらの産業資本家の生産資本の質、彼らの取得する剰余労働が支出される素材的形態の問題だとマルクスは言いたいのである。
 しかしこれに関連して少し考えてみると、例えば銀行がいわゆる“信用創造”して、わずかな準備金のもとに過大な銀行券を発行したり、預金設定(帳簿信用)で貸し出し、それを産業資本家が追加的貨幣資本として蓄積しようとした場合はどのようになるのであろうか? 上記のマルクスの結論から言えば、社会的に見れば資本家はそうした借り出した架空な貨幣資本によっては蓄積は出来ないことになる。なぜなら、そうした架空な貨幣資本は、現実の追加的生産資本を前提しそれを表現していないからである。だから彼らは架空な貨幣資本を投資しようとしても、それを前貸する対象である追加的な生産諸手段を市場の中に見出すことが出来ないことになるからである。この場合は確かに“信用創造”と同時に、架空な“有効需要”も創造されるのであり、彼らがそうした架空な貨幣資本で蓄積しようとする場合は、現物の商品市場を圧迫し、追加的生産諸資本(追加的な生産手段や生活手段)の逼迫を生み出すことになるのかも知れない。そしてそれがさらに生産の拡大を刺激する等々。しかしこれは今後の研究課題であろう。】

2008年7月29日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その13)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【以下は、前回(その12)掲載の【18】パラグラフの解説の前畑氏批判の続きである。

 では何をマルクスは問題にしているのか、それは単純再生産と比較しながら拡大再生産の特徴、その内容を分析しているのである。マルクスの対象はあくまでも拡大再生産である。

  マルクスは決して単純再生産から如何にして拡大再生産へ「移行」するかを問題にしているのではない。反対にマルクスが強調しているのは拡大再生産はすでに再生産が拡大されていること(そういう機能配置になっていること)を前提とするということである。そしてこうしたマルクスの分析こそ、問題の唯物論的な捉え方なのである。マルクスは拡大再生産をそのものとして前提し、それを分析しているのであって、拡大再生産はそれ自体としてみれば、それは不断に拡大して再生産を繰り返している過程そのものであり、そうした運動過程なのである。運動している拡大再生産過程を、それ自体において分析するならば、まさに拡大再生産のためにはすでに拡大されていることが前提されるものとして(そうした機能配置にあるものとして)現われるのであり、マルクスが強調していることはそのことなのである。

 前畑氏は〈「拡大再生産の物質的基礎」がまだ存在しない場合に、いかにして新たにこれを造り出すか〉が問題の核心だという。彼女がその回答として考えているのは、〈部門 I での剰余労働の支出の具体的形態が部門II用生産手段から部門 I 用生産手段に変化することによって〉というものである。しかし果たしてマルクスはそんなことを言っているのか?
 われわれは前畑氏らの主張がいかにマルクスの主張をねじ曲げたものであるかを知るために、もう一度マルクスの文章に帰って、その内容を正確に読み取ってみよう。その場合、われわれはエンゲルスの書き込みに惑わされないように、マルクスが草稿ではカッコで括って述べている部分(それをエンゲルスはカッコをはずし前半部分を生かして、後半部分を自分で書き換えて、(4)~(7)の文章にした)を無視して、マルクスが本文として述べている部分だけを正確に読み取ってみよう。マルクスは大要次のように述べている。

 “剰余生産物を I の不変資本に限って考察すると、それらはA群の資本家たちによって販売され、彼らはそれによって入手した貨幣を潜勢的な貨幣資本として蓄蔵する。他方でB群の資本家たちによってそれらは購買されて、追加的不変資本として機能させられる。しかしこれ自体は、 I の側での再生産の価値の大きさから見るなら、単純再生産の限界の内部のことである。というのはその価値量からみて、剰余生産物はまったく単純再生産の過程で生産された剰余生産物であって、それ以上のものではないからである。では何が違うのかというと、単純再生産では全剰余労働がIIの生産手段の生産に支出されたのが、ここでは I の生産手段の生産に支出されたという違いだけである。剰余労働の量そのものは何も変わらない。だからそれは価値の量から見れば、まったく単純再生産の枠内のことなのだが、ただ剰余労働の支出の形態が変わっているのである。そしてこの剰余労働が I の生産手段の生産に支出されるということは、それは I の再生産の観点から見れば、その剰余生産物は I の追加的な生産手段なのである。だからA群の可能的な新追加貨幣資本の形成というのは、彼らの剰余生産物が質料的にはIIの生産手段ではなくて、 I の追加的生産手段になっているからであり、ただそれの単なる貨幣形態であるに過ぎないのである。”

  このようにマルクスの述べていることを要約してみても、マルクスは単純再生産から「いかにして」拡大再生産に「移行」するのか、といったことは何も述べていないことが分かる。単純再生産と拡大再生産とでは何が違っているのかを見ているだけである。マルクスが単純再生産と拡大再生産とを価値量では、まったく同じ規模に想定して、両者を比較したのは、拡大再生産というのは決して単に量が拡大しているだけではないこと、質的に両者は異なることを明確にしたいからである。拡大再生産とはマルクス自身「拡大された規模での再生産」とも述べているように、まさに量(規模)において拡大された再生産なのである。しかし問題は単に規模や量だけの問題ではないこと、質的な違いにこそ注目すべきだというのが、ここでマルクスが強調したいことなのである。だからマルクスは価値量としてはまったく単純再生産と変わらない拡大再生産を想定して、両者を比較・分析して、拡大再生産の本質的な特徴、その本質的内容を明らかにしようとしているのである。

 このことはマルクスが後に--少し先走りすぎるがお許しあれ--拡大再生産表式の出発式を次のように示したうえで、その意義を以下のように述べていることからも分かるのである。

 マルクスの出発式は次のようなものであった。

  I)4000c+1000v+1000c=6000    
                                               合計8252
 II)1500c+ 376v+ 376m=2252

 マルクスはこの表式の意義を次のように述べている。

 〈まず第一に気がつくのは、年間の社会的再生産の総額が8252で、表式1)で9000だったのに比べて小さくなっているということである。…(中略)…表式1)での額よりも小さい額を選んだのは、次のことが目につくようにするためにほかならない。すなわち、拡大された規模での再生産(これはここでは、より大きな資本投下で営まれる生産のことである)は生産物の絶対的大きさとは少しも関係がないということ、この再生産は、与えられた諸商品量について、ただ、与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列あるいは違った機能規定を前提するだけであり、《したがって》価値の大きさから見れば単純再生産にすぎない、ということである。単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって、この変化が、そのあとに続いて行われる拡大された規模での再生産の物質的前提なのある(大谷訳下8頁)

 まさにここに述べられている理由こそ、マルクスが前畑氏が先に引用した部分で、拡大再生産を単純再生産と比較・検討している理由でもあるのである。

 マルクスは前畑氏が引用している最後の部分で次のように述べている。

 〈(10)だから、ここでは、AやA'やA"(部門 I )の側での可能的追加貨幣資本の形成--……--は、追加的に生産された生産手段 I の単なる貨幣形態なのである。〉

 前畑氏はこのマルクスの言っている内容を少しも理解していない。マルクスは I 部門の貨幣資本の蓄積は、単に I 部門で《追加的に》生産された生産手段 I の単なる貨幣形態だと述べている。これは蓄積には蓄積が前提されるというマルクスの言明の別の表現なのである。つまり I 部門の潜勢的貨幣資本の蓄蔵は、すでに I 部門で追加的に(だから拡大されて)生産された I 部門の生産手段の貨幣形態なのだとマルクスは言っているのである。これがマルクスが、この一連の分析によって引き出した結論なのである。前畑氏はこうしたマルクスの結論が何を意味するかを何一つ理解していないのである。

 前畑氏は単純再生産から拡大再生産に「移行」するためには、「部門 I での剰余労働の支出の具体的形態が部門II用生産手段に変化する」ことが必要だという。果たして本当にそうなのか、つまりそのことによって本当に単純再生産から拡大再生産に「移行」できるのか、それを検討してみよう。
 われわれは去年までは単純再生産だったが、今年から拡大再選産に「移行」する場合を考えよう。「移行」を云々する限りは、こうした想定は不可避であろう。ところで去年までは単純再生産だったのだから、当然、その年末の総商品資本のうち剰余価値部分を表わす商品資本の質料的定在はIIの生産手段である。 IAはその剰余価値部分を販売してその売り上げを蓄蔵する資本家である。彼はその蓄積部分の剰余生産物をIIに販売したのだが、しかしそれに対応するものはIIからはまったく買わない。ただ一方的に販売するだけである。また I には去年までは単純再生産だったのだから、当然、それまで剰余生産物の売上げを蓄蔵して一定の必要な額に達したので、今年から現実に投資して生産を拡大する資本家Bはいないことになる。つまりAの一方的販売に対応した一方的購買者であるBは存在しないのである。だから I 部門ではその剰余価値のうち蓄蔵する部分は、ただ一方的にIIに売りつけるだけで、IIからは何も購入しないのである。しかしIIは I から生産手段を購入するが、しかしそれに代わる自分たちの生産物は販売できないことになる。つまりIIの資本家たちも去年までは単純再生産をやっていたのだから、突然、今年から自分たちの生産手段だけは去年と同じだけ購入することを要請されるのだが、しかし自分たちの生産物の一部は売れ残り、貨幣資本に転化しないのである。彼らは在庫を抱えることになる。彼らは自分の商品資本は貨幣資本に転化しないのに、自分たちの生産手段は去年と同じだけ購入することを強制される(そうしないと I のAは貨幣蓄蔵をできない)。だから彼らはそれまでに何らかの理由で蓄蔵していた貨幣を持ち出すしかないのだが、しかし彼らは自分たちの商品が売れ残って在庫として抱えているのに、今年も去年と同じような規模で生産する必要をどうして考えるであろうか? これは資本主義的生産としてはまったく不合理である。しかも、この段階では、まだ I では拡大再生産が行われたわけではない。 I ではAによってただ貨幣が流通から引き上げられて、蓄蔵されただけであって、まだまったく現実の蓄積、つまり拡大された規模での再生産は始まっていないのである。ということはこうしたことがあと何年か続く必要があるかも知れない。つまり一方的な IA による販売を受け付けるだけのIIの貨幣源泉をそれこそウロウロと探し回る必要が出てくるのである。前畑氏はこうした不合理にすべて答える必要がある、そうして始めて彼女は「移行」を論じたことになるのである。出来るものならやってもらいたいものだ。

 とりあえず、「移行」論はこれぐらいにして先に進もう。】


2008年7月28日 (月)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その12)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【以下は、前回(その11)掲載の【18】パラグラフの解説の続きの続きである。


 私はすでにこの段落ごとの解説を開始するに当たって、全体を見通しを示し、次のように指摘しておいた。

 〈結局、拡大再生産の概念というのは、単純再生産とはまったく違った機能配置による再生産の出発式が前提されるというところに尽きる。つまりその意味では単純再生産と拡大再生産とは単に量的な相違だけでなく(量的に「拡大」されるだけではなく)、質的相違があること、前者から後者への「移行」には質的飛躍があること、をマルクスは強調している。マルクスはそれを強調する方法として、質的飛躍の論理的前提としての悪無限(「移行」を前提した場合の不合理や矛盾)に導く方法をとっており、それがいわゆる一般には「試行錯誤」と捉えられているような気がする。しかしマルクスの意図としては、「移行」を前提すれば不合理や矛盾に陥ることを論証することによって、質的飛躍の必要を明らにしているのであり、その上で、新たな拡大再生産表式の出発式へと導いていくという展望を持っていたように思えるのである。〉

 つまり一見するとマルクスも「移行」を論じているように見える部分もあることは確かなのである。しかしそこにおけるマルクスの意図はどこにあるかを大谷氏らは見誤っているのである。それはマルクスが単純再生産と比較しての拡大再生産の概念を、そして最終的には拡大再生産の出発式を導き出す一つの手順なのだということが彼らには分かっていないのである。

 §大谷氏の「移行」論の不可解

 大谷氏はその著書『図解・社会経済学』(桜井書店2001.3.30刊)の289-292頁でも「単純再生産から拡大再生産への移行」を論じ、「移行の考察が明らかにすること」として二つのことを指摘しているが、しかしそれはまったく不可解な内容である。
 というのは大谷氏が一番めに上げている「第II部門が拡大するためには、そのための物質的基礎である第II部門用の追加的生産手段があらかじめ生産されていなければならないが、そのためには、第 I 部門が先行的に拡大していなければならない」というようなことは、何一つその前の「移行の考察」では明らかになっていないからである。その前の考察では「第II部門の拡大」どころか第II部門の縮小再生産が論証されているにすぎないのである。また第 I 部門で「第II部門用の追加的生産手段があらかじめ生産されていなければならない」などということもまったく論証されていないし、そもそも第 I 部門で第II部門用の追加的生産手段が生産されるといったことはまったく問題にもなっていないのである。どうしてこうした結論が「以上の考察から」出てくるのか不可解としかいいようがない。
 また二つ目の結論らしきものは「単純再生産から拡大再生産に移行するさいには、第II部門で再生産規模の縮小が生じるのであって、これは多かれ少なかれ、再生産過程の攪乱を招かざるをえない」というのであるが、確かにこれはこの限りでは首肯しうる。しかそれを指摘するのなら、そもそも第 I 部門の剰余価値生産の内容が変化していることも指摘すべきではないのか、つまりそれまで部門IIの不変資本の現物形態を生産していたのが、部門 I の不変資本の生産に変化しているのである。つまり第 I 部門の機能配置そのものが変化しているのである。この変化は果たして何の攪乱もなしに可能であろうか。
  要するに大谷氏には、マルクスが単純再生産と比較して拡大再生産で強調していることが理解されていないか、見落とされているのである。だからこそ彼は「移行」ということにことさら拘っているように思える。大谷氏が「移行」に拘泥するのは、恐らく師の故久留間鮫造氏の「恐慌論」を引き継いだ故であろうと思うが、それについて言及すると問題が逸れるので割愛せざるを得ない(久留間鮫造著「恐慌論体系の展開方法について1・2」『経済志林』43-3、44-3を参照)。

 §前畑憲子氏の「移行」論批判

 われわれはやや横道に逸れることを恐れず、もう一人の「移行」論者にも登場願おう。前畑憲子氏は『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』40号で《「単純再生産から拡大再生産への移行」についてのエンゲルスの書き入れをめぐって--「移行」問題の核心は何か--》と題してこの問題を論じている。氏の主張は大谷氏の先の主張を補強しようとの意図のもとになされているのだが、それをここで批判的に検討してみたい。
 この前畑氏の論文は、富塚批判として展開されている。しかしわれわれは富塚批判の部分は当面の問題とは関連しないと思うのでとりあえずは捨象して、前畑氏がいわゆる「移行」問題の核心として積極的に述べている部分のみを批判的に検討する。

 まず前畑氏はマルクスの草稿から引用を行っている。その引用には、実は、われわれが次のパラグラフとして(われわれの番号では【19】で)検討する部分も入ってしまっているが、しかしとにかく、われわれもそれを重引してから話を始めないと始まらないので前後する部分はお許し願いたい(《 》部分はエンゲルスによる書き込み。( )付き番号は前畑氏)。

 〈……。(1)われわれがただ I の側での再生産の価値量だけを考察するならば、われわれはまだ単純再生産の限界からでてはいない。(2)なぜならば、この可能性から見ての追加不変資本(剰余生産物)をつくり出すために追加資本が動かされてはいないし、また、単純再生産の基礎の上で支出されるであろうより大きい剰余労働も支出はされてはいないからである。(3)違う点はここではただ充用される剰余労働の形態だけであり、その特殊な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働はIIcのためのではなく IC のための生産手段に支出されており、消費手段の生産手段にではなく生産手段の生産手段に支出されている。(4)単純再生産の場合には、全剰余価値 I が収入として支出され、したがって商品IIに支出されるということが前提された。(5)したがって、剰余価値 I は、不変資本IIcをその現物形態で再び補填するべき生産手段だけから成っていた。(6)《そこで、単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには、部門 I での生産は、IIの不変資本の諸要素をより少なく、しかしそれだけ I の不変資本の諸要素をより多く生産できるようになっていなければならない。(7)この移行は必ずしも困難なしに行われるものではないが、しかし、それは、 I の生産物のあるものがどちらの部門でも生産手段として役立つことができるという事実によって、容易にされるのである。》
 (8)そこで、--単に価値量だけから見れば--単純再生産のなかで拡大再生産の物質的な基礎が生産されるということになる。(9)それは、ただ単に、直接に生産手段の生産に、すなわち可能的追加資本 I の創造に支出された労働者階級 I の剰余労働である。(10)だから、ここでは、AやA'やA"(部門 I )の側での可能的追加貨幣資本の形成--……--は、追加的に生産された生産手段 I の単なる貨幣形態なのである。〉
(『資本論』第2部、S.429-430)

 前畑氏はまずエンゲルスの書き込みが、マルクスがここで述べている問題を「明示的に取り出したもの」だと主張する(これは前記の大谷氏の主張そのものである)。だからこのエンゲルスの書き込みによってマルクスの主張はねじ曲げられたのではなく、むしろより明らかになったのだと評価するのである。
 確かにエンゲルスの書き込みは、ここでマルクスが論じているものが、そうしたものであるかに思わせるに十分なものではある。実際、私もマルクスの第8草稿を直接読む機会がなく、エンゲルスの書き込み部分が、そうしたものであることを知らずに読んだなら、しかもさらに故久留間鮫造氏や大谷禎之介氏などその筋の権威ある学者の解説を読んだとしたら、恐らくそれを正しいと思ったであろうと断言できる。その意味では、エンゲルスの書き込みは、この部分におけるマルクスの述べていることを正しく理解することを、むしろ妨げ、間違った理解に導くものであり、“罪深い”ものであると言わざるを得ない。
 故久留間氏の場合は恐らくマルクスの第8草稿を直接見ることが出来なかったであろうから、氏の「移行」問題なるものの解釈は、ある意味ではやむを得ない。しかし大谷氏は第8草稿を直接調査し、それを翻訳・紹介した当の本人である。同氏が故久留間氏の主張の誤りを正さなかったのは(そればかりかその誤りを共有したのは)、その弟子として責任が問われるのではないだろうか。ここで大谷氏の主張を補強しようと登場されている前畑氏の主張を批判的に検討して、マルクスがここで本来述べようとしていることはどういうことかを、それは大谷氏や前畑氏が言っているような「移行」問題などでは決してないことを明らかにしたい。

 前畑氏は先の引用部分における〈問題の核心〉について次のように述べている。

 〈ここでの問題の核心は、先行する蓄積を前提することなしに(部門 I の価値量は単純再生産の限界内で)、どのようにして部門 I の拡大にとって必要な追加的生産手段が新たにつくり出されるか、これが明らかにされていることである。つまり、蓄積率=ゼロ(単純再生産)から部門 I の蓄積率=+α(これなしには「およそ拡大された規模での再生産が行われない」)への変化が前提され、その際どのようにして蓄積のための物質的基礎が新たにつくり出されるか、である。これが「移行」の場合の独自な問題である。その回答は I Mを形成する剰余労働のうちの一部を、II部門用生産手段を生産する具体的労働の形態から部門 I 用生産手段を生産する具体的労働の形態に転換することであった。こうして部門 I の価値量は単純再生産の限界内で、すなわち先行する追加資本の等価を前提することなく生み出された部門 I 用の生産手段を、部門 I のAグループ(貨幣的蓄積を行うグループ)が現実的蓄積を行う部門 I のBグループに一方的に販売することによって、Aグループが可能的貨幣資本を形成することができる。〉

 このようにここでマルクスが問題にしているのは、単純再生産から拡大再選産への「移行」が如何になされるかを論じているのだというのが、これまでの故久留間氏を始め大谷氏らの権威ある人たちの解釈であった。前畑氏も同じように次のようにも述べている。

 〈拡大再生産が行われるためには「拡大再生産の物質的基礎」が存在しなければならないということは自明のことである。……しかし、だからこそ、この「拡大再生産の物質的基礎」がまだ存在していない場合に、如何にして新たにこれをつくり出すかという問題が提起されるのである。前にも述べたように、マルクスがここで問題にしているのはこの問題である。〉

 しかしこうした解釈は、エンゲルスが追加した書き込みに惑わされたものだと思わざるをえない。彼らが見落としているのは、マルクスが単純再生産という場合に、つねに「再生産の価値量だけを考察するならば」とか、「そこで、--単に価値量だけから見れば」と断っていることである。マルクスはそれは単純再生産だとは決して述べていないのである。それは単に価値の量的大きさから見れば、われわれが当初想定していた単純再生産の場合とまったく異なっていないと述べているだけであって、それが単純再生産だとは決して述べていないのである。だから決して単純再生産から拡大再生産への「移行」が問題になっているのではないのである。 (以下、まだこの前畑批判は次回に続く)

2008年7月27日 (日)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その11)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【以下は、前回(その10)掲載の【18】パラグラフの解説の続きである。


 剰余生産物--剰余価値の担い手--は、それらの取得者である資本家 I  にとっては何の費用もかからない。彼らが前貸しするものは、彼らの不変資本と可変資本でしかない。労働者は彼らのために自分の労働によって彼らの不変資本を維持してやるだけではない。労働者は、彼らのために可変資本価値を、それに相当する新たに創造され商品の形態にある価値部分によって補填してやるだけではない。自分の剰余労働によって、労働者は彼らに、剰余生産物の形態で存在する剰余価値を引き渡すのである。この剰余生産物を次々に売っていくことによって、資本家たちは蓄蔵貨幣、追加的な潜勢的貨幣資本を形成する。
  いまここで考察している場合には--すなわち部門 I の不変資本の蓄積だけを前提する場合には--、この剰余価値ははじめから生産手段のための追加的生産手段という形で存在している。この剰余生産物は、B、B'、B"等々( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは、可能的には、それらが売られる以前から、貨幣蓄蔵者A、A'、A"等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは I の側での再生産の価値の大きさだけを見るならば(この「価値の大きさだけを見るならば」ということが重要である!)、単純再生産の限界の内部でのことである(つまり価値の大きさだけを見るならば、単純再生産と一つも変わっていない)。というのは、この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく、また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。
 違う点は、ここではただ、充用される剰余労働の形態だけであり、その特殊な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は、IIのために機能すべき、またそこでcII)となるべき生産手段の生産にではなくて(それなら問題は単純再生産そのものでしかない)、生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。

 【上記の要約文では、マルクスがカッコを付けて書いている部分はすべてカットしてある。それは特にここで論じなければならないものではなく、だからまたマルクスはカッコに入れたと考えられるからである。
 まずここでマルクスが問題にしているのは「剰余生産物」であり、「剰余労働」である。それについてマルクスは主に四つのことを指摘している。

 1)まずそれを取得する資本家はそれを無償で手に入れる。だがこれ自体はこれまでにも指摘されてきたことであり、ここで必ずしも再び確認するほどのことではない。
 2)次に「いまここで考察している場合には」、つまり I の不変資本の蓄積を考察している場合には、剰余価値ははじめから生産手段の生産ための追加的生産手段だということである。これもすでにこれまで、部門 I の不変資本の蓄積だけを前提し考察するということで、指摘されてきたことである。
 3)また「再生産の価値の大きさだけを見るならば」、「単純再生産の限界内部でのこと」だということ。つまり価値の大きさだけを見るなら、生産された剰余価値は、単純再生産の時以上の価値が生産されたわけではなく、まったく同じだということである。これがこのパラグラフによってはじめて言及されている問題である。ここで間違ってはならないのは、マルクスは決して単純再生産そのものではなく、あくまでも「価値の大きさだけを見るならば」という限定をつけて論じていることである。これを見誤っているのがエンゲルスであり、大谷氏をはじめいわゆる「移行」論者に共通する問題であり、彼らの“躓きの石”である。マルクスはあくまでも価値の大きさだけを比較して、剰余価値の量を見る限り、単純再生産の限界の内部のことだといっているだけなのである。なぜなら、部門 I の不変資本(c)と可変資本(v)が単純再生産と同じなら、その生産される剰余価値(m)も価値の量としては、同じだからである。われわれの単純再生産の表式では、それは I (4000c+1000v+1000m)である。つまり1000mという剰余価値の量としては、まったく変わっていない。しかし1000mの現物形態は、すでに単純再生産とは違っている、これがマルクスの言いたいことなのである。というのは、単純再生産の場合は1000mはIIcと交換される必要があった。つまり第II部門の不変資本部分、消費手段の生産のための生産手段でなければならなかったが、いまでは I 1000mは、部門 I の追加的不変資本、つまり生産手段の生産のための追加的生産手段という現物形態で存在している、ということである。だから、もしわれわれが蓄積の出発の総商品資本の価値額を単純再生産のそれと同じとしたならば、まだその価値額だけを見るかぎりでは、単純再生産と同じだけの剰余価値が生み出されただけだ、というのがマルクスの言いたいことなのである。
 4)価値の大きさから見れば単純再生産の限界の内部にあるが、しかし拡大再生産では、剰余労働の形態は、IIcを補填すべき生産手段、つまり消費手段を生産するための生産手段ではなく、 I の生産手段の生産のための追加的生産手段に支出されるという点で単純再生産とは違っている。つまり剰余労働が支出される具体的形態が違っている。これがこのパラグラフでマルクスが一番言いたいこと、つまり拡大再生産の概念として一番重要なことなのである。

 だからマルクスが全体として言いたいことは、決してエンゲルスがいうような単純再生産から拡大再生産に移行する条件といったものではない。そうではなく、拡大再生産では何が単純再生産と違っているのか、ということである。つまり拡大再生産は単に量的に拡大された規模での再生産だというのではないこと、問題は質的な変化、剰余労働の具体的な支出の形態の違いだというのがマルクスがここで言いたいことなのである。つまりマルクスが問題にしているのは、あくまでも拡大再生産の概念であり、そのもっとも基礎的な本質的な特徴をここで指摘しているのである。単純再生産はただそれを明示的に示すために、比較の対象として持ち出されているに過ぎない。
 だからこれをもしエンゲルスのように、ただ「移行」の条件についてマルクスが語っているのだと理解するなら、それはまさに拡大再生産の概念そのものを見誤ることに繋がるのである。

 §エンゲルスの修正は果たして正当か?

 われわれはエンゲルスの修正の是非についても、やはり詳しく検討しておく必要がある。なぜなら、この草稿の翻訳者である大谷氏は、エンゲルスの修正はマルクスの意図を反映した正当なものだと評価しているからである。
 まずエンゲルスは何をどのように修正したのかを確認しておこう。エンゲルスは上記のマルクスの草稿で大谷氏が(3)と注番号を打ったあとの部分、「ところで、 I のある種の生産諸部門の生産物は、生産手段としてIIにはいるのではなく、……」以下最後までをカットして、次の文章に差し替えているのである。

 《したがって、剰余価値 I は、不変資本IIcをその現物形態で再び補填するべき生産手段だけから成っていた。そこで、単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには、部門 I での生産は、IIの不変資本の諸要素をより少なく、しかしそれだけの I の不変資本の諸要素をより多く生産できるようになっていなければならない。この移行は必ずしも困難なしに行なわれるものではないが、しかし、それは、 I の生産物のあるものがどちらの部門でも生産手段として役立つことができるという事実によって、容易にされるのである。》(全集版615頁)

 つまりエンゲルスはマルクスがここではまったく論じていない「単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれるためには」何が必要かといった問題に問題をすり替えているのである。しかしマルクスはここではそうしたことではなく、拡大再生産が単純再生産とは違った質的内容を持っていること、量的には同じでも剰余生産物の現物形態が違っていること、だから剰余労働の具体的内容が違っていること、これこそが単純再生産と異なる拡大再生産の特徴であるというのがマルクスの言いたいことなのである。

 ところがこのエンゲルスの修正について、大谷氏は次のように評価している。

 〈しかしこのつけ加えないし書き替えは、草稿のこの部分のなかでマルクスが明らかにしようとしているいくつかの点のうちの一つを、明示的に取り出したものとして、きわめて適切かつ重要なものであると考えられる。「単純再生産から拡大再生産への移行」という問題はマルクスのテーマの重要な一半をなしているが、マルクスはこの表現を使っていないのである。この事実から、「移行」という表現はエンゲルスの書き加えにすぎないのだから、それはマルクスの展開とは無関係だったことがはっきりした、といった結論を導き出す人があるかもしれない。しかし、もしそういうひとがあるとすれば、そのひとはそれによって同時に、次のように言明することになるわけである。すなわち、マルクスが「蓄積と拡大再生産」の章のなかでまったく書いていない事柄をマルクスのこの章での「含意」だとして「展開」してみせることは、さらにそれ以上にマルクスとは無関係な地点に立つものである、と。〉(19頁)

 大谷氏はこう書いているのだが、しかし同氏はマルクスが「草稿のこの部分のなか」の何処でエンゲルスがいうところの「移行」について述べているのかを 何一つハッキリとは明示していない。「草稿のこの部分のなかでマルクスが明らかにしようとしているいくつかの点のうちの一つを、明示的に取り出した」というのなら、草稿のどの部分がそれに当たるのかを明確に指摘すべきではないだろうか。いやそうではなく、「草稿のこの部分のなか」では、「移行」については、マルクスも論じていないが、しかしこの21章該当部分の草稿全体では〈「単純再生産から拡大再生産への移行」という問題はマルクスのテーマの重要な一半をなしている〉とでもいうのであろうか。もちろん、これまでわれわれがみてきた部分では、そうしたものに該当するものは無かった。ではこれ以降はどうか、それはおいおい見ていくことになると思うが、しかしそこでマルクスは果たして〈「単純再生産から拡大再生産への移行」という問題〉を追究しているのかどうか、それが問題である。(以下、次回に続く)

2008年7月26日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その10)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【以下は、前回(その9)掲載の【17】パラグラフの解説の続きである。


 この部分は宮川彰氏などが、第2草稿段階から第8草稿段階でのマルクスの理論的進展として指摘している部分に関連していると思われる。宮川氏はそれを次の様に指摘する。

 〈では、いちばんのポイントになってくるところは何か。マルクスは第八稿で、流通を媒介する貨幣が持ち手を転々と換えるにしたがって、資本になったり収入になったりするという現象的事実をめぐって、再三にわたって取り上げ批判しています。その関係は、なるほど交換につきまとう事実ではあるが、しかし皮相な一面的な捉え方であって、そうした把握に固執すると大きな誤りに陥るぞと警告しているのです。第二稿での貨幣流通の詳述にみられるのは貨幣の持ち手が交替しながら資本や収入が補填されるといったような把握の仕方です。これは、スミスら古典派でもひろく語られていたような、いわば貨幣ベール論ともなじむような捉え方であって、まさに、第八稿でマルクスが徹底的に批判にさらした、くだんの一面的な把握ではないのかと、私は見たいのです。だから、第八稿のその指摘、警告は、第二稿の貨幣流通把握にたいする自己批判だとみることもできるのではないでしょうか。〉
 〈社会的総生産物の相互の商品交換という取り上げ方、対象設定から、社会的総資本の循環過程の進行という主題が前面に押し出されて来る。社会的総生産物の交換は、むしろ総資本の循環の一段階に現われる、商品資本・貨幣資本の形をとった諸資本相互の絡み合い、という取り上げ方へと整備された、と言ってよいでしょうか。前者のような取り上げ方では、貨幣は流通手段の機能でしか登場できません。後者のような対象設定における貨幣資本の位置付けなら、蓄藏手段(積立機能)ないし支払機能もまた排除されずに考慮されます。このおかげで、貨幣積立に直接依存する固定資本の補填問題や蓄積・拡大再生産の考慮が開けて来る、というわけです。〉(『経済』2005年12月号)

 上記のように(前回の解説のように)マルクスの敍述を要約して資本の循環形式にしてみると、宮川氏らの主張の趣旨がよく分かるのである。

 しかし宮川氏らの問題意識は、まだよく分からないという人たちのために、以前、宮川氏らの問題意識が何処にあるかを知人に解説したことがあるので、
そのメールを一部差し支えのない部分を紹介しておこう。

 以下、メールから

 宮川氏などが「社会的総生産物の相互の商品交換という取り上げ方、対象設定から、社会的総資本の循環過程の進行という主題が前面に押し出されてくる。社会的総生産物の交換は、むしろ総資本の循環の一段階に現われる、商品資本・貨幣資本の形をとった諸資本相互の絡み合い、という取り上げ方へと整備された」と言っているのは、次のようなことだと思います。単純再生産の表式を使って考えてみましょう。

  I 4000c+1000v+1000m (6000)

 II 2000c+500v + 500m  (3000)

 宮川氏らの主張の出発点もやはりこの表式なのです。つまり商品資本から出発するという点ではまったく同じなのです。
 問題はこの表式を貨幣を媒介させて説明する時にでてきます。

 ここで宮川氏が「社会的総生産物の相互の商品交換という取り上げ方、対象設定」というのは、この場合、単純再生産の条件として I とIIのあいだの関係としては、I(1000v+1000m)=II2000cが成立する必要がありますが、それを I(1000v+1000m)とII2000cとが交換されると捉える捉え方です。貨幣はそれをただ媒介するものとして捉えるのです(もちろんいうまでもないですが、商品交換はこれだけでなく、I 4000cの内部やII(500v+500m)内部でも行われます)。

 それに対して「社会的総資本の循環過程の進行という主題が前面に押し出されてくる」というのはどういうことかというと、第八草稿の【17】パラグラフのエンゲルスが編集段階でカットした一文のように考えることなのです。もう一度、それをこの単純再生産で使っている数字を入れて引用してみましょう。

 〈(1)労働者 I の側では、A-1000G(=W-G)、資本家 I への彼らの労働力の販売。1000G-1000W(資本家IIの諸商品II 1000cの購買)。したがって、A-1000G( I )……1000G-W(II 1000c)。結果--A(労働力)を維持し、それをふたたび商品として《労働》市場( I )で[売ることができる]。
   (2)資本家IIの側では、W(1000IIc)-1000G(労働者 I への彼らの商品の販売)……1000G-W(資本家 I の諸商品= I 1000vの購買)。結果--彼らの不変資本の一部分の、現物形態への回復。
  (3)資本家 I の側では、1000G-A(労働力 I の購買)…W(1000v)-1000G(資本家IIへの彼らの商品の一部分の、すなわち労働者 I によって新たに創造された(v+m) I のうちのv部分の販売)。結果--彼らの可変資本価値の、商品資本 I 1000vの価値部分からの可変貨幣資本1000Gとしての回復。〉

 これはいうまでもなく単純再生産の条件である I (1000v+1000m)=II 2000cのうち、 I 1000vとII 1000cの関係だけを見ているのですが、それを単純に I 1000vとII 1000cが交換されると捉えたのでは、こうした複雑な絡み合いはでて来ないわけです。
 ここでマルクスは【A-1000G……1000G-W(II 1000c)】とか【W(1000 IIc)-1000G……1000G-W( I 1000v)】とか、さらには【1000G-A( I )…W(1000v)-1000G】という形で見ています。これはまさに労働力商品の変態と諸資本の循環の絡み合いとして問題を捉えていることではないでしょうか。宮川氏などが「社会的総生産物の交換は、むしろ総資本の循環の一段階に現われる、商品資本・貨幣資本の形をとった諸資本相互の絡み合い、という取り上げ方へと整備された」ということで言っているのは、こうした捉え方ではないかと思います。

 実際、第二草稿を見ると--水谷謙治・名和隆央「『資本論』第二部第二草稿(「第三章」)の未公開部分について」(『立教経済学研究』33巻1号)参照--、宮川氏が指摘するように、そこではマルクスは流通する貨幣に注目して、それが資本としての機能を果たしたり、収入としての機能を果たすといった分析をしています。そうした観点が第八稿では克服されているというのはその限りでは私には事実のように思えます。

  一度、私が参考のために上げた諸文献を直接確かめて検討してみてください。】

【単純再生産との比較による拡大再生産の固有の課題の分析】

【18】【ここから単純再生産との比較による拡大再生産の検討が始まる。エンゲルスはこの部分にあるマルクスの挿入文の一部を本文に組み込み、そこに何の断りもなく自身の追加文を書き入れて、ここでマルクスが単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じているかに問題をねじ曲げてしまっているところである。このエンゲルスの修正の評価については詳しく検討しよう。】

 〈剰余生産物--剰余価値の担い手--は,それの取得者である資本家 I にとってはなんの費用もかからない。彼らはそれを手に入れるためにどんな種類の貨幣も商品も前貸しする必要はない。彼らが前貸しする(すなわち買う)ものは{前貸(avance)は,重農学派の場合にそうであるように,生産資本の諸要素に実現された価値の一般的形態である。労働者が支払いを受けるのは,どんな事情のもとでも,彼の労働力がすでに生産過程で働いたあと,つまりそれがすでに資本家のために商品に実現されたあとでしかない。生産期間の長さや生産物の性質に応じて,商品の販売(これは注文《での生産》の場合には労働過程が始まる以前にすでに行なわれていることがありうる)は,労働者たち〔の労働〕がすでに完成生産物か未完成生産物かに実現されてすでに支払われたのちに,長短さまざまの期間[53]にわたって行なわれるのであるが,このことは,このような「前貸」の範疇的規定をなにひとつ変えるものではない}(1),彼らの不変資本と可変資本でしかないのである。労働者は彼らのために自分の労働によって彼らの不変資本を維持してやるだけではない。労働者は,彼らのために可変《資本》価値を,それに相当する新たに創造され商品の形態にある価値部分によって補填してやるだけではない。自分の剰余労働によって,労働者は彼らに,剰余生産物の形態で存在する剰余価値を引き渡すのである。この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。(2)|53|違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこで cII)となるべき生産手段の生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に文出されたのである。{単純再生産の場合には,剰余価値 I の全部が収入として支出され,したがって商品IIに支出されるということが前提された。したがって剰余価値 I はこの場合には,cII)をその現物形態でふたたび補填すべき生産手段だけから成っている。(3)ところで, I のある種の生産諸部門の生産物は,生産手段としてIIにはいるのではなく, I それ自身のなかでのみふたたび生産手段として役立つことができるものである。これらの部門の生産物は,価値から見れば他のあらゆる部門の生産物と同様にc+v+mに分解されることができる。では,追加不変資本 I のために[54]素材を提供することのない単純再生産を前提した場合に,このmはどういうことになるのだろうか? これは I のもとで,単純再生産のところで考察すべきことである。〔}〕

 (1)この{ }(原文では角括弧)のなかに書かれている部分の左側にはインクによる縦線があり,さらにその左側に赤鉛筆による縦線がある。
 (2)ここで草稿の52ぺ一ジが終わるが,ちょうど右端まで書かれており,次ぺ一ジの冒頭が改行となるかどうかは形式的には判断できない。エンゲルスは改行していないので,それに従う。
 (3)この一文の左側には縦線が引かれている。その末尾に区切りのしるしをつけたあと,さらにこのパラグラフの末尾まで縦線が引かれている。〉

 【以下、このパラグラフの解説は次回に続く。】 

2008年7月25日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その9)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【以下、前回(その8)掲載の【14】の解説の続きである。

 だからここでマルクスが〈商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだす〉と述べているのは、要するにすでに述べたように、一方は、蓄蔵貨幣として常に流通から一定の貨幣額が引き上げられて蓄蔵され、他方はそれまで蓄蔵されきた貨幣が常に現実に流通に投じられ、しかも両者は価値額として等しくなければならない、というような条件はそれらが貨幣資本としてある定在から生まれてくる条件なのだということを言いたいのである。またマルクスはここで「単純な規模のであれ拡大された規模のであれ」とも述べているが、これは「拡大された規模」というのは、もちろん今論じている蓄積に必要な蓄蔵貨幣のことであるが、「単純な規模の」場合というのは、単純再生産で問題になった固定資本の補填の場合のことを指しているのである。固定資本の補填の考察でも、やはり一方における一方的に販売による貨幣蓄蔵と、他方における一方的購買による蓄蔵貨幣の流通貨幣の転化が問題になったことを意味しているのである。】


【16】【このパラグラフと次のパラグラフ(【17】)の二つのパラグラフで論じられていることは、確かに重要な問題だが、しかし直接には拡大再生産に関連した問題が論じられているわけではない。むしろ問題はマルクスが「すでに見たことであるが」とも述べているように、単純再生産で問題にすべき問題であるように思える。ここではマルクスはその前のパラグラフ(【15】)に直接関連させて論じているようである。つまり蓄積のためには貨幣蓄蔵が資本主義的流通過程に内在する一契機として見出されねばならないが、そのためには必ず一方的販売が生ずること、しかしそのために均衡を維持するためには他方で必ず一方的購買が同価値額で対応しなければならないということ、だからそこには「恐慌の諸可能性」が潜んでいるということであった。それと関連させて、マルクスはこの二つのパラグラフでは、それと類似する問題として可変資本の循環の場合にも同じような問題が潜んでいると指摘しているのである。つまり可変資本の循環の場合には、単に資本家間の商品の交換だけではなく、労働者の労働力の販売と彼らの消費支出という契機が資本の循環過程と絡まりあってくるのであり、だからそこにも一方的購買と一方的販売の諸契機が存在すること、だからまた蓄積の場合と同じような恐慌の諸可能性が潜んでいるのだというのが、マルクスが以下の二つのパラグラフで言いたいことなのである。ただこの可変資本の循環における労働者の労働力商品の販売と彼らの消費支出という問題は、可変貨幣資本の蓄蔵とその現実的蓄積を貨幣を媒介させてその絡み合いを考察する時には不可避に問題になってくるのであり、そのために、あるいはマルクスはそれを想定して、ここでそのもっとも基本的な関係を再度論じている--本来は単純再生産で問題にされなければならない問題なのだが--のかも知れない。もっともマルクス自身はそうした潜勢的可変資本のための貨幣の蓄蔵とその現実的蓄積を貨幣を媒介にしてその絡み合いを考察するということについては、実際には取り扱っていない、というかそれを最後まで叙述するには至っていないのではあるが。】

 〈|52|同様にすでに見たことであるが,v(I)とc(II)のうちの対応する価値額との転換のさい,たしかにc(II)にとって最終的には,同じ価値額の商品(vI)による商品(II)の補填が行なわれるのであり,したがって資本家II)の側から見れぱ,この場合には自分の商品の販売があとから同じ価値額の商品 I の購買によって補われる。このような補填(第1部を参照せよ)がたしかに行なわれる。しかし,資本家 I とIIとの相互の商品のこの転換では,この両者による交換が行なわれるのではない。c(II)はその商品を I の労働者階級に売り,後者は前者に一方的に商品の買い手として相対し,前者は後者に一方的に商品の売り手として相対する。IIcは I の労働者階級から入手した貨幣を携えて,一方的に商品の買い手として資本家 I に相対し,この後者は前者にv(I)について一方的に商品の売り手として相対する。ただこの商品販売によってのみ,I)は最終的に自分の可変資本をふたたび貨幣形態で,貨幣資本の規定のもとに〔sub specie〕,再生産するのである。資本 I)は,II)には(vI について)一方的に商品の売り手として相対するが,自分の労働者階級(1)には彼らの労働力を買うときに一方的に商品の買い手として相対する。また,労働者階級 I は,資本家IIには一方的に商品の買い手として相対するが,資本家 I には一方的に商品の売り手として,つまり自分の労働力の売り手として,相対する。

   (1)「階級」に下線がないのは引き忘れであろう。〉

 IvとIIcのうちの対応する価値額との転換においては、資本家 I とIIとの相互の商品の転換では、この両者による交換が行われるのではない。IIcはその商品を I の労働者階級に売り、後者は前者に一方的に商品の買い手として相対し、前者は後者に一方的に商品の売り手として相対する。IIcは I の労働者階級から入手した貨幣を携えて、一方的に商品の買い手として資本家 I に相対し、この後者は前者に Iv について一方的に商品の売り手として相対する。ただこの商品販売によってのみ、I は最終的に自分の可変資本を再び貨幣形態で、可変資本の規定のもとに、再生産するのである。資本 I は、IIには( Iv について)一方的に商品の売り手として相対するが、自分の労働者階級には彼らの労働力を買う時に一方的に商品の買い手として相対する。また、労働者階級 I は、資本家IIには一方的に商品の買い手として相対するが、資本家 I には一方的に商品の売り手として、つまり自分の労働力の売り手として、相対する。

【17】【エンゲルス版では以下の部分で、マルクスが「次の三つの互いに絡み合いながら互いに独立に進行する流通過程」として示している項目1)~3)がすべて削除されている。】

 〈労働者階級 I によって労働力がたえず販売されるということ,〔 I の〕可変資本部分が彼らの商品資本の一部分から貨幣資本へと回復されること彼ら〔II〕の不変資本の一部分が彼らの商贔資本の一部分から彼らの不変資本の自然形態へと補填されること,--これらは互いに条件となり合っているが,しかし非常に複雑な過程によって媒介されるのであって,この過程は実際には次の3つの互いにからみ合いながら互いに独立に進行する流通過程を含んでいるのである。
 1)労働者( I )の側ではA-G(1)(=W-G),資本家 I への彼らの労働力の販売。G-W(II)(資本家IIの諸商品の購買。したがって,A-G( I )…G-W(II)。結果--(労働力)を維持し,それをふたたび商品として《労働》市場( I )〔売ることができる〕。
 2)資本家II)の側ではW-G(労働者 I への彼らの商品の販売)…G-W(資本家 I の諸商品(vI )の購買)。結果--彼らの不変資本の一部分の,現物形態への回復
 3)資本家 I )の側ではG-A(労働力 I の購買)-(2)W-G資本家IIへの彼らの商品の一部分の,すなわち労働者 I によって新たに創造された(v+m)I のうちのv部分の販売)。結果--彼らの可変資本価値の,商品資本( I )の価値部分から可変貨幣資本としての回復
 過程そのもののもつこの複雑さが,そっくりそのまま,不正常な経過にきっかけを与えるものとなるのである。(3)(4)

 (1)「A-G」--既述のように,マルクスのこの草稿では,この種の定式における横線はすべて下方の並び線についている。【ただしここではすべて下方の線を中間線に訂正した--引用者】たとえば,G-W…P…W一Gではなくて,G_W P_W_G’である。
 (2)この実線は点線(_)であるべきところである。
 (3)51ぺ一ジの中ほどからここまで,左端に(ジグザグの)縦線が続いている。
 (4)このあとに,左端から中ほどまで,青鉛筆で横線が引かれている。〉

  労働者階級 I によって労働力がたえず販売されるということ、[ I の]可変資本部分が彼らの商品資本の一部分から貨幣資本へと回復されること、彼ら[II]の不変資本の一部分が彼らの商品資本の一部分から彼らの不変資本の自然形態へと補填されること、--これらは互いに条件となり合っているが、しかし非常に複雑な過程によって媒介されるのであって、この過程は実際には次の三つの互いに絡み合いながら互いに独立に進行する流通過程を含んでいるのである。

 1)労働者( I )の側では、A-G( I )……G-W(II)。
    結果--労働力を維持し、それをふたたび商品として労働市場で売ることができる。
 2)資本家II)の側では、W-G……G-W。
    結果--彼らの不変資本の一部分の、現物形態への回復。
 3)資本家 I )の側では、G-A…W-G。
    結果--彼らの可変資本価値の、商品資本( I )の価値部分からの可変貨幣資本としての回復。

 過程そのもののもつこの複雑さが、そっくりそのまま、不正常な経過にきっかけを与えるものとなるのである。【以下、この部分の解説は次回に続く】

2008年7月24日 (木)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その8)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【13】【ここでは単純再生産が比較対象として出てくるが、固定資本の周期的更新の問題を蓄積の場合の貨幣蓄蔵と類比するために例示しているだけであり、まだ再生産としての比較ではない。】

 〈ついでに,ここでふたたび,次のことを述べておこう。以前(単純再生産の考察《のところで》)と同様に,ここでふたたびわれわれは次のことを見いだす。年間生産物のさまざまな構成部分(1)の転換,すなわちそれらの流通{これは同時に,資本の構成部分の回復--単純な規模でのまたは拡大された規模での,資本の再生産,しかもさまざまな規定性における資本不変資本可変資本固定資本流動資本貨幣資本商品資本の再生産--でなければならない}は,われわれが I)〔単純再生産〕のところで,たとえば固定資本の再生産のところで見たのとまったく同様に,けっして,あとから行なわれる販売によって補われる単なる商品購買またはあとから行なわれる購買によって補われる販売を前提していない。したがって,経済学,ことに重農学派やA.スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである。たとえば,単純再生産のところで見たように,たとえば不変資本IIcの固定成分の《周期的》更新{--(その総資本《価値》は(v+m)(I)《の諸要素》に転換される),それは,固定資本の最初の出現〔と更新〕との中間期間には,つまりその機能期間の全体にわたって,《まだ》更新されないで以前の形態のままで働き続けるが,他方ではそれの価値がだんだん貨幣として沈澱していく(2)--}は,cIIのうち貨幣形態から現物形態に再転化する《固定》部分の単なる購買を前提するが,この購買にはm(I)の単なる販売が対応する。他方ではそれは,cIIの単なる販売,すなわちcIIのうち貨幣として沈澱する固定価値部分の販売を前提するが,この販売にはm(I)の単なる購買が対応す[46]る。この場合に転換が正常に行なわれるためには,単なる購買(cIIの側からの)が価値の大ぎさから見て単なる販売(cIIの側からの)に等しいということ,また同様に,m(I)からcIIのa)への単なる販売がcIIのb)からのm(I)の単なる購買に等しいということが前提される。同様にここでは,m(I)のうちの貨幣蓄蔵部分であるA,A’の単なる購買(3)が,mI   のうちの,蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる部分であるB,B',等々と均衡を保っている,ということが前提される。(4)

 (1)「構成部分」--Bestandtei1は「構成部分」または「成分」と訳す。
 (2)この括弧書きの部分の原文は不完全文章であるが,その言わんとするところは明白である。
 (3)「購買〔Kauf〕」--明らかに「販売〔Verkauf〕」の誤記である。
 (4)このパラグラフのはじめから,左側にインクで(ジグザグの)縦線が引かれており,それは草稿52ページの中ば(のちに注記する)まで続いている。〉

 ついでに、ここで再び次のことを述べておこう。以前(単純再生産)の考察のところでと同様に、ここで再びわれわれは次のことを見出す。すなわち年間生産物のさまざまな構成部分の転換、すなわちそれらの流通は、われわれが単純再生産のところで、例えば固定資本の再生産のところで見たのとまったく同様に、あとから行われる購買によって補われる販売を前提していない。(だから経済学、とくに重農学派やA.スミス以来の自由貿学派が前提しているような、ただ商品対商品の転換が行われるだけだということを前提していないのである。)
 例えば、単純再生産のところで見たように、不変資本IIcの固定成分の周期的更新は、IIcのうち貨幣形態から現物形態に再転化する固定部分の単なる購買を前提するが、この購買には Imの単なる販売が対応する。他方ではそれは、IIcの単なる販売、すなわちIIcのうち貨幣として沈殿する固定価値部分の販売を前提するが、この販売に対して Imの単なる購買が対応する。この場合に転換が正常に行われるためには、単なる購買(IIcの側からの)が価値の大きさから見て単なる販売(IIcの側からの)に等しいということ、また同様に、 ImからIIcのa)への単なる販売がIIcのb)からの Imの単なる購買に等しいということが前提される。
 同様に、ここでは、 つまり蓄積のための貨幣蓄蔵においては、Imのうち貨幣蓄蔵部分であるA、A'における単なる販売が、 Imのうちの、蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる部分であるB、B'等々における単なる購買と均衡を保っている、ということが前提される。

【14】

 〈購買のあとに販売が,また販売のあとに購買が同じ価値額で続いて行なわれるということによって均衡がつくりだされるかぎりでは,購買のさいに貨幣を前貸しした側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる。しかし,商品転換そのもの--年間生産物のさまざまな部分のそれ--にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とするのである。〉

 貨幣が単なる流通手段としてのみ機能する場合は、社会的な再生産が均衡を維持している限り、最初に購買のために貨幣を流通に投じた側に必ずその貨幣は還流する。しかし年間生産物のさまざまな部分の商品転換そのものの現実の均衡は、互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とするのである。

 【このパラグラフは次のパラグラフと一括して考えたほうがよい様である。ここでは同じ価値額による販売に続く購買、あるいは購買に続く販売が行われて均衡がつくりだされるなら、貨幣は単なる流通手段として機能し、それは最初にそれを流通に投じた側に必ず還流してくる。しかし現実の均衡そのものは、そうした貨幣の還流ということにあるのではなく(それは一結果に過ぎない)、むしろ互いに転換されるべき諸商品の価値額が等しいということろにあるのだ、ということである。しかし、次のパラグラフでは、資本主義生産における商品流通は、単にそうしたものだけではない、というわけである。】

【15】

 〈しかし,単に一方的な諸変態,すなわち一方では大量の単なる購買,他方では大量の単なる販売が行なわれるかぎり--そしてすでに見たように資本主義的な基礎の上での年間生産物の正常な転換はこれらの一方的な変態を必然的にする--,均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだすのであるが,均衡は--この生産の形成は自然発生的であるので--それ自身一つの偶然だから,それらの条件はそっくりそのまま,不正常な経過の諸条件に,恐慌《の諸可能性》(1)に一転するのである。|〉

 (1)「の諸可能性」--あとから書き加えられている。ただし,その数語まえに「諸可能性」と書いたのち消しており,はじめは「不正常な経過の,恐慌の,諸可能性,諸条件」となっていたと.見られる。〉

 しかし、単に一方的な諸変態、すなわち一方では大量の単なる購買、他方では大量の単なる販売が行われる限り、均衡はただ、一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。  商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは、貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり、またそのことは、単純な規模であれ拡大された規模であれ再生産の正常な転換の、正常な経過の、この生産様式に特有な一定の諸条件を生み出すのであるが、均衡は、この生産の形成は自然発生的であるので、それ自身一つの偶然だから、それらの条件はそっくりそのまま、不正常な経過の諸条件に、恐慌の諸可能性に一転するのである。

 【ここでマルクスが〈商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだす〉と述べているの理解であるが、前畑雪彦氏は、これは貨幣資本そのものが均衡の条件になると理解する(《流通手段の前貸と資本の前貸--久留間健氏の所論の意義と問題点の検討--》『立教経済学研究』34巻4号)。つまりその前のパラグラフでは、マルクスは〈購買のあとに販売が,また販売のあとに購買が同じ価値額で続いて行なわれるということによって均衡がつくりだされるかぎりでは,……,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とするのである〉と述べていたが、一方的販売と一方的購買が均衡の条件になる場合は、互いに転換される諸商品の価値額が等しいということは条件とはならないというのである。つまり購買のあとに販売が、またはその逆が続いて行われる場合は、W-W(商品対商品)というのが均衡条件なのだが、一方的販売と一方的購買の場合はW-G(商品対貨幣)というのが均衡条件になるというのである。しかしこれは決して正しい理解とは言い難い。一方的販売、つまりW-Gと、一方的購買、すなわちG-Wとが、均衡するということは、一方的に流通に押し出す商品の価値額と、ただ一方的に流通から商品を引き出すだけの商品の価値額とが等しいことがやはり均衡の条件になるのであって、決して商品の価値額と貨幣の価値額と等しいというようなことが条件になるのではない。これは貨幣というのはただ流通を媒介するだけのものに過ぎないことを考えれば、まったく明らかである。再生産の均衡の条件というのは、あくまでも社会のさまざまな生産部門で生産される諸商品生産物の相互補填の問題、つまり社会的な物質代謝の問題だからである。ただそれを媒介するだけの貨幣が均衡の条件になるということはありえないのである。もし貨幣額での均衡の条件をいうなら、一方における一方的販売によって流通から引き上げられて蓄蔵される貨幣額と、他方にそれまで蓄蔵されてきた貨幣による一方的購買によって流通に投じられる貨幣額とが一致する必要があるということでしかないのである。(以下、この解説は次回へ続く)

2008年7月23日 (水)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その7)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【10】

 〈信用制度の内部で,これらすべての潜勢的な資本が,銀行,等々の手に集積されることによって「貸付可能資本」,貨幣資本となり,しかももはや受動的な資本にではなく,また未来音楽としてではなくて,能動的かつ「wuchernする」資本(ここではWuchernは増殖するという意味である)になるとすれば,その満足のほどがしれるというものである。(1)

 (1)このパラグラフ全体の左側にインクで縦線が引かれている。〉

 信用制度の内部で、これらすべての潜勢的な資本が、銀行等々の手に集積されることによって「貸付可能資本」、貨幣資本となり、しかももはや受動的な資本にではなく、能動的かつ増殖する資本になれば、これらの資本家たちにとっては大満足であろう。

 ここでは「未来音楽(Zukunftsmusik)」という意味不明の言葉が使われている。これはどういうことであろうか。恐らく資本家達が彼らの剰余価値を実現した貨幣をただ蓄蔵している段階では、その貨幣はただ遊休貨幣資本であるに過ぎない、それは将来は確かに現実の蓄積に利用される約束のもとに蓄蔵されているのであるが、しかしそれはただ潜勢的に、つまり可能性としてあるに過ぎない。その意味ではそれらは「未来音楽」のように不確かものであり、ただ将来の現実の蓄積に利用されるのを待っているだけの「受動的な資本」に過ぎないわけである。しかしそれらが信用制度の内部で、銀行等の手に集中されることによって、今度は積極的・能動的にそれ自身の“実り”をもたらすものに転化するのである。資本家達は彼らの遊休貨幣を、そしてその限りでは“石女の貨幣”を、能動的で利子を産み「増殖する」貨幣に転化させるとするなら、資本家達にとってはこれほど満足の行くものはないであろう、というような意味であろうか。
 もう一つここで〈銀行,等々の手で集積されることによって「貸付可能資本」,貨幣資本となり〉と書かれている「貨幣資本」が「Geldcapital」であるのは一見するとおかしく思えるかも知れない。というのはこれは「利子生み資本」と考えるべきだろうから、むしろ「moneyed Capital」となっていてもおかしくないからである。しかしこれは第3部第4章で〈貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し、遊休している、産業資本や商業資本の準備ファンド、したがってそれらにとっての遊休貨幣資本を概念的に把握した〉(大谷《「貨幣資本と現実資本」(『資本論』第3部第30-32章)の草稿について》『経済志林』第64巻第4号79頁)ものと同じと考えるべきかも知れない。あるいは「貨幣財産としての貨幣資本」を意味するものと考えるべきなのかも知れない。
 またこのパラグラフは、先に(われわれのパラグラフでは【5】で){新たな貨幣資本が剰余価値の漸次的な貨幣化によるのとは異なる仕方で生じることがありうることは,後に見るであろう}と述べたことにも関連していると考えられる。
 大谷氏の注によれば、このパラグラフ全体の左側に縦線が引かれているということだが、あるいはマルクス自身はこのパラグラフ全体を別のところに持っていくべきと考えていたのかも知れない。

【11】

 〈しかし,Aがこの貨幣蓄蔵をなしとげるのは,ただ,彼が--彼の剰余生産物にかんしては--続いてただ売り手として現われる〔auftreten〕だけで《あとから》買い手としては現われない,というかぎりでのことである。したがって,彼が剰金生産物--貨幣化されるべき彼の剰余価値を担うもの--を次々に生産していくことが彼の貨幣蓄蔵の前提なのである。部門 I の内部だけでの流通を考察している当面の場合には,剰余生産物の現物形態は,それを一部分とする総生産物の現物形態と同様に,部門Iの不変資本の一要素という現物形態である,すなわち生産手段の生産手段という範疇に属する。それが買い手であるB,B',等々の手のなかでどうなるか(どのような機能に役だつか)は,すぐに見るであろう。〉

 しかしAが貨幣蓄蔵をなしとげるのは、彼が剰余生産物を次々に生産していくことがその前提であり、つまり部門Iの内部だけでの流通を考察している当面の場合には、剰余生産物の現物形態は、それを一部分とする総生産物の現物形態と同様に、部門 I の不変資本の一要素という現物形態、すなわち生産手段の生産手段という範疇に属する。それが買い手であるB、B'等々の手のなかでどうなるかは、すぐに見るであろう。【このようにマルクスは「すぐに見るであろう」といいながら、必ずしもすぐにこの問題を展開していない。これを見ても、マルクスのこの草稿は展開を十分にやっていないことが分かる。つまりマルクスは一定のプランのもとに論じているのだが、しかし何らかの理由で彼は当初考えていたプランのすべてを展開することが出来なかったのである。】

 【ところでここでマルクスは〈部門 I の内部だけでの流通を考察している当面の場合には,剰余生産物の現物形態は,それを一部分とする総生産物の現物形態と同様に,部門 I の不変資本の一要素という現物形態である,すなわち生産手段の生産手段という範疇に属する〉と述べている。つまりマルクスは部門 I の蓄積をまず考察するとしているのであるが、それは部門 I の剰余価値のうち蓄積に回す部分をすべて追加的な不変資本(生産手段の生産のための追加的な生産手段)に投下すると仮定しているのである。だから当然、この場合の流通は部門 I 内部だけの流通になるわけである(もし不変資本の蓄積と同時に可変資本の蓄積も行うなら、部門 I 内部の流通だけに留まることは出来ない)。つまり I の資本家Aらは彼らの剰余価値(現物形態は生産手段の生産のための追加的な生産手段)を I の資本家Bらに販売し、その貨幣を蓄蔵する。他方で I の資本家Bらは彼らがそれまで蓄蔵した貨幣でもって資本家Aらから不変資本の蓄積に必要な追加的な生産手段を購入する、等々。AもBもいずれも第 I 部門の資本家たちであ り、だから流通もその内部に留まる。】

【12】

 〈しかし,ここでまずしっかりつかんでおかなければならないのは次のことである。Aは貨幣--剰余価値にかかわる--を(積み立てるために)流通から引きあげるのに,他方で彼は,商品を流通に投げ入れておきながらそれに代わる別の商品を流通から引きあげないのであって,このことによってB,B’,等々のほうでは,貨幣を流通に投げ入れてそのかわりにただ商品だけを《流通から》引きあげることができるようになるのである。当面の場合には,この商品はその現物形態(ならびにその用途〔Bestimmung))から見て,B,B’の不変資本の要素--固定要素であれ流動要素であれ--としてはいるものである。このあとのほうのことについては,剰余生産物の買い手であるB等々に掛り合うとぎに,もっと詳しく述べよう。〉

 しかし、ここでまずしっかりつかんでおかなければならないことは、Aは貨幣(剰余価値にかかわる)を積み立てるために流通から引き上げるのに、他方で彼は、商品を流通に投げ入れておきながら、それに代わる別の商品を流通から引き上げないのであって、このことによってB、B'、等々のほうでは、貨幣を流通に投げ入れてそのかわりにただ商品だけを流通から引き上げることができるようになるのである。当面の場合には、この商品はその現物形態からみて、B、B'、の不変資本の要素(固定資本であれ流動資本であれ)として入るものである。このあとのほうのことについては、剰余生産物の買い手であるB等々に係わり合うときに、もっと詳しく述べよう。【この部分も上記と同じことがいえるであろう。】

 【このように、マルクスは「外観上の困難」が実際には、どのように“解決”されているかを明らかにしている。つまりすべての資本家が一斉に貨幣蓄蔵を行うというような直線的な仮定そのものに問題があったのであって、第一部門の蓄積だけを考察しても、貨幣蓄蔵を行う資本家群A、A'、A”等々がある一方で、他方ではそれまで蓄蔵してきた貨幣を流通に投じて現実の蓄積を行う資本家群B、B'、B”等々が存在し、だから一方的な販売には一方的な購買が対応することによって、われわれが先に見た「外観上の困難」なるものは解決しているわけである。というよりもともとそうした困難は無かったと言える。もっとも「困難はもともと無い」などと言えば語弊がある。というのは、こうした一方的販売と一方的購買が均衡するのは、この資本主義的生産様式においては一つの偶然事にすぎず、最初からそれは保証されたものでは決してないからである。だからそこにはまさに不断の不均衡があるのであり、だからまた多くの困難が存在すると言っても決して過言ではない現実があるからである。】

2008年7月22日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その6)

 

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§


【7】

 〈われわれは,この外観上の困難をさらに詳しく解決するまえに,まず部門 I (生産手段の生産)での蓄積と部門II(消費手段の生産)での蓄積とを区別しなければならない。部類 I から始めよう。〉

 これを読む読み方によっては、一見すると、マルクスは「この外観上の困難をさらに詳しく解決する」前に、部門 I と部門IIの蓄積を考察するつもりであるかに読めるが、そうではない。そうではなく、マルクスが言いたいことは、部門 I と部門IIに分けて蓄積を考察するなかで、「この外観上の困難をさらに詳しく解決する」ということなのである。だから上記の一文は次のように言い換えてもよい。

 〈われわれは、この外観上の困難をさらに詳しく解決しよう。しかしそのためにまず部門 I (生産手段の生産)での蓄積と部門II(消費手段の生産)での蓄積とを区別しなければならない。部類 I からはじめよう。〉

 つまり以下の考察は、マルクスにとって「この外観上の困難をさらに詳しく解決する」という課題を果たすために行われているのだということである。これをわれわれはしっかりと確認しておく必要がある。

 少し先取り的に指摘しておくのだが、マルクスは、このように蓄積を部門によって区別し、それぞれについて考察しようとするのであるが、果たしてその意義はどこにあるのであろうか? というのは、そもそも拡大再生産を、例えば部門 I だけ蓄積を行うとして、他の部分は蓄積を前提しないとするなら、そうした蓄積は不合理以外の何ものでもないからである。ある特定分野だけの蓄積が可能なのは、極めて限定されたものに過ぎない。例えば単純再生産の表式を思い浮かべてみよう。特定部分の蓄積が他の部分の蓄積を前提せずに可能なのは、部門 I の不変資本の蓄積と部門IIの可変資本の蓄積ぐらいである。それ以外の例えば部門 I の可変資本の蓄積を行うなら、当然、部門IIの不変資本の蓄積が前提されなければならないし、部門IIの不変資本の蓄積が行われると仮定するなら、当然、部門 I の可変資本の蓄積が前提されるのである。確かに部門 I の不変資本だけの蓄積といったものが無いわけではない。しかし可変資本の蓄積を伴わない不変資本だけの蓄積というのは、一定の制限のなかで可能であるに過ぎない。既存の労働力に対する搾取をより強めたり、あるいは新しい技術の導入によって、既存の労働力のまま不変資本の拡大を可能にするといった場合である。しかし部門IIの可変資本だけの蓄積というのはほとんどありえない仮定のように思える。もっともマルクスはスミスが商品の価値をv+mに還元して、不変資本cを解消してしまったことを批判して、不変資本のない産業分野として瑪瑙の採集業なるものを例に上げたりしているが、確かに瑪瑙の採集産業の場合は、不変資本の蓄積を伴わない可変資本だけの蓄積といったものは可能なのかもしれないが、しかし極めて特異な資本に限定されざるをえないわけである。
 だからマルクスはまず最初に部門 I の不変資本部分の蓄積だけを取り出して考察する場合、それはある程度まで可能だったのであり、むしろそのことによって拡大再生産の概念を抽出することが出来たのである。しかしマルクスがそれに続いて、部門 I の可変資本の蓄積に移行するや、たちまちそれは行き詰まってしまうのである。ましてや部門IIの蓄積たけを独立に考察するといったことはまったく出来ない相談なのである。
 こうしたことは社会総資本の蓄積あるいは拡大再生産を考えるなら、当然のことである。マルクスが、当初はそれが分からなかったなどということは出来ない。マルクスはそれが分かっていて、敢えて蓄積を部門 I と部門IIに分け、それぞれについて考察するという方法をとったと考えるべきであろう。ではどうしてであろうか? まずマルクスは部門 I の不変資本の蓄積の考察で、拡大再生産の概念を深く論じ、さらに部門 I の可変資本や部門IIの蓄積に移ることによって、その不合理を暴露することによって、そもそも蓄積を部門 I と部門IIに分けて、それぞれを独立して考察するといった方法そのものの不合理を確認することにあったのではないかと、私は推測するのである。しかしこれは余りにも先走りしすぎた考察とも言える。だからとりあえず、マルクスの考察方法そのものには不合理な面ががあるという点だけをここでは指摘しておきたい。

 

〈3)〉【部門 I での蓄積】

【8】

 〈3)(1)部門 I を構成している多数の産業部門での諸投資も,それぞれの特殊的産業部門内部でのさまざまな個別的投資も,{それらの規模,技術的諸条件,等々,市場関係,等々をまったく度外視すれば}それぞれの年齢,すなわち機能期間に応じて,それぞれ,剰余価値が《次々に》潜勢的な貨幣資本に転化していく過程のさまざまな段階にあるということは明らかであって,この転化がそれらの資本の機能資本の拡大のためであろうと新たな産業的事業における貨幣資本の投下のためであろうと--「拡大された規模での生産」の2つの形態--,このことに変わりはない。そこから出てくるのは,それらのうちの一部分適当な大きさに成長した《自分の》潜勢的な貨幣資本をたえず生産資本に転化させているが,すなわち積み立てられた,剰余価値の貨幣化によって積み立てられた貨幣で生産手段--不変資本の《追加的》諸要素--を買っているが,他方,他の1部分はまだ自分の潜勢的な貨幣資本の積立てをやっている,ということである。つまり資本家たちは,この2つの部類のどちらかに属して,一方は買い手と[40]して他方は売り手として--そして両方のそれぞれがどちらか一方だけの役割を担って--互いに相対しているのである。

 (1)この「3)」は,赤鉛筆で丸く囲まれている。〉

 部門 I を構成しているさまざまな産業分野のさまざまな個別資本は、それぞれ年齢、つまりその機能期間に応じて、それぞれ剰余価値を次々と潜勢的な貨幣資本に転化していく過程のさまざまな段階にあることは明らかである。だからそこから出てくるのは、それらのうちの一部分は適当な大きさに成長した自分の潜勢的な貨幣資本をたえず生産資本に転化させている、つまり積み立てられた貨幣で追加的な生産手段を買っているが、他方、他の一部分はまだ自分の潜勢的な貨幣資本の積み立てをやっている、だからただ剰余生産物を売って得た貨幣を蓄蔵するだけの段階にあるということである。
 つまり資本家たちは、この二つの部類のどちらかに属して、一方は買い手として他方は売り手として互いに相対しているのである。

 ここでは以上の基本的な内容以外に「拡大された規模での生産」の二つの形態についても言及されている。それは(1)それらの資本の機能資本の拡大のためである場合と(2)新たな産業的事業における貨幣資本の投下である場合との二つである。

【9】

 〈たとえば,Aは600(=400c+100v+100m)をB(これは2人以上の買い手を代表していてもかまわない)に売るとしよう。Aは600《の商品》を売[41]って600の貨幣に替えたが,そのうち100は剰余価値を表わしており,彼はこれを流通から引きあげて貨幣として積み立てる。しかし,この100の貨幣は,ただ100の剰余価値の貨幣化,つまり100という価値の担い手であった剰余生産物の貨幣形態でしかない。この貨整蓄蔵は生産ではまったくないのであり,したがってまたもともとけっして生産の増加分ではない。資本家の行為は,この場合にはただ,100という剰余生産物を売ってせしめた貨幣を流通から引ぎあげてそれをしっかりと手もとに差し押えておくということだけである。この操作は,Aの側〔で行〕なわれるだけ《でなく》,流通表面〔Circulationsperspherie〕の多数の点で他の資本家A’,A”,A'”,等々によっても行なわれるのであって,彼らはみな同様にせっせとこの種の貨幣蓄蔵に励むのである。貨幣が流通から引ぎあげられて多数の個別的な蓄蔵貨幣または潜勢的な貨幣資本として凝固する(1)。これらの多数の点については,それらは貨幣を不動化して,長短の期間にわたって貨幣の流通手段としての可動性を奪うので,〔それらは〕流通の障害であるように見える。だが,単純な商品流通の場合でも,それがまだ資本主義的商品生産にもとづいていなかったにもかかわらず,貨幣蓄蔵は行なわれているのだということをよく考えてみなければならない。社会のなかに現存する貨幣量は,そのうち現に流通のなかに||51|(2)ある部分よりもつねに大きい,--といってもこの貨幣量は事情に応じてふえたり減ったりするのではあるが。われわれはここで同じ蓄蔵貨幣(3),同じ貨幣蓄蔵をふたたび見いだすのであるが,しかし今度は,資本主義的流通過程に内在的な一契機として見いだすのである。

 (1)「凝固する〔estarrt〕」の上に「積みあげる〔aufhauft〕」と書いている。
 (2)草稿の47ぺ一ジの末尾には「(続きは51ぺ一ジ)」とあり,51ぺ一ジの冒頭には「47ページから続く」と書かれている。
 (3)「同じ蓄蔵貨幣」という語は草稿51ぺ一ジの右肩の部分にあたるが,この語の上に「(47ぺ一ジを見よ。)」と書き加えられている。この指示は,前注の「47ページから続く」と同趣旨のものと思われるが、もしかするとこの「同じ蓄蔵貨幣」にのみかかわるものかもしれない。〉

 例えばAは600(=400c+100v+100m)をB(これは二人以上の買い手を代表してもよい)に売るとしよう。彼は600の商品を売って600の貨幣に替えたが、そのうち100は剰余価値を表わしており、かれはそれを流通から引き上げて貨幣として積み立てる。しかしこの貨幣蓄蔵はまだ生産ではないのであり、ただ貨幣を流通から引き上げてそれを手もとに差し押さえておくということだけである。こうした操作は流通表面の多数の点でA'、A"等々によっても行われている。それらは貨幣の流通手段としての可動性を奪うので、流通の障害であるように見えるが、しかし単純な商品流通でも、貨幣蓄蔵は行われるのであり、ここではただそれが資本主義的流通過程に内在する一契機として現われるのである。

  ここでもマルクスは貨幣蓄蔵の段階では、まだ〈生産ではまったくないのであり、したがってまたもともと生産の増加分ではない。資本家の行為は、この場合はただ、100という剰余生産物を売ってせしめた貨幣を流通から引き上げてそれをしっかり手もとに差し押さえておくということだけである〉と述べて、このことつまり貨幣の蓄蔵はまだ蓄積ではないということを繰り返し確認している。このように同じような問題が何度も繰り返し確認されていることを見ても、これがマルクスにとって第8草稿の段階での重要な理論的進展と考えられていたことが分かるのである。

2008年7月21日 (月)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その5)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

【5】

 〈このような,貨幣形態で積み立てられた剰余価値はけっして追加的な新たな社会的富ではないにもかかわらず,それが新たな潜勢的貨幣資本を表わしているのは,その積立ての目的とされる機能のためである。{新たな貨幣資本が剰余価値の漸次的な貨幣化によるのとは異なる仕方で生じることがありうることは,後に見るであろう。}〉

 このような貨幣形態で積み立てられた剰余価値はけっして追加的な新たな社会的冨ではないにもかかわらず、それが新たな潜勢的貨幣資本を表わすのは、その積立の目的とされる機能のためである。{新たな貨幣資本が剰余価値の漸次的な貨幣化によるのとは異なる仕方--つまり信用による貸し付け--で生じることがありうることは、後にみるであろう。}

 【ここでマルクスは{新たな貨幣資本が剰余価値の漸次的な貨幣化によるのとは異なる仕方で生じることがありうることは,後に見るであろう。}とカッコに括って追加的に述べているが、もちろんこの第8草稿では第11パラグラフで若干の言及は見られるものの、その後も詳しい展開を見ることはできない。第3部第5章(篇)では「利子生み資本」としてこうした問題が考察されるが、しかしそこには再生産の観点はない。実はこの問題を再生産の観点から考察しているのは、この第2部の第2篇第17章の中にあるのである。この部分は第2草稿からとられているが、かなり先取り的な分析が行われている。それをついでに紹介しておこう。

 まずマルクスはある資本家Aが銀行家Cから資本を借り入れるということはどういうことを意味するかを次のように述べている。

 《その間に信用の発達が入ってくれば、最初に前貸しされた資本と資本化された剰余価値との関係は、いっそう複雑になってくる。たとえば、事業を始めるためかまたは一年間続けて行くための生産資本の一部分を、銀行家Cから借り入れる。彼は、事業を経営して行くために十分な自分自身の資本を、はじめからもってはいないのである。銀行家CはAにある金額を貸すのであるが、それは、Cに預けられた産業家D、E、F、等々の剰余価値から成っているに過ぎない。Aの立場からはまだ蓄積された資本だとは言えない。しかし、実際にはD、E、F、等々にとっては、このAは、自分達が取得した剰余価値を資本化する代理人に他ならないのである。》(全集版391頁)

 つまり銀行から潜勢的貨幣資本を借り入れて、それを新たな生産のために投下する資本家は、それらの潜勢的貨幣資本を銀行に預金した産業家たちに代わって彼らの剰余価値を資本化する代理人に他ならなのである。  さらにマルクスはこうした資本家に貸し付けられる追加的な潜在的貨幣資本のさまざまな形態についても次のようにも述べている。

 このような追加的な潜在的貨幣資本がとることのできる最も簡単な形態は、蓄蔵貨幣という形態である。この蓄蔵貨幣が直接間接に貴金属生産諸国との交換で得られた追加の金銀だということは、ありうることである。しかも、ただこの仕方でしか一国内の蓄蔵貨幣は絶対的には増大しないのである。他方でまたありうることは--そしてこの場合のほうが多いのだが--、この蓄蔵貨幣は国内の流通から引き揚げられた貨幣が個々の資本家の手の中で蓄蔵貨幣の形態をとったものに他ならないということである。さらにまたありうるのは、この潜在的貨幣資本が単に価値章標から成っているとか--われわれはここではまだ信用貨幣を無視する--、あるいはまた単に資本家達が第三者に対してもっている請求権が適法な証書によって確認されたもの(権利証書)から成っているとかいうことである。これらのどの場合にも、この追加貨幣資本の存在形態がどうであろうと、それが将来の資本である限り、それが表わしているものは、社会の将来の追加的年間生産に対して資本家がもっている追加的な留保された請求権以外のなにものでもないのである。》(同392-3頁)

 このように、マルクスは追加的な潜在的貨幣資本が将来の資本である限りは、社会の将来の追加的年間生産に対する保留された請求権だと述べている。つまりそれらの潜勢的貨幣資本が本来、別の資本家が彼の剰余価値を表す商品資本(これを彼は個人的な消費を目当てに実現しないのだから、それは社会からみて追加的な生産物--つまり蓄積のための現物となりうる生産物--なのである)を販売して、すなわち彼の生産した価値ある追加的生産物を社会に与えて、その対価として受け取ったものであるなら、彼はそれによって同じ価値額だけの追加的な生産物を社会から引き出す権利を保持していることになるのである。彼はその権利を彼が貸し付けた資本家に取り戻しを条件に一時的に譲渡するのである。だから、それを借り受けた資本家は、彼の代理人としてそれを資本化する(現実に蓄積する)。つまりその潜勢的貨幣資本で社会から彼の追加的生産資本に必要な物的諸要素を引き出す。しかしその代わりに、彼は、今度は、彼自身が生産した剰余価値の一部分を個人的に消費せずに、その実現した潜勢的貨幣資本を、今度は貸主に返済する必要があるわけである。このように潜在的貨幣資本の貸し借りは、将来の追加的年間生産に対する請求権の貸し借りであるとマルクスは喝破しているのである。】

【6】

 〈貨幣は,商品を売ってもそのあとで買わないことによって,流通から引きあげられて蓄蔵貨幣として貯えられる。したがって,このような操作を一般的に行なわれるものと考える場合には,買い手がどこからやってくるというのかわからないように見える。というのは,この過程では--そしてどの個別資本も蓄積過程にあることができるのだからこの過程は一般的に行なわれるものだと考えなければならない--だれもが積み立てるために売ろうとするが,だれも買おうとしないからである。もしも年間再生産のさまざまの部分のあいだの流通過程を直線的に進行するものだと考えるとすれば--これがまちがいなのである,というのはこの過程はどれもみな互いに反対の方向に進むもろもろの運動から成っているのであって,これには例外はほとんどないからである--,売らずに買う金(または銀)生産者から始めなければならないことになり,また,次のようなことを前提しなければならないことになる。すなわち,他のすべての人々が彼に売る,ということ。年間の《社会的》剰余生産物の総計剰余価値の担い手)が彼のところに移り,他の資本家の全部は,生まれながらに金(1)として存在する彼の剰余生産物を(したがってまた彼の剰余価値の自然的金化を)自分たちのあいだで《比例配分的に》分け合うのだ,ということ(というのは,金生産者の生産物のうち彼の機能資本を補填しなければならない部分は,すでに拘束されており処理されているからである)。彼の剰余生産物は他の資本家の全部が自分たちの年間剰余生産物を金化するための材料を引き出すファンドであるということ。したがって,ここでは金として生産されるこの剰余価値は,《価値の大きさから見れば》,まず蓄蔵貨幣という形態で蛹化しなければならない社会的な年間生産物の全体に等しいのだということ。これらのばかげた前提は,一般的な《同時的》貨幣蓄蔵を説明すること以外にはなんの役にも立たないのであって,これでは,生産その[38]ものは(金生産者の側以外では)一歩も前進しないであろう。

 (1)現行版では「貨幣〔Geld〕」となっているが,草稿では明らかに「金〔Gold〕」となっている。〉

 しかしもし商品を売ってもそのあとで買わずに流通から貨幣を引き上げて蓄蔵するという、こうしたことが、もし一般的に行われると考える場合--そしてわれわれは社会的総資本を問題にしなければならず、その場合にはこうした一般化は避けられない--、買い手がどこからやってくるのか分からないように見える。誰もが積み立てるために売ろうとするが、誰も買おうとしないからである。  これがいわゆる「外観上の困難」である。マルクスはこうした「外観上の困難」がどうして生じるのか、また実際には、そんな困難はないことも示唆している。すなわちそれは〈年間再生産のさまざまの部分のあいだの流通過程を直線的に進行するものだと考える〉ことから来ているのである。しかし〈これがまちがいなのである,というのはこの過程はどれもみな互いに反対の方向に進むもろもろの運動から成っているのであって,これには例外はほとんどないからである〉と。この場合の〈反対の方向〉というのは、貨幣蓄蔵をする資本家たちがある一方で、必ず蓄蔵した貨幣を今度は現実の蓄積のために流通に投じる資本家たちが存在するのだということである。だから「困難」はただこうした相互的な関係を考えずに、ただ一方的にすべての資本家が一斉に貨幣蓄蔵を行うと仮定するところから生じているに過ぎないわけである。  マルクスはこのあとこの「外観上の困難」を“解決”する方策として、金生産者を持ち出している。というのは金生産者こそ、すべての資本家たちのなかで、唯一、売らずに買うことが出来る資本家だからである。すべての資本家が彼の剰余価値を表す商品資本を販売し、受け取った貨幣を蓄蔵するとするなら、彼らの販売にただ一方的に買うことで答えうるのは、金生産者しかないというわけである。彼の生産物そのものがすでに貨幣金だから、彼は何も売らなくても買うことができるわけである。しかしもちろん、ここで金生産者を持ち出しても何の解決にもならないこと、ただ外観上の困難をただ表面的に糊塗するだけのものに過ぎないこともマルクスは指摘している。

 少しマルクスの敍述に沿って、その内容を検討しておこう。  もしも年間の再生産のさまざまな部分のあいだの流通過程が直線的に進行するものだと仮定するなら、われわれはただ売らずに買うことのできる生産者である金生産者から出発し、次のようなことを前提しないと行けない。つまり金生産者以外の資本家がすべて金生産者に売るということ、だから年間の社会的剰余生産物の総計が金生産者のところに移り、他の資本家たちは、その代わりに金生産者の剰余生産物(それは生まれながらの金であるが)を互いに比例配分的に分け合うということをである(金生産者の他の生産物は彼の機能資本を補填するものとしてすでに拘束されている)。だから金生産者の剰余生産物は、その大きさから言って、他の資本家達全部の剰余価値に見合うものでなければならず、彼の剰余生産物は他の資本家たちの蓄蔵貨幣に蛹化しなければならない社会的な年間剰余生産物全体に等しいのだということである。  しかしこんな馬鹿げた前提は、ただ同時的な蓄蔵貨幣の形成ということを説明する以外には何の役にも立たないのであって、これでは生産そのものが一歩も前進しないであろう。なぜなら、彼らが蓄蔵した貨幣を今度は、実際に投下して、現実の蓄積をしようとしても、彼らが彼らの追加的貨幣資本で購入する現物がもはや存在しないからである。だから、実際の蓄積は金生産者以外は一歩も進まないことなる。

2008年7月20日 (日)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その4)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)

〈2)〉【個別資本家の貨幣蓄蔵が一般化することによる外観上の困難】

 【4】(このパラグラフの冒頭にある2)は【2】の冒頭にある1)に対応していると考えられる。マルクスはその対応を示すために、どちらにも赤鉛筆で丸く囲ってあるのだそうである。)

 〈2)(1)たとえば資本家Aが,1年が経過するあいだに(または技術的諸条件しだいではそれ以上の年数にわたって)次々に商品生産物の諸部分--その総計が彼の年間商品生産物をなす--を売っていく場合には,それにつれて彼は,商品生産物のうち剰余価値の担い手--剰余生産物--である部分をも,つまり彼が商品形態で生産した剰余価値そのものをも,次々に貨幣に転化させ,そうしてこの貨幣をだんだん積み立てて行き,こうして潜勢的な新貨幣資本が形成されていく。ここで潜勢的というのは,それが,生産資本の諸要素に転換されるべき使命〔Bestimmung〕をもっているからである。しかし実際には,彼はただ単純な蓄蔵貨幣形成(2)を行なうだけであって,それは現実の再生産の要素ではない。そこでの彼の仕事は一見したところ,《流通している》貨幣を次々に流通から引きあげて行くことだけであるが,この場合もちろん,こうして彼が厳重にしまいこんでしまう流通貨幣がそれ自体なお--流通にはいる前に--ある蓄蔵貨幣の1部分であったことが排除されているわけではない。潜勢的な新たな貨幣資本であるこのようなAの蓄蔵貨幣が追加的な社会的富でないのは,かりにそれが消費手段に支出されるとした場合にそうでないのと同様である。それは通流から引きあげられた貨幣であるから,そのまえは通流のなかにあったのであって,以前にすでに蓄蔵貨幣の成分として貯えられていたことがあるかもしれないし,《貨幣化された》労賃だったり,《生産手段や》その他なんらかの商品を貨幣化したことがあったかもしれないし,諸々の不変資本部分や資本家の収入を流通させたかもしれない。それが新たな富でないことは,ちょうど貨幣である金が,単純な商品流通の立場から見て,それが1日に10回回転して10個の別々の商品を実現したからといって,それがいまもつ価値のほかにその10倍の価値をもつということになら[35]ないのと同様である。諸商品は貨幣がなくても存在するのであり,また貨幣そのものは,1回転しようと10回転しようと,もとのままである(むしろ摩滅によってもっと小さくなっている)。ただ金生産においてのみ--金生産物が||47|剰余価値の担い手である剰余生産物を含んでいるかぎり--新たな富(潜勢的貨幣)がつくりだされるのであり,また,新たな金生産物がそっくり流通にはいるかぎりでのみ,それは潜勢的な新貨幣資本の《貨幣》材料を増加させるのである。

 (1)この「2)」は,赤鉛筆で丸く囲まれている。
 (2) Schatzbidungが貨幣資本の形成(Bildung)にたいしてたんなるSchatzの形成として対置されてい場合には,「貨幣蓄蔵」とせず,とくに「蓄蔵貨幣形成」と訳した。〉

 ここでマルクスが言っている基本的な問題はそれほど難しいことではない。それは次のようなことである。例えば資本家Aが剰余生産物を貨幣に転化させ、それをだんだん積み立て潜勢的な貨幣資本を形成する場合、それだけではまだ単純な貨幣蓄蔵を行っているに過ぎず、現実の蓄積は行われていない。つまり追加的な社会的な冨が形成されたわけではない。その貨幣はその前は流通のなかにあったのであって、だから彼が蓄蔵する貨幣は、その前まで〈ある蓄蔵貨幣の一部分であったことが排除されているわけではない。〉【マルクスは後に潜勢的可変資本を形成する資本家群をAとして、蓄蔵した潜勢的貨幣資本を現実に投資する資本家群をBとするが、ここで「ある蓄蔵貨幣の一部分」と言っているのは、B群の資本家が投じる蓄蔵貨幣を示唆しているのである。】または貨幣化された労賃であった場合もありうるし、生産手段やその他の何らかの商品を貨幣化したことがあったかも知れない。【とにかく問題は彼は流通からそれを一方的に引き上げ積み立てる、つまり蓄蔵貨幣に転化するということである。】確かに貨幣そのものは、一定量の金である限り、それには社会的労働が支出されており、だから一定量の価値をもち、また使用価値(この場合、貨幣として機能するという社会的な使用価値ではなく、金としての物質的な使用価値、例えは宝飾など等々)をもっており、その限りでは社会的な富と言えるが、しかしここでいう蓄蔵貨幣そのものは、ただそれ以前に流通していた貨幣を、ただその流通を止めたというに過ぎず、だから確かにそれは一方ではそのものとしては社会的富だが、しかし決して「新たな」社会的富ではないわけである。(だから貨幣が形態を換えられて[流通貨幣から蓄蔵貨幣へ]、積み立てられたというだけでは、社会的な富には何の変化もないし、また現実の生産そのものも当然何も拡大されていないし、だから現実の蓄積は何も行われていないわけである)。
 ただ金生産部門において、剰余価値として生産された新たな金生産物が、そのまま蓄蔵されるならば、その場合は、確かにそれは「新しい社会的富」といいうるわけである。

 しかしマルクスが上記の基本的な問題に付随させて論じている問題のなかには、少しは考察を加える必要がありそうなものもある。まず最初は次のような一文

 〈潜勢的な新たな貨幣資本であるこのようなAの蓄蔵貨幣が追加的な社会的富でないのは,かりにそれが消費手段に支出されるとした場合にそうでないのと同様である〉。

 ここでマルクスは蓄蔵貨幣そのものは「追加的な社会的富」ではないということを、それが消費手段に支出される場合と同じだというのだが、この場合は、明らかに問題は「追加的な」ということに重点があると考えるべきだろう。つまりそれが蓄積に回されずに、単に消費されてしまうなら、それは「追加的な富」にはならないという意味である。つまりこれは蓄蔵貨幣にある限りは、まだそれは現実の蓄積に回されるというのは、ただ単に可能性として、あるいは潜勢的にいいうるだけであって、それはあるいはそうならずに、単に消費手段に回されるかも知れないわけであり、その限りではまださまざまな可能性をもったものとして、まだ追加的な社会的富になるかどうかは分からないというに過ぎないであろう。これはまあそれほど問題ではない。では次はどうか

 〈それが新たな富でないことは,ちょうど貨幣である金が,単純な商品流通の立場から見て,それが1日に10回回転して10個の別々の商品を実現したからといって,それがいまもつ価値のほかにその10倍の価値をもつということにならないのと同様である〉

 これは貨幣が流通手段としての機能を果たすということに着目して、蓄蔵貨幣もただ貨幣がそれまで流通手段として機能していたものが、今度はただ価値の蓄蔵という一機能を果たしているに過ぎないわけで、だから貨幣が本来もっている価値以上の何か追加的な社会的富を生成しているわけではないという意味ではないかと思える。

 次にマルクスが最後に言っている金生産の場合はかなり複雑である。まずマルクスは次のように述べている。

 〈ただ金生産においてのみ--金生産物が剰余価値の担い手である剰余生産物を含んでいるかぎり--新たな富(潜勢的貨幣)がつくりだされるのであり,また,新たな金生産物がそっくり流通にはいるかぎりでのみ,それは潜勢的な新貨幣資本の《貨幣》材料を増加させるのである〉。

 剰余生産物が金生産物であるなら、その限りではそれは「新たに」生み出されたものであり、そしてそれにも一定の社会的労働が対象化されており(だから一定量の価値をもち)、また金という物質に固有の有用性、すなわち使用価値をもっている。だからそれは明らかにその限りでは社会的富であり、しかも金生産物として新たに生み出された社会的富なのである。(もっとも金生産部門の生産物は、何も剰余価値部分に限らず、生産物すべてが、貨幣金属としてあるなら、それらはすべて「新しい社会的富」なのである。というのは不変資本部分や可変資本部分にしても、それらは生産された商品資本のまますでに貨幣、すなわち貨幣資本であり、だから新たに貨幣化される必要はないからである。つまり既存の流通している流通貨幣に転化される必要はないのだから、それらすべてが社会的には追加貨幣になり、一部は流通に留まるか、あるいは一部は蓄蔵されるかされて、社会的富の一部を構成するからである。それに対して一般的な商品生産物は、それが生産的に消費されようが、個人的に消費されようが、その時点で使用価値を失い、生産手段の場合は、価値を新たな生産物に移転し、生活手段の場合は価値も消失する。生産手段の価値も最終的には個人的消費手段の生産物へと移転されて、やはり最後にはそれが消費されるとともに消失するのである。それに較べて貨幣金属生産物は、流通過程で磨滅する以外には、社会的には消滅することはないのである。もっとも同じ貴金属でもその使用価値が生産的に消費される場合[例えは金がエレクトロニクスの製品に使われる場合など]はこの限りではない。その場合は一般商品生産物と同じである。)

 【ついでにもう一つ上のパラグラフに関連して重要な問題を指摘しておきたい。マルクスは次のように述べている。

 〈つまり彼が商品形態で生産した剰余価値そのものをも次々に貨幣に転化させ,そうしてこの貨幣をだんだん積み立てて行き,こうして潜勢的な新貨幣資本が形成されていく。ここで潜勢的というのは,それが,生産資本の諸要素に転換されるべき使命〔Bestimmung〕をもっているからである。しかし実際には,彼はただ単純な蓄蔵貨幣形成を行なうだけであって,それは現実の再生産の要素ではない〉。

 ここでわれわれが注目すべきなのは、「蓄積」という概念がより厳密に使われていることである。また貨幣資本というタームもその意味では厳密化している。つまり資本家が手許に持っている貨幣はいまだ厳密な意味では貨幣「資本」ではなく、彼がそれを前貸する時点で始めて「貨幣資本」になるということである。だからその意味では彼が手許に持っている時点における貨幣は「潜勢的な(可能性から見て)貨幣資本」だということである。また第3部主要草稿の第5章では、「現実資本の蓄積」に対比させて「貨幣資本の蓄積」というタームが多用されているが、しかし貨幣を蓄蔵した段階では決してまだ厳密な意味における「蓄積」は行われていないというのがマルクスの第八稿における理解なのである。その意味では「蓄積」という言葉をここでは厳密化していると言える。「潜勢的な貨幣資本」の「蓄蔵」段階では、彼は「ただ単純な蓄蔵貨幣形成を行うだけ」なのであり、それはまだ「現実の再生産の要素ではない」のである。】

 

 

2008年7月18日 (金)

『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その3)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)


 

【3】【拡大再生産の直接的反省関係--蓄積には蓄積が前提される】

 

 〈ある個別資本が500で,年間剰余価値が100(つまり商品生産物は400c+100v+100m)だとすれば,600が貨幣に転化され,そのうちの400cはふたたび前貸不変資本の現物形態に,100vは労働力に転換され,そして--蓄積[32]の場合には(蓄積だけが行なわれるものとすれば),それに加えて,100mが商品形態から貨幣形態に転換された《のちに》(1),さらに生産資本の現物諸要素への転換によって追加不変資本に転化させられる。そのさい次のことが前提されている。第1に,年間に100mが次々に貨幣として積み立てられるが,機能している不変資本の拡張のためであろうと,新たな産業的事業(2)の創設のためであろうと,この額で十分である(技術的諸条件に対応している)ということである。しかしこの過程が行なわれうるようになるまでには,つまり現実の蓄積--拡大された規模での生産--が始められうるようになるまでには,もっとずっと長いあいだにわたる剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積立てとが必要だということもありうる。2) 拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められているということが前提されている。というのは,貨幣(貨幣で積み立てられた剰余価値)を生産資本の諸要素に再転化させるためには,これらの要素が商品として市場で買えるものとなっていることが前提されているからである。その場合,これらの要素が既製の商品として買われるのでなく注文であつらえられるものとしても,なんの違いもない。これらの要素の代価が支払われるのは,これらの要素が現に存在するようになってからのことであり,またどのみちこれらにかんして現実の拡大された規模での再生産がすでに行なわれてからのこと,言いかえれば潜勢的に(3)この再生産の諸要素が現に存在するようになってからのことである。というのは,《この場合には,》この再生産が現実に行なわれるためには,ただ,注文という起動力,すなわち商品の存在に先行する商品の購買とその先取りされた販売とが必要であるだけだからである。この場合には一方にある貨幣が他方での再生産を呼び起こすのであるが,それは,貨幣がなくてもこの再生産の可能性があるからである。というのは,貨幣それ自体は《現実の》再生産の要素ではないからである。

 (1)ここにはいくつかの語が行の上に書き込まれているが、はっきりとは読み取れない。いちおう nachdem sie と読んでおくが、そうでないかもしれない。
  (2)「産業的事業」には下線がないが引き忘れであろう。[33]
  (3)「潜勢的」--本稿では岡崎氏訳にしたがって potentiellを「潜勢的」,virtuellを「可能的」としている。しかし、この逆のほうがいいかもしれない。これらの語についてはエンゲルスが現行版の注6〔a〕でふれている(K.II,S.83)〉

 

 例えば、ある個別資本が500で年間剰余価値が100の場合、その剰余価値のすべてが不変資本に投下されて蓄積されると仮定した場合、年間100mが次々と積み立てられ、投資されると考えるのだが、確かに年間100mで技術的に十分な場合もあるが、ある場合にはもっとずっと長いあいだにわたる剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積み立てが必要だという場合もある。だから蓄積にはまず貨幣での積立が先行するということが考えられなければならない。
 個別資本の蓄積を考えると、まず彼は生産した商品をすべて貨幣に転化しなければならず、そのうち彼の不変資本部分を表わす貨幣は、再び不変資本の補填のために支出され、可変資本部分を表わす貨幣は、やはり労働力に転換される。そして残りの剰余価値部分を表わす貨幣は、もしすべて蓄積に使われるとするなら、生産資本の現物諸要素への転換に、よってわれわれの仮定では、追加的不変資本に転化させられる【実際の蓄積では追加的可変資本にも転化させられる】。
 そのさい二つのことが前提されている。
 1)現実の蓄積、つまり剰余価値部分の貨幣を現物諸要素に転換する場合、その貨幣額が一定の技術的条件による必要な量に達している必要があり、よって現実の蓄積、つまり拡大された規模での生産が始められるためには、あるいは長いあいだの剰余価値の貨幣への転化とその貨幣での積立が必要だということである。
 2)またその積み立てられた貨幣を、実際に現物諸要素に転換するためには、あらかじめその現物諸要素が生産されていなければならないということ、つまりすでに拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められていなければならないということである。つまり蓄積には蓄積が前提されていなければならないということである。
 これは注文生産の場合でも基本的には同じである。というのは注文を受けて追加的な現物諸要素を生産できるためには、それだけの諸条件があらかじめなければならず、それはすでに蓄積が行われていることを意味するからである。

 

 【ここで「蓄積のためには蓄積が前提される」というのは一見すると同義反復のように思えるかも知れない。しかしこれはわれわれが対象を認識する方法とも関わってくる重要なことなのである。われわれが拡大再生産とは何かを知ろうとするなら、つまりその概念を明らかにしようとする場合、拡大再生産が単純再生産から如何にして生まれてくるかということを頭のなかで考えるのではなく、まず拡大再生産が行われている現実を前提してその観察から開始しなければならない。そうするとそれは不断に拡大再生産を繰り返す運動として、年々拡大再生産を繰り返す過程としてわれわれの前に現れるのである。われわれはその現実を観察し、その特徴を子細に検討し、それをそれを構成する諸契機に分解し、諸契機のあいだの内的関連を探り、それらを思考において総合する、さらにその内的関連の中に諸運動法則を知ろうとするのである。これこそ唯一科学的な方法である。

 だから拡大再生産の概念を明らかにするということは、如何にして単純再生産から拡大再生産に「移行」するかということではなく、まず拡大再生産そのものを前提することから始まるということである。そうすれば蓄積のためには蓄積が前提されるという現実がわれわれの前に現れるのである。

 単純再生産から拡大再生産への「移行」というのものは、決しして歴史的な過程でもなんでもない。資本主義的生産が昔は、あるいはそれが生まれた当初は単純再生産だったものが、歴史的に拡大再生産に「移行」してきたのだ、というようなことは言えない。現実にあるのは常に何らかの規模での拡大再生産であり、ある特異な場合においてのみ一時的に縮小再生産であったに過ぎない。単純再生産は拡大再生産の中に内容的には含まれるものであり、だから単純再生産は現実の拡大再生産の中から抽出されたものに過ぎないのである。だからそれは論理的な区別であり、あるいは「移行」に過ぎない。だからわれわれが単純再生産から拡大再生産へと敍述を展開することは論理的にみても妥当である。しかしそのことは、拡大再生産の概念は、単純再生産からの「移行」としてのみ与えられるなどと考えるならば、大きな間違いなのである。

 これが方法論的にも極めて重要なことなのである。というのは、多くの学者が単純再生産から拡大再生産への「移行」ということにあまりにもとらわれて--これはエンゲルスによるマルクスの草稿に対する修正にも責任があるのだが--、そのためにさまざまな混迷に陥っている現実があるからである。実は何を隠そう、残念ながら、この草稿を翻訳された大谷氏もその一人なのである。大谷氏のこの問題についての諸説は、また検討する機会があると思うので、ここではこれ以上言及することは止めておく。】

 

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その2)

 §§第8稿第3章の段落ごとの解読


 一応、上記の大雑把な見通しのもとに、もう一度、第8草稿の拡大再生産論を詳細に検討して、それを検証しようと考えている。その場合、われわれはマルクスの論述にそって内容を詳細に吟味し、マルクスが各部で何を論じているのかを考え抜くのはもちろん、同時に全体の流れや構成にも注意し、上記に示した大まかな見通しを検証するという意味でも、全体の構成を常に意識して、見ていくことにしたい。
 マルクスの草稿は、公式にはまだ刊行されていないのであるが、草稿を直接調べられ翻訳された大谷禎之介氏の研究成果を利用させて頂くことにする(『経済志林』第49巻第1・2号)。
 以下、【1】や【2】は私が大谷氏の訳文につけたパラグラフの番号であり、【  】で囲んだ文章は、私自身の考察や注意書き、あるいは私自身が便宜的につけた表題(太字)等である(出来るだけマルクスの叙述の論理的進展を把握しやすくするために、小見出しをつけてみた)。まずマルクスの草稿の訳文をパラグラフごとにスキャナーで抜粹し〈 〉をつけて示し、次にその主な内容の要約、要点を私がまとめるという形で進めていく。ただし訳文内にあるドイツ語はウムラウト等が使えないために十分反映できない場合があることをお断りしておく(出来るだけ直接論文をご確認ください)。なお一目で分かるように、マルクスの文章は青字に、私の勝手な書き込みは黒字で表示する。


 〈|46|先取り。II)蓄積または拡大された〔vergossert〕規模の生産。〉

 【これはマルクス自身が書いた第3章--第8稿ではマルクスは「篇」てはなく「章」を使っている--のII)の表題である。ここでマルクスは〈先取り。〉と書いてから表題を書いている(番号「II)」は大谷氏によればあとから書き加えられたように見えるとのことである)。
 この〈先取り〉について、大谷氏はその理由を、本来は草稿の50頁のあとから書き出すべきところが、マルクスがたまたまその前の敍述を行っている際に、46-47頁分を誤って飛ばしてめくったために、その部分が空白になったのをあとから埋めて、その部分から「蓄積または拡大された規模での生産」の敍述を始めたので、それが分かるように〈先取り〉と冒頭に書いたのであろう、と推測している。
 しかしこれは果たしてそんなに単純な理由であろうか。というのは、マルクスは第8稿の17頁から単純再生産の敍述に移っていく際にも〈先取り〉と書いているからである(市原健志《『資本論』第2部の諸草稿とエンゲルスの編集について》『商學論纂』第27巻2号69頁)。つまりマルクスは単純再生産と拡大再生産の敍述を開始する時に、両方ともその敍述が〈先取り〉であることを明示して書きはじめているのである。果たしてこれは何に対する「先取り」なのであろうか。
 市原氏も大谷説に疑問を呈して、それはやはり内容上の〈先取り〉であろうという推測をたてている。市原氏の推測は氏の第8稿全体の性格理解とも関連しており、ここでそれを詳しく紹介すると余りにも横道にそれるので、各自同氏の論文を検討されたい。
 私自身も両者とは違った推測を立てているが、それは第2部全体のプランにも関連してくるので、残念ながらそれをここでは紹介できない。ただ一言断っておくと、エンゲルスはその「序文」でマルクスは第8稿で第3篇のプランを変更したかに述べているが、しかし私は第2稿の後に書かれた諸草稿はすべて第2稿をベースにしていると考えている。だから第2部全体の構成は、第2稿の「目次」(これは第2稿の本文が書かれたあとに、全体のプランとしてマルクスが書いたものと考えられる)に示されており、それは第8稿でも変わっていないと推測している。〈先取り〉はだからこの「目次」と関連して考えるべきだと思っているわけである。】


【1、拡大再生産の概念】


 〈1)〉【個別資本の蓄積で現われたことは、総資本の拡大再生産でも現われざるをえない】


【2】【拡大再生産の直接的規定、直接的表象】


 〈1)(1)第1部では,蓄積が個々の資本家については次のように現われる[sich darstellen]こと,すなわち,彼の商品資本を貨幣化するさいにこの商品資本のうち剰余価値を表示する(つまり剰余生産物によって担われている)部分それによって貨幣に転化させる,それを彼はふたたび彼の生産資本の現物諸要素に再転化させるというように現われること,つまり,実際には現実の蓄積とは拡大された〔vergrossert〕規摸での再生産であることを明らかにした。しかし個別資本の場合に現われる〔erscheiaen〕ことは年間再生産でも現われざるをえないのであって,それはちょうど,われわれが単純再生産の考察で見たように,--個別資本の場合に--その固定成分が積立貨幣として《次々に》沈澱していくということが年間の社会的再生産でも現われる〔sich ausdrucken〕のと同様である。

 (1)この「1)」は,赤鉛筆で丸く囲まれている。〉


 第1部では個別の資本家についてみると、蓄積というのは、剰余価値を担う商品資本を貨幣化したものを、再び生産資本の現物諸要素に再転化させること、すなわち実際には現実の蓄積とは拡大された規模での再生産であることが明らかになった。しかし個別資本の場合に現われることは年間再生産でも現われざるをえないのであって、だから年間の総資本の蓄積の場合にも、それは拡大された規模での再生産として現われるのである。
 それはわれわれが単純再生産の考察で、個別資本の場合、固定成分の償却基金が積立貨幣として次々と沈殿していくということが、年間の社会的再生産でも現われたのと同じである。

 【ここでマルクスは、「現実の蓄積」を剰余価値を実現した貨幣を生産諸要素の現物形態に再転化することとしている。マルクスは第三部の草稿段階では、まだ「貨幣資本の蓄積」というような言い方をしている(貨幣の積立も「蓄積」と捉えている)が、しかし第八稿では、すでに蓄積のために沈殿させられる貨幣資本については、「潜勢的貨幣資本」とより厳密な規定を行い、しかもその潜勢的貨幣資本の沈殿について、それを決して「蓄積」とは呼ばず、「蓄蔵」と正確に述べている。つまり貨幣形態で蓄蔵している段階は、まだ「現実の蓄積」ではないと厳密に区別して考えるようになっていることに注意が必要である。
 またここでは単純再生産での考察を振り返っているが、しかしそれはあくまでも個別資本の場合に現われたことが総資本の考察でも現われる例として上げているだけである。しかし固定資本を更新するための貨幣積立が個別資本でも総資本でも同じように現われるということをわざわざを一つの例として持ち出しているのは、やはり蓄積に必要な貨幣積立が個別資本の場合に必要であったように、総資本の場合にも同じように必要であると言いたいが為であろうと考えるべきであろう。
 またマルクスはここでは「年間の社会的再生産」と述べることで、社会的総資本の再生産を年間を単位として考察することが示唆されていることも注意すべきことであろう。】

2008年7月17日 (木)

現代貨幣論研究(1)

 「現代の貨幣」というのは、「現代の通貨」と言い換えてもよいだろう。これは直接には、われわれが毎日見ている、1万円札や千円札、あるいは500円や100円等の硬貨であろう。もちろん、これ以外にも「預金通貨」と称されるものもあるし、それ以外にも「通貨」の機能を果たすと考えられているものは他にもある。しかしまずわれわれが「現代の貨幣」としてその科学的な解明に取り組まなければならないのは、最初に直接的な表象として捉えられる千円札や万円札とは一体何なのかという課題なのである。

 これらの「現代の貨幣」を如何に理解するか、ということは一見、易しいようで、決してそうではない。これまでの著名なマルクス経済学者が束になってかかっても分からなかった問題と言っても決して言い過ぎでない、一つの“謎”なのである。
 
 例えば「マルクス経済学の通説の最高峰」と評価されているらしい、大谷禎之介著『図解・社会経済学』(桜井書店2001.3.30刊)も、その「おわりに--研究の到達点と残された諸課題--」で、次のように述べている。

 〈本書がこれまで行ってきたのは資本の一般的分析、言い換えれば資本主義的生産の一般的研究であり、その最終的な到達点が以上のようなものだったのである。……(中略)……
 われわれはいまでは、資本主義社会の外観的な運動は、その基底を貫いている運動法則、あるいは最深部にある内的な関連から生じているものであること、したがって前者は後者の認識なしには理解できないことを知っている。
 けれども、このことを知っているだけでは、本質的にたえざる不均衡化のなかでのたえざる均衡化としてのみ貫く資本主義的生産の諸法則のもろもろの具体的な貫徹形態はまだ説明されないままである。それらを理解するためには、資本の一般的分析によって得られた内的関連、内的諸法則についての認識にもとづいて、さらに具体的な諸問題の研究に進んでいかなければならない。このような研究が、本講のあとに残された課題である。〉(同書409-410頁)

 このように著者は述べ、そのような残された課題のうち「最も重要な課題」として第一に〈産業循環論、景気論、恐慌論〉、第二に、〈世界市場論〉、第三に〈現状分析〉、そして〈最後に〉として、次のように述べている。

 〈最後に、以上の三つの課題に取り組むためにも、いま理論的に明らかにすることが緊要となっている問題を、とくに一つだけあげておこう。それは、世界中の資本主義諸国で、中央銀行が発行する銀行券が不換券となっている不換制が一般化しており、そして諸国での不換制を基礎に特定の国(現在はアメリカ)の不換通貨が「国際通貨」として通用しているという、世界資本主義の現在の状態をどう理解するか、という問題である。換言すれば、貨幣である金を基礎にした貨幣システム(monetary system)はすでに意味を失ったのかそして、厳密に言えばそのような貨幣システムを基礎にしてのみ存立できるはずの信用システム(credit system)はもやは存在しないのか、という問題である。この問題は、すでに資本の一般的分析を超えるものなので本書では触れることをしなかったが、現代の経済を分析するさいの最も重要な理論的問題の一つである。〉(同書410-411頁)

 つまり「現代の貨幣」を如何に理解するか、という問題なのである。それがまず解明されたのちに、「ドル本位制」とか「ドル体制」と言われる今日の「国際通貨体制」の解明も、それを基礎に可能であろう。著者が「信用システムは意味を失ったのか」といった問題も提起しているが、これは恐らく伊藤武氏の主張(例えば『貨幣と銀行の理論』、『マルクス信用論の解明』等を参照)を暗に前提して述べているのであろうが、しかしこれは私に言わせれば論外であろうと思っている。信用制度が「そのような(つまり金にもとづく)貨幣システムを基礎にしてのみ存立できるはず」と考えること自体がすでに「信用とは何か」を理解しないものであり、間違っていると考えるからである。
 
 サブプライム問題やヘッジファンドとかのさまざまな金融現象の現代的な諸問題を解明していく上でも、この「現代の貨幣」を如何に理解するかということはもっとも基礎的な問題であり、この問題の科学的な解明なしに、現代のそれ以外のさまざまな経済的な諸問題の解明もまたおぼつかないと言っても過言ではないほどに重要な問題であると私は考えている。

 では、何がそんなに難しいのであろうか?

 大谷氏は〈貨幣である金を基礎にした貨幣システム(monetary system)はすでに意味を失ったのか〉と述べている。これは言い換えれば、マルクスが『経済学批判』や『資本論』で解明している「貨幣論」は〈すでに意味を失ったのか〉ということと同義なのである。
 つまり大谷氏がもしこの問題提起に「イエス」と答えたなら、彼のこの著書がまったく無意味になるような問題が突きつけられているわけである。なぜなら、彼は彼の著書が解明したのは〈資本主義的生産の一般的研究であり、その最終的な到達点〉だとし、〈資本の一般的分析によって得られた内的関連、内的諸法則についての認識にもとづいて、さらに具体的な諸問題の研究に進んでいかなければならない〉としていたからである。ところが彼が〈到達した〉とされる〈一般的分析〉が〈すでに意味を失った〉なら、そもそも〈その認識にもとづいて、さらに具体的な諸問題の研究に進〉むことすら不可能であろう。だからそれほど深刻な--マルクス経済学にとって深刻な--問題がそこにはあるのである。
 
 「貨幣とは何か」については、すでに述べたように、マルクスによって『経済学批判』や『資本論』において解明されている。しかしそこでは貨幣は金という商品に固着した形態として理解されているが、「現代の貨幣」には金との関連は一切無いように見えるからである。万円札や千円札は紙で出来ている。それだけではなく、これらの表面には「日本銀行券」と印刷されているように「銀行券」なのである。しかし銀行券なら金との兌換が保証されていなければならないという人々もおり、だから日銀券はすでに銀行券ではなく「紙幣」だなどと主張する人たちもいるわけである。もちろん銀行券も紙で出来ているのだから紙幣の一種だろうといえないこともないが、しかし理論的にはそんなに安易な問題ではない。というのは銀行券はある種の債券であるが、紙幣というのは国家が貨幣の鋳貨機能にもとづいて発行するものであり、両者は本質的に異なるものなのである。紙幣は貨幣のもっとも単純な機能から生まれてくるが、銀行券はもっと複雑な資本主義的な諸関係を前提しなければならない、等々。

 だから日銀券は果たして「紙幣」なのか、それとも「銀行券」なのか、というのも長くマルクス経済学者によって論争されてきた問題の一つなのである。「現代の日銀券はますます紙幣化しつつある銀行券である」などとどっちつかずの定式化をあたえて何か立派なことを言ったつもりになっている御仁もあるらしいが、こうした問題一つとってもなかなか解決がついていないのである。
 
 いや現代においても金は貨幣としての機能を果たしているのだ、という人が例えあったとしても、それなら、マルクスが『資本論』で明らかにしている貨幣の諸機能をどのように現代の貨幣の中に見いだすのかという問題が突きつけられてくることになる。
 
 例えば、現代の貨幣には果たして商品の価値を尺度する機能があるのかどうか、紙で出来ている日銀券それ自体には価値はないのだから、日銀券が直接、価値を尺度するハズがない、それなら商品に「○○円」という値札がついているが、これは一体何なのか、これは商品の価値を価格として表しているのではないのか、価値を尺度せずして、どうしてそれを価格として表すことが出来るのか、等々、という問題が出てくる。さらに度量標準の機能や、流通必要金量の法則など、マルクスが『資本論』で解明している諸法則が、現代でも果たして有効なのかどうかという形で、問われてくるわけである。
 
 こうして「現代の貨幣」は一つの“謎”なのである。
 
 私はこの連載を通じて、この謎を解明していくなどという大言壮語を吐く気はない。しかし私なりの考えというものは持っているつもりである。しかしそれを体系だって論じることが出来るほどのものがあるわけではない。

 だからこの連載では、このテーマに関連する諸文献を取り上げて、それを批判的に検討していくことにしたい。取り上げる文献はさまざまであり、とにかくこのテーマに資すると思えるものは何でも取り上げる。またその順序もまちまちであり、たまたま私の目についたものから取り上げるかも知れない。一つの著作である場合もあれば、雑誌や紀要等に掲載された論文である場合もある、とにかく関連する文献を一つ一つ批判的に取り上げてゆく。そしてそれらの批判的検討を通じて自ずと私自身のこの問題に対する立場、見解が浮き彫りになると期待するわけである。
 

2008年7月16日 (水)

『資本論』第2部第8草稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その1)

§§拡大再生産の全体の構成について

 これはまだ厳密に検証した結果ではないが、草稿の21章該当部分におけるマルクスの意図というか、全体の構成についての大まかな見通しみたいなものを、まず最初に与え、その上で、そうした見通しが、では実際に、詳しく検討していくなかで、果たして妥当なものなのかどうかを検証していくというやり方で、この解説はやってゆきたいと思っている。最初は、だから簡単なメモ書きである。

 まず、全体の構成は大きく分けて

 1、拡大再生産の概念
 2、拡大再生産の法則
 3、総括・残された課題

の三つにわけられるように思う。それぞれについて見ていこう。

 1、拡大再生産の概念

 この部分に含まれるのは、マルクスが番号を記した1)~5)全体を含む。ここではマルクスは単純再生産と比較して拡大再生産に固有の課題は何かを明らかにすることによって、拡大再生産の概念を与えようとしている。マルクスはそれを部門Iと部門IIに分けて展開しようとしたように思えるが、必ずしも十分展開されたものになっていない。特に部門IIの部分はまったく不完全に終わっている。

 この部分は大きくは二つに分かれる。

 1)、まず個別資本と社会的な総資本との関連で拡大再生産を検討している。

 そこでは (1)個別資本で現われることは総資本の考察でも現われざるをえないということと、(2)個別資本では問題にならなかったことが総資本では問題になってくる、という二つの問題が論じられている。

 (1)の部分は謂わば拡大再生産の直接的規定である。すなわち「拡大再生産とは拡大された規模での生産である」という単純な規定が与えられる。それは拡大再生産の直接的表象でもある。マルクスはやはり拡大再生産でもこうした直接的表象から始めており、それがいわゆる端緒なのである。

 (2)は拡大再生産の直接的反省関係を問題にしている。つまり蓄積にはまず貨幣による蓄積が前提されるが、それだけではなく現物における蓄積がすでになされていることが前提される。だから蓄積にはすなわち蓄積が前提されることが示される。こうしたことは特に総資本の蓄積を考える場合には前提されなければならないのである。

 2)、次は単純再生産との比較による拡大再生産の分析である。

 ここでは(1)拡大再生産でまず問題になるのは、量による拡大ではなく質的変化であること、(2)蓄積には、まず貨幣による蓄積が先行しなければならないが、それには一方での一方的販売が生じること、だからそれには他方での一方的購買が対応すべきこと、 等々。単純再生産と区別された拡大再生産に固有の課題を明らかにして、拡大再生産の概念が展開されている。

      …………………………***…………………………

 結局、拡大再生産の概念というのは、単純再生産とはまったく違った機能配置による再生産の出発式が前提されるというところに尽きる。つまりその意味では単純再生産と拡大再生産とは単に量的な相違だけでなく(量的に「拡大」されるだけではなく)、質的相違があること、前者から後者への「移行」には質的飛躍があること、をマルクスは強調している。マルクスはそれを強調する方法として、質的飛躍の論理的前提としての悪無限(「移行」を前提した場合の不合理や矛盾)に導く方法をとっており、それがいわゆる一般には「試行錯誤」と捉えられているような気がする。しかしマルクスの意図としては、「移行」を前提すれば不合理や矛盾に陥ることを論証することによって、質的飛躍の必要を明らにしているのであり、その上で、新たな拡大再生産表式の出発式へと導いていくという展望を持っていたように思えるのである。

 2、拡大再生産の法則

 この部分に含まれるのは、b)のあと横線を引いて、拡大再生産の出発式が示され、蓄積の年次を繰り返して表式を計算しているところと、そのまとめが入る。ここではマルクスは拡大再生産表式に具体的な数字をさまざまな条件を変更しながら、入れて計算しているのだが、それは拡大再生産の中に潜む法則性を探っているのであり、エンゲルスが誤解したように、「拡大再生産の表式的叙述」そのものが直接の課題ではないのである(もちろん、そのことは拡大再生産を表式としてあらわす意義を否定するものではないが)。そしてマルクスはその法則を、最後にI(v+m/2)とIIcとの関係を考察することによって、拡大再生産のためには第I部門と第II部門とのそれぞれの蓄積にはどのような諸制限が生じるかという形でまとめている。しかしいうまでもなく、ここでのマルクスは計算間違いを一杯犯しており、その展開も十分とはいえない。

 3、拡大再生産の総括(および残された課題)

 この部分に含まれるのは、具体的数字を入れて計算したあとのまとめの終わったところ以降とエンゲルスが「補遺」とした部分である。ここでは拡大再生産の表式の計算で導き出した法則がもっと一般式の形でI(v+m/X)とIIcとの関係という形で示されているように、全体的な総括であり、また固定資本の循環の問題や産金部門の独自の循環と再生産などが指摘されており、その意味では今後さらに追究すべき課題を指摘している部分でもあるだろう。

  *************************************
 
 こうして見ると、何とか項目を付けて書いているのは1に該当する部分だけであり、2と3はまったく不十分なままに終わっていることが分かる。しかも1の各項目そのものも仕上げられておらず、途中で中断したものがほとんどである。このように見れば、この第8草稿の拡大再生産論というのはやはり未完成な草稿でしかないと結論せざるをえない。
 しかしハッキリさせなければならないのは、マルクスがこの部分で試行錯誤を繰り返しているとか、明確な概念をもつまでには至らなかったなどいう評価は当たらないということである。1の項目のなかで途中で叙述を中断したものの中には、明らかにマルクスにとって以下の叙述がすでに余りにも明らかなので、「云々云々」という形で締めくくり、以下の叙述を省略したと思えるところもある。つまり、すべての項目をじっくり推敲して叙述することを許さなかった、何らかの事情がマルクスにあったとしか考えようがないのである。当時のマルクスは病気がちであり、マルクスはこの草稿を書き上げたあと数年で死んでいる。

2008年7月15日 (火)

『資本論』第2部第20章第4節の不可解な部分について

『資本論』第2部第20章第4節の不可解な部分について

 『資本論』第2部第3篇第20章「単純再生産」第4節「部門IIのなかでの転換、必要生活手段と奢侈手段」の第24パラグラフ(これはパラグラフのとり方によって違ってくる)から26パラグラフにかけ、理解出来ない部分がある。まずその部分を全文を全集版から引用しておこう(引用文の最後の二つのパラグラフが皆目分からない?)。

 《本来の労働手段だけではなく原料や補助材料なども、そのかなり大きな部門がどちらかの部門でも同種のものである。しかし、総生産物I(v+m)の色々な価値部分の転換について言えば、この分割は全くどうでもよいであろう。前記の 800Ivも200Ivも次のようにして実現される。すなわち、労賃が消費手段1000IIcに支出され、したがって、労賃として前貸しされた貨幣資本が帰ってくるときに資本家的生産者Iの間に平等に分配され、彼らの出資に比例して彼らの前貸可変資本が再び貨幣で補填されるということによって、実現されるのである。他方、1000Imの実現について言えば、ここでも資本家たちは平等に(彼らのmの大きさに比例して)IIcの残り半分の全体=1000 のうちから、消費手段での 600IIa と 400IIb とを引き出すであろう。したがって、IIaの不変資本を補填するものは
 600c(IIa)からの 480(五分の三)と 400c(IIb)からの 320(五分の二)との合計 800 であり、
IIbの不変資本を補填するものは
 600c(IIa)からの 120(五分の三)と 400c(IIb)からの 80(五分の二)との合計 200 であり、
総計は 1000 である。》(全集版の500-1頁)

 この部分のマルクスの敍述には不可解な部分がある。確かに、マルクスが24パラグラフで前提しているように、総生産物I(v+m)がIIの亜部門abどちらでも使用可能な生産手段からなるとして、その区別の必要がないと仮定すれば、確かに24パラグラフで述べていることはその限りで妥当である。

 すなわち800Ivと200IIvは、Iの労働者が1000IIcに支出し、その貨幣がIの資本家たちにそれぞれが可変資本として前貸した分だけ貨幣形態で回収されることになる。

 さらにまた1000Imについては、その5分の3、600Imを必要消費手段に、また5分の2、400Imを奢侈手段に支出するとするなら、600cII(a)と400cII(b)とをそれぞれ実現し、貨幣はそれを支出した資本家たちに帰ってくる、等々。

 しかし問題なのは、24パラグラフの最後から26パラグラフにかけて論じていることである。一体、マルクスはここで何を言いたいのか、皆目分からない。

 マルクスは《IIaの不変資本を補填するもの》として、《600c(IIa)からの480(5分の3)と400c(IIb)からの320(5分の2)との合計800》と書いているが、IIaの不変資本は1600cであり、これでは補填は成立しない。また《IIbの不変資本を補填するもの》として《600c(IIa)からの120(5分の3)と400c(IIb)からの80(5分の2)との合計200》で総計1000と書いているがこれも数値が合わない。数値が合わないだけでなく不合理である。

 この部分は次のようにいうべきではないだろうか。

 IIa(1600c)の不変資本を補填するものは、I(800v+200v)の1000と1000Imのうち必要消費手段に支出される600Im(5分の3)との合計1600
 IIb(400c)の不変資本を補填するものは、1000Imのうち奢侈手段に支出される400Im(5分の2)、すなわち400である、と。

 このようにこの部分については、不可解なので、もう一度、以前の単純再生産の表式をIIの亜部門の条件を入れて書いてみて、独自の考察を加えてみることにする。

 I 4000c+1000v+1000m
     [a) 800v+ 800m]
      [b) 200v+ 200m]

 II 2000c+500v+500m
  [a)1600c+400v+400m]
  [b) 400c+100v+100m]

 さて、ここで2000I(v+m)は生産手段の現物形態で存在するが、それが交換される2000IIcがabの亜部門に分けられることによって、消費手段の生産手段I(800v+800m)と奢侈手段の生産手段I(200v+200m)とに分かれる。もちろん2000I(v+m)は本来の労働手段だけでなく、原料や補助材料など、かなりの部分がそのどちらの亜部門でも使用可能であろう。しかしわれわれはそれを便宜上、明確に区別されるものと仮定しよう、そうすると資本家Iも必要消費手段の生産手段を生産する部門Iaと、奢侈手段の生産手段を生産する部門Ibに分かれることになる。そうした場合、総生産物I(v+m)のそれぞれの価値部分の転換は如何になされるのであろうか。

 例えば800Ivと200Ivは次のように実現される。

 IaとIbの資本家はそれぞれの労働者にIaは800ポンド、Ibは200ポンドの賃金を支払い、それぞれの労働者は彼らの労賃1000ポンドを支出してIIaの1600cのうち1000IIc(a)の消費手段を購入する。IIaの資本家はその売上金1000ポンドのうち800ポンドでIaの800vの生産手段を購入し、さらに残りの200ポンドでIaの800mのうち200mの生産手段を購入する。すると資本家Iaは彼が労働者に支払った800ポンドを回収し、さらに800mのうち200mを販売し、200ポンドの貨幣を手に入れることになる。しかし資本家Ibの200vは依然として実現できず、よって彼が労働者に支払った200ポンドはまだ回収できていないことになる。

 そこで今度は1000mI(800m+200m)の実現について考えてみよう。

 すでにIaは彼の800mのうち200mを販売し、貨幣で200ポンドを持っている。彼は800mのうち480m(5分の3)を必要生活手段に、320m(5分の2)を奢侈手段に当てる。だから彼はすでに持っている200ポンドに手持ちの貨幣280ポンド加えて合計480ポンドでIIaから必要生活手段を購入する。するとIIaの資本家はすでにIの労働者に1000cを販売しているので、残りの600cのうち480cを資本家Iaに販売したことになる。彼はその480ポンドで今度はIaの残りの600mのうち480mを購入する。すると資本家Iaは先に支払った480ポンドを回収する。彼はさらにそのうち320ポンドを使って、資本家IIbから奢侈手段を購入する。すると資本家IIbは彼の400cのうち320cを実現する。彼はその売上金320ポンドで資本家Ibの200vと200mのうち120mを購入する。すると資本家Ibにはようやく彼が彼の労働者に前貸した可変資本200が貨幣形態で還流し、さらに彼の200mのうち、120mが売れたことになる。資本家Ibも200mのうち120m(5分の3)を必要生活手段に、80m(5分の2)を奢侈手段に当てる。だから彼は120mの売上金で資本家IIaから必要生活手段を購入する。すると資本家IIaはIの労働者に販売した分(1000c)と資本家Iaに販売した分(480c)、そして最後に資本家Ibに販売した分(120c)とで合計、彼の不変資本分1600cをすべて実現したことになる。

 さてまだ資本家Ibの200mのうち80mが残っている。これは資本家Ibの奢侈手段の購入に当てる分であるから、資本家Ibは手許の金80ポンドで資本IIbの400cのうち残っている80cを購入する。すると資本家IIbはすでに資本家Iaに販売した320cと合わせて、合計400cをすべて実現したことになる。彼は80cの売り上げ金80ポンドで、今度は資本家Ibの80mの奢侈手段の生産手段を購入して彼の不変資本をすべて現物形態で補填する。こうして資本家Ibには彼が最初に奢侈手段の購入に投じた貨幣80ポンドが戻ってくることになる。

 以上のような複雑な過程をへて、I(800v+200v)とI(800m+200m)は実現されることになる。

 さて、上記の不可解な部分は、しかしあくまでもエンゲルス版にもとづいたものである。だからこの部分はマルクスの草稿ではどうなっているのかを少し調べる必要がある。もちろん、第2部のエンゲルス版の元になった諸草稿はまだ刊行されていないが、この第20章に関しては市原健志氏の研究がある(《『資本論』第2部第3篇第19・20章と第2部第8稿(上・下)》『商學論纂』第29巻第2・3号)。それを参考に調べてみた。まずエンゲルス版の問題部分を引用し、エンゲルスによる修正部分を[ ]に入れ、そのあとにマルクスの草稿の記述を【 】で加えておいた。

■『資本論』第2部第20章第4節エンゲルス版24~26パラグラフとマルクスの草稿

 《本来の労働手段だけではなく原料や補助材料なども、そのかなり大きな部門がどちらかの部門でも同種のものである。しかし、総生産物I(v+m)の色々な価値部分の転換について言えば、この分割は全くどうでもよいであろう[前記の]【エンゲルスの加筆】800Ivも200Ivも次のようにして実現される。すなわち、労賃が[消費手段]【エンゲルスの加筆】1000IIcに支出され、したがって、労賃として前貸しされた貨幣資本が帰ってくるときに資本家的生産者Iの間に平等に分配され、彼らの出資に比例して彼らの前貸可変資本が再び貨幣で補填されるということによって、実現されるのである。[他方、1000Imの実現について言えば、ここでも資本家たちは平等に(彼らのmの大きさに比例して)IIcの残り半分の全体=1000 のうちから、消費手段での600IIaと400IIbとを引き出すであろう。したがって、IIaの不変資本を補填するものは]他方、この資本家たちは釣り合いをもって(彼らのmの大きさに比例して)、600(IIa)と400(IIb)とを引き出すであろう。】
 [600c(IIa)からの 480(五分の三)と400c(IIb)からの320(五分の二)との合計800であり、
 IIbの不変資本を補填するものは
 600c(IIa)からの 120(五分の三)と400c(IIb)からの 80(五分の二)との合計200であり、
総計は 1000 である。]

【すなわち、
 IIa=600c(II)(a)から480とcII(b)から320=800
                             合計=1000
 IIb)=600c(II)(a)から120とcII(b)から80=200

 このようにマルクスの草稿そのものにはまったく不合理な点はない。だからエンゲルスは恐らくマルクスの草稿の内容を理解できなかったのであろう。エンゲルスの修正箇所を取り除き、マルクスの草稿部分だけを取り出してみると、次のようになる。

 《他方、この資本家たちは釣り合いをもって(彼らのmの大きさに比例して)、600(IIa)と400(IIb)とを引き出すであろう。
 すなわち、
IIa=600c(II)(a)から480とcII(b)から320=800
                             合計=1000
IIb)=600c(II)(a)から120とcII(b)から80=200

 ここでやや首をかしげるのはマルクスが「IIa」と「IIb)」と書いているぐらいで(ただこれも草稿を調べた市原氏の見間違いの可能性がないとはいえない)、ここは本来なら「Ia」「Ib」が適当であろう。そうすれば、マルクスが述べていることは、極めて明確であり、それは次のようなことなのである。
 
 《他方、Iの資本家たちの剰余価値部分I(800m+200m)は、それぞれ釣り合いをもって(すなわち彼らのmの大きさ、すなわちIaは800m、Ibは200mに応じて)、600(IIa)と400(IIb)から、それぞれ必要生活手段と奢侈手段とを引き出すであろう。すなわわち
 資本家Iの必要生活手段の生産手段を生産する資本家(つまりIa)は剰余価値800mのうち5分の3(480m)を必要生活手段に支出する、すなわち600c(II)(a)のうち480c(II)(a)と補填し合う、さらにその5分の2(320m)を奢侈手段に支出する、すなわち400c(II)(b)のうち320c(II)(b)と補填し合う、合計800。
 また資本家Iの奢侈手段の生産手段を生産する資本家(つまりIb)は剰余価値200mのうちやはり5分の3(120m)を必要生活手段に支出する、よって600c(II)(a)のうち120cと補填し合う、さらにその5分の2(80m)を奢侈手段に支出する、よってと400cII(b)のうち80cと補填し合う、合計200、よって総合計1000。》
 
 このようにマルクス自身は明確に語っていたのである。ただエンゲルスにはそれが分からず変な修正をしたために、皆目意味不明な内容になってしまっていたのである。

トップページ | 2008年8月 »