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「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討

2009年11月 7日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その66)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その6)

 さらにこのマルクスの冒頭の敍述を見てわれわれは奇妙なことに気付く。マルクスは単純再生産の最後に部門 I の4000cの考察をやろうとしているのであるが、その冒頭で I (1000v+1000m)とII(2000c)との関連やII(500v+500m)の内部の相互転換、および《単純再生産の全構図》については、《後に立ち戻ることの保留をつけて》やると述べている。これが奇妙であるのは一見して明らかだ。というのはマルクスはこの第8稿の単純再生産の部分では、以前にも紹介したが、市原氏によると次のような順序で考察しているのである。

(1)「第3節 両大部門間の変換-- I (v+m)対IIc」
(2)「第4節 大部門IIの内部での変換。必要生活手段と奢侈品」
(3)「第5節 貨幣流通による諸変換の媒介」
(4)「第11節 固定資本の補填」
(5)「第12節 貨幣材料の再生産」
(6)「第10節 資本と収入--可変資本と労賃」

 つまりマルクスがここで《後に立ち戻ることの保留をつけて》と述べている問題は、実際には草稿ではすでに考察済みの問題なのである。にも関わらず、ここでマルクスがこのように断っているということは、このマルクスの断りは、実際のこれまでの草稿での敍述を前提にしたものではないということを示している。それならそれは何を前提にしているのか。それはいうまでもなく、本来マルクスが構想している執筆順序以外の何物でもない。つまり将来まとめるであろう完全稿では、マルクスは I )4000cの考察を最初にやる考えであるということである。あるいはもしエンゲルスに編集を委ねることを前提にしているなら、エンゲルスにこの部分が単純再生産の冒頭に来るべきことを知らしめるために書いているということである。
 つまりマルクス自身のプランとしてはまず最初に部門 I の4000cの考察が来て、そのあと I (1000v+1000m)とII(2000c)との関係が考察され、さらにII(500v+500m)内部の相互転換が考察され、そして最後に《単純再生産の全構図》が考察される予定であったということである。だからこれは以前、「二段階の敍述構想」の放棄という、プランの変更をマルクス自身は果たして考えていたのかどうか、という問題を論じたときに、われわれが指摘していたとおりに、やはりマルクス自身は第8稿の段階でも、第2稿の敍述と同じように(しかし生産手段の生産部門を部門 IIから部門 I にし、生活手段の生産部門を部門 I から部門IIにするという、位置づけの変化に対応させてではあるが)、部門 I の不変資本の転換の考察⇒両部門の転換の考察⇒部門IIの内部の転換の考察⇒全体の構図の考察、という順序で考えていたことが分かるのである(そしてこの点では早坂啓造氏の問題提起は的確であったことが分かる)。これを見てもマルクス自身には第2稿の段階で立てたプランを変更する意図など第8稿の段階でも、まったく無かったことが明瞭に分かるのである。
 とするなら、大谷氏が単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が自己のこれまでの見解を自己批判をしているという部分は、単純再生産を締めくくるどころか、本来は単純再生産の一番最初に論じなければならない部門 I の不変資本の転換をマルクスが単純再生産の考察の最後で論じているだけのものだと考えなければならないのである(このように敍述の順序が前後するのは、他方で第8稿の性格を物語っている。すなわちそれはあくまでもノートであり、しかも第2稿で明らかにした全体のプランをべーすに第2稿の敍述の不十分さや欠落個所を部分的に補足するために書かれているという性格をである)。そして実際、現行の第10節の敍述を追ってみると、確かに最初の部分は明らかにマルクスの問題意識が不変資本の考察にあることが分かるのである(そうした問題意識でこの冒頭部分を読んでむしろ初めてマルクスは何を言おうとしているのかが分かったほどである)。しかし途中からどうやらマルクスの問題意識は変化していくような感じも受けるのである。実際、市原健志氏も次のように指摘している。

 〈つまり第10節の対象は I )4000cの考察であったことになる。そして実際そうした文章を受けて続けて読むならば,第10節の初めの部分(現行版435ページ8行目〔邦訳,699ページ3行目〕から437ページ2行目〔邦訳,7011ページ9行目〕まで)は,確かに部門 I の不変資本に関連した叙述を展開しているように見える。しかし,そのあとでは,なぜかマルクスはエンゲルスによって付けられた第10節の表題「資本と収入--可変資本と労賃」に一致する内容に考察の対象を絞っていってしまう。したがって結局,この第10節では I)4000cの考察はせずに終り,ついに「第20章 単純再生産」に該当する第8稿の部分ではこのことの考察ははずされる結果になった。〉(同論文上146頁、なお邦訳頁数は新日本新書版のもの)

 このように市原氏もいうのであるが、しかしもしマルクス自身の問題意識がそのように変化したのなら、マルクスは恐らく草稿にそうしたことを書いたのではないかと思う。つまりそういう断りを入れるか、あるいは横線でも引いて、ここからは違う問題を論じるということがわかるようにした筈である。しかし市原氏の草稿解読ではそうした断りや横線などは見当たらないのである。だからマルクス自身は恐らく最初に立てた問題を追究しているのではないかという見当が立つのである。

 問題はなぜ、マルクスは最初は部門 I の4000cの考察を行なうと断って始めているのに、そして実際、最初の部分では明らかに不変資本cの考察を行なっていると思えるのに、どうして途中から I (1000v+1000m)とII(2000c)の貨幣流通による媒介を入れた補填関係を、特に I (1000v)とII(1000c)とのそれの考察に移ってしまっているように思えるのかということである。

 結局、この問題を考えるためには、エンゲルスが「第10節 資本と収入、可変資本と補填」 とした部分の草稿全体を復元して、マルクスの敍述を逐一追って、その詳細な解読を行なう以外にないのである。しかしそうすると、あまりにも問題が横道に逸れ過ぎてしまうことになってしまう。だからわれわれは、とりあえずはこの問題は保留し、後にもう一度この問題には立ち返ることにしてまずは大谷氏の敍述を追って行くことにしよう。

 大谷氏は先の引用文で〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、以下のマルクスの一文を引用し、さらにそれを次のように論じている。

 〈「今はやりの観念――{俗物と一部の経済学者たちはこの観念によって理論的な困難から、すなわち現実の関連の理解から、わが身を遠ざけているのだ}、すなわち、一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念は、部分的には正しいにしても、もし一般的にそう観念するなら、まったくまちがいになる――つまり、それは、年間再生産に伴って行なわれる全転換過程の完全な誤解を含んでおり、したがってまた部分的には正しいことの事実的基礎に関する誤解を含んでいる。――。そこで、われわれは、この見解の部分的な正しさの基礎をなしている事実的諸関係をまとめてみることにしよう。そうすれば同時にこの諸関係のまちがった把握も明らかになるであろう。」(S. 780.31–41.)
 ここで言う、「一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念」こそ、まさに、上に引用した第八稿の第一層でのマルクスのそれであり、第一稿での「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握そのものである。マルクスはここで、かつての自分の「誤解」とそれを生みだした「事実的諸関係」を明らかにしようとする。〉
(下188-9頁)

 この引用文の内容に対する大谷氏の解釈を問題にする前に、大谷氏は先にも紹介したが、〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、上記の引用文を紹介するのであるが、そもそも〈社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていること〉と引用文の内容が、どのように関連しているのかが、大谷氏の説明ではまったく分からないということである。どうして上記のような説明のあと、マルクスは《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明に入っているのであろうか。それがさっぱり分からないのである。どうして年間総生産物の価値が生産手段によって移転された価値とその年に支出された人間的労働の対象化された価値とを含むことや、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられているということが、《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明と結びついているのであろうか、それがさっぱり分からないのである。
 これは分からないのは、ある意味では当然なのである。というのは、大谷氏が上記にまとめている部分と引用文との間には、マルクスの一連の敍述が挟まっており、それを大谷氏はここでは飛ばして、その二つ部分をただ機械的にくっつけているだけなのだからである。しかしこの大谷氏が飛ばしている部分は、どうしてマルクスは最初に「 I )4000c」の考察を行なうと言明しながら、途中から「 I )1000v」と「II)1000c」との貨幣流通を媒介にした補填関係の考察に移ってしまっているのかを考える上で重要な部分なのである。
 だからこの問題も、結局は、やはり草稿そのものをマルクスの敍述を丁寧に追って考えてみるしかないわけである。よってこの問題も、われわれはやはり後回しにしなければならない。しかし大谷氏はこうしたマルクスの問題意識のつながりや展開について何の注意も払わずに、問題を論じていることがよく分かるであろう。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 6日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その65)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その5)

 さて大谷氏は以上のようなマルクスの問題ある敍述(ただ氏がそう考えるだけなのだが)を指摘したあと、次のように述べている。

 〈このような表現は、第8稿の第二層では完全に消える。消えるだけではない。マルクスは、自分がかつて頻繁に使っていたそのような表現を明示的に掲げたうえで、それを批判する。すなわち、彼はここで、はっきりと自己批判をしているのである。〉(下188頁)

 しかしわれわれは大谷氏が第8稿の〈第一層〉と言われている部分においても、マルクス自身は決して間違って問題を論じていなかったことを確認した。ただ確かに大谷氏が読み誤ったように、マルクスは一見すると分かりにくい表現をしていたことは事実である。それはどうしてであろうか。そしてそれに対して、これから大谷氏がマルクスが〈ハッキリと自己批判している〉という〈第二層〉として持ち出しているところでは、どうしてマルクスは大谷氏が〈このような表現は、……完全に消える〉と思えるほどに問題を論じているのであろうか。それを少し考えてみよう。
 それは他でもない、すでにこれまでの検討でも示唆してきたように、大谷氏が〈第一層〉〈第二層〉として持ち出してきている草稿部分でマルクスが何を論じているのかを考えてみれば分かるのである。大谷氏がマルクスが依然として曖昧な間違った論じ方をしているとして例示した〈第一層〉の部分というのは、すでに指摘したが、マルクスがスミスのいわゆる「v+mのドグマ」を批判している部分である。この部分はマルクスが《あとに置くべきものの先取り》として考察を始めている単純再生産の考察より前に位置する。だからここでは社会の総再生産過程を「第 I 部門」と「第II部門」に分けて論じる前のところであり、だからそれらはまだ《第一種部門》《第二種部門》というように表現されている。また「不変資本」、「可変資本」、「剰余価値」という用語さえ、大谷氏が例示した部分では避けられている。ましてや大谷氏が書いているような、「 I (v+m)」というような、われわれにとっては再生産表式でおなじみの記号ももちろん使われていない(しかしもちろん、大谷氏が引用している部分以外では、スミス批判のなかでもこれらの用語は使われているのであるが)。しかもここで問題なのは、スミスの「v+mのドグマ」、すなわちスミスが社会の年生産物の交換価値を賃金、利潤、地代に分解したり、それによって構成するという主張を批判することにある。だからここでは貨幣流通が問題なのでなく、社会の総生産物の価値と素材における補填関係が問題なのである。だからここでは一見すると大谷氏が問題として挙げたくなるような敍述が見られたのである(しかし断るまでもないが、詳細にマルクスがいわんとすることを読み取れば、そうした大谷氏のような捉え方は誤りであり、マルクスは問題を正確に論じていることが読み取れたはずである)。
 それに対して、大谷氏が〈第8稿の第二層〉として上げているところは、単純再生産の敍述の一番最後の部分に位置している。つまりこの部分は、マルクスが《あとに置くべきものの先取り》と断って考察を進めているところなのである。だからここでは最初から貨幣流通による媒介を入れた考察を《先取り》して論じている部分なのである。だからマルクスが大谷氏らが満足のいくような敍述をしているのはある意味では当然なのである。それを大谷氏らは、貨幣流通による媒介を捨象して論じていたときの敍述をマルクス自身が〈ハッキリと自己批判している〉などと捉えているだけの話なのである。しかし果たしてその部分はそうしたマルクス自身の〈厳しい自己批判〉といえるのかどうか、それは引き続いて検討して行かなければならない。

 まず大谷氏は、マルクス自身の〈厳しい自己批判〉だとする部分を紹介をするに当たって、次のように書きはじめている。

 〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている (S. 779.4–790.13)。マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う。〉(下188頁)

 この後続けて、大谷氏はマルクスの一文を引用しているのであるが、その引用文の大谷氏の解釈の検討は後回しにして、この部分に対する異議をまず提起しておきたい。
 大谷氏がマルクスが〈厳しい自己批判〉をしているとして引用しているのは、現行の「第20章 単純再生産」「第10節 資本と収入、可変資本と補填」と題されている部分におけるマルクスの記述である。この部分は、草稿では単純再生産に関する敍述が見られる一番最後に書かれているものである(だから草稿では「第12節 貨幣材料の再生産」の敍述に続けて区切りを示す横線を引いた後に書かれている)。だから大谷氏は〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている〉と考えているわけである。しかしこの部分の解釈として、果たして〈単純再生産の叙述を締め括っている〉という理解は正しいのかどうかである。確かにそれは第8稿の単純再生産を考察している部分の一番最後に位置しており、その位置だけを見るなら〈締めくくっている〉という大谷氏の理解は正しいかに見える。しかし大谷氏は草稿のこの部分の正確な情報を読者に伝えていない(意図的に?)。というのは、そこには現行版では欠けている冒頭部分があるからである。おそらくエンゲルスは、自身がつけた表題(「第10節 資本と収入、可変資本と補填」)に相応しくないと判断して削除したのであろうが、しかしこの冒頭の部分は、この個所でマルクスが何を論じようとしていたのか、またこの部分がマルクスの単純再生産全体の敍述プランのなかでどういう位置を占める予定であったのかを考える上で重要な意味を持っているのである。大谷氏は、この部分が、単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が、それまでの古典派経済学の貨幣ベール観を引きずっていた自身の見解を自己批判するために書かれたものであるかにいうのであるが、そうした自分の主張にとって不都合なところ、つまり実際には草稿には存在する冒頭部分を、エンゲルスと同様に、敢えて論じずにいるように思えてならないのである。単純再生産の最後で論じているこの部分は、果たして大谷氏がいうような目的で書かれたものであるのかどうか、あるいはマルクスの全体の構想のなかでどういう位置を占めているのか、われわれは草稿に直接当たって検討してみることにしよう。

 市原健志氏はこの第10節(もちろん節もその表題もエンゲルスによるものであるが)の冒頭にエンゲルスによって削除された一文があるとして次のようにそれを紹介している(市原健志《『資本論』第2部第3篇第19・20章と第2部第8稿》下187頁)

 《3) I 1000v+1000m
                             および単純再生産の全構図
    II2000c+500v+500m

に後に立ち戻ることの保留をつけて、今やわれわれはさしあたり I )4000cに目をむけることにしよう。》

 そしてこの部分に市原氏は次のようなコメントを書いている。

 〈つまり、第10節の初めは「 I )4000c」の考察を目的にしていたと言える。なお、この部分の冒頭にある「3)」に対応する「1)」と「2)」がどれであるかについては判然としない。〉

 われわれは、このエンゲルスによって削除された冒頭部分を見て気付くのは、この部分でマルクス自身は何を論じようとしていたかが明確に述べられていることである。すなわち第 I 部門の商品資本のうちの不変資本の価値部分、「 I )4000c」の考察である。だから大谷氏がいうようなそれまでの自身の見解を「自己批判」するために書かれたものなどでは決してないことがこの一文だけでも明瞭であろう。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 5日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その64)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その4)

 (以下は前回、文章の途中で中断したところからの続きである。)

つまりcは再生産の観点から見るなら、価値部分としては、再び部門 I の不変資本に充てられる部分なのである。つまりその部分の商品資本が販売された貨幣で再び購入されるのは、やはり部門 I の生産物であり、部門 I で充用される生産手段なのである。つまり I cというのは、商品資本のうち再生産の補填関係から捉えられた価値部分として見た場合に、再び部門 I で生産手段として充用されるものに該当するということを表しているのである。だからこの部分の商品資本の現物形態も、再び部門 I で生産手段として役立つ使用価値でなければならない。そして I (v+m)は、やはり部門 I の商品資本のうち、再生産の補填関係から見た場合、vは再び可変資本として部門 I で充用される部分であり、mは資本家が彼らの剰余価値として取得する価値部分なのである。そして可変資本として部門 I で充用される価値部分ということは、部門 I の労働者に支払われた賃金と価値額として等しいことを意味するのである。だから I (v+m)は補填関係としてみた価値部分としては、労働者と資本家の収入として消費される部分であり、だから部門IIの生産物と交換されなければならないわけである。だから I (v+m)の商品資本は現物形態としては、部門IIの生産手段として存在していなければならない、等々。こうしたことはマルクスにとってはまったく明瞭なことである。だから大谷氏の批判などは不当な言い掛かりでしかないのである。先に紹介しておいたマルクスの説明をもう一度思い出そう。マルクスは次のように説明していた。可変資本部分(v)=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分(m)=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分。これらは部門 I の商品資本を《価値によって次のように分割される》としてマルクスが説明していたものである。このマルクスの説明にはどんな混乱も不明確さもないことは明らかではないか。
 それではどうして、マルクスはここで大谷氏が問題にするような表現を使っているのだろうか。それはスミスがすべての生産物の価値は賃金、利潤、地代に分解すると主張していることを問題にし、それを批判するために論じているからである。つまりこの部分(すなわち I 〔v+m〕)は、価値部分としては、この生産に参加するすべての当事者にとっては彼らの収入に充てられるものであるが、《しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》のだ、つまりそれは素材的には生産手段であり、だから社会的に考えるなら、資本としてしか機能し得ないものだ、つまりスミスのいうように収入に分解しうるように見えるものも、社会的には収入には分解しえないものが存在するのだというのがマルクスのいわんとすることなのである。もちろん、ここで社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》という場合の「収入」や「資本」は、スミスを意識してスミス流の使い分けをそのまま使っているのである。だからマルクスは問題をきわめて正確に論じていることは明らかなのである。

 次はマルクスが「2)」と番号を打っている部分の検討に移ろう。
 この「2)」は、スミスが彼自身の考えをきちんと総括したなら、到達したであろう結論の二つ目の項目という意味である。そしてここでは、 I (v+m)の価値部分は《社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》するが、それが資本として機能するのは、《第一種部門の資本家》、つまり部門 I の資本家においてではなく、《第二種部門の資本家》、つまり部門IIの資本家たちのためにであり、彼らはそれによって消費手段の生産に際して消費された「資本」(生産手段)を補填するのだ、ということである。そして彼らの手にある商品資本の価値部分、《すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する〔商品〕資本》は、《社会的立場から見れば》--つまりその素材(使用価値)を社会的分業の観点から見るなら--《第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす》と述べているのである。こうした説明はまったく正確であり、どんな曖昧さや混乱もないことは明らかであろう。

 そしてこうしたスミスが彼が断片的に述べているものを総括したなら到達したであろう二つの結論を述べたあと、マルクスは、もし上記のような結論までスミスが分析を進めたなら、《全問題の解決に欠けるところはほんのわずかだったであろう》《彼は核心に迫っていた》として、スミスがすでに気付いていたこととして述べている部分が大谷氏が次に引用している部分(われわれが(2)と番号を打った引用文)なのである。だからそれはスミスがすでに気付いていたこととして、マルクス自身がまとめている文章なのである。われわれはその一文をもう一度引用しておこう。

 《社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。》

 この一文に対して、大谷氏の批判ももう一度並べて書いてみよう。

 〈ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉

 果たして大谷氏はマルクスが述べていることを十分解読していると言えるであろうか。大谷氏は I (v+m)について〈それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではな〉いと述べている。〈それ自体としては〉ということで何を言いたいのかは、先の引用文(1)に対する批判から類推するに、それは「それ自体としては部門 I の商品資本だ」と言いたいのであろう。しかしそんな批判をして批判になっていると思うことが驚きであり、大谷氏がこのマルクスの一文をほとんど理解していないことを反対に暴露しているのではないだろうか。それにそもそもマルクス自身は大谷氏がいうように〈それ自体としては〉などという断りは一言も述べていない。《それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとって》は彼らの《収入をなす》と述べているのである。大谷氏はマルクスが「個別の生産当事者の観点」(これは商品資本の価値部分を再生産の補填関係から見るということである)と「社会的な観点」(これは生産物の使用価値を社会的分業の観点からみるということである)とを使い分けていることに何の関心も示していない。それが大谷氏がこのマルクスの一文を読み誤った原因であろう。マルクス自身はそれに続けて「それらは素材からみるなら」《しかし社会の収入の構成部分をなすものではな》いとも明確に述べているのである。このマルクスの言明を詳細に検討すれば、最初の(1)の引用文と同様に、マルクスは部門 I の総生産物(総商品資本)のうちの一定部分(すなわち I 〔v+m〕)は、その生産の当事者にとっては再生産の観点からみて、どういう役割を与えられたものか、という視点と、それが社会的には、つまり社会全体の分業という観点からみた場合、その生産物の使用価値がどういう役割を担っているか、という二つの観点から問題をみていることが分かるであろう。だからマルクスが言いたいのは、部門 I の商品資本の一定部分、すなわち I (v+m)の価値部分は一方で労働者の収入と資本家の収入に分解するが、しかし他方ではその現物形態は生産手段だから、社会的には資本を構成するのだと述べていることが分かる。つまりスミス自身はそこまで気付いていたのだ、というのがマルクスがここで言いたいことなのである。だからそこに表現上すっきりしないところがあるといえば、いえるかも知れないが、しかしそれはスミスが気付いていたという内容だからであり、スミスの言い回しを使いながらそれを述べているからである。またここで重要なのは、部門 I の総生産物(総商品資本)の価値と素材における補填関係であり、大谷氏が問題にするような、資本の循環における形態転換などはまったく問題になっていないからでもある。だからマルクスはこうした論じ方をしているということが大谷氏にはまったく理解されていないといわざるをえない。

 (以下、この項目は次回に続く。)

2009年11月 4日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その63)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その3)

 この大谷氏が引用している部分は、現行版では第2部第19章「対象についての従来の諸論述」「第2節 アダム・スミス」「1 スミスの一般的観点」に該当する草稿から引用されている。そこでわれわれは大谷氏が引用している部分の草稿そのものをその前後も含めて少し長く紹介してみよう(これは市原健志氏の草稿研究にもとづいて草稿を復元したものである。翻訳文は新日本新書版をベースにしている。エンゲルスの編集によって草稿が書き換えられている部分はそれが分かるように赤字にしてある〔だからエンゲルス版とその部分を比較すれば、エンゲルスがどのようにマルクスの草稿に手を入れているかが分かる〕。【 】で括った部分が大谷氏が引用している部分であるが、全集版をベースにしている大谷氏の訳文とは少し違っている。なお大谷氏の引用部分を最初のものには(1)、あとのものには(2)と番号を便宜的につけてある)。

 1)社会的年生産物の一部は生産手段から構成され,その価値は次のように分割される。--一つの価値部分は、これらの生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない。第二の部分は、労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい。最後に、第三の価値部分は、この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす。
 第一の構成部分、すなわちA・スミスによればこの部門で仕事をする個別諸資本全部の固定資本の再生産された部分は、個別資本家なり社会なりの「純収入から明らかに除外されていて、決してそれの一部をなすことはありえない」。それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない。しかし、
(1)【生産諸手段として存在する社会の年生産物の他の価値諸部分--したがってまた、この生産諸手段総量の可除部分のうちに実存する価値諸部分--は、確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する。しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する--社会のこの年生産物は、その社会に属する個別資本家たちの生産物の総計からなるにすぎないにもかかわらず、そうなのである。これらの価値部分は、たいていはすでにその本性上、生産諸手段として機能しうるだけであって、必要な場合には消費諸手段として機能しうるような部分でさえも、新たな生産の原料または補助材料として役立つように予定されている。しかし、それらの価値部分がこのようなものとして--すなわち資本として--機能するのは、その生産者たちの手中でではなく、その使用者たちの手中でである。すなわち--
 2)、消費諸手段の直接的な生産者たちの手中でである。それらの価値部分〔生産諸手段〕は、第二種部門の資本家たちのために、消費諸手段の生産にさいして消費された資本(この資本が労働力に転換されない限りで、すなわちこの第二種部門の労働者たちの労賃の総額をなすものではない限りで)を補填するのであるが、他方では、この資本、すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する資本は、それはそれで--すなわち社会的立場から見れば--第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす
 もしA・スミスがここまで分析を進めたのであれば、全問題の解決に欠けるところはほんのわずかにすぎなかったであろう。彼は核心に迫っていた。というのは、すでに次のことに気がついていたからである。すなわち一方では
(2)【社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。(全集版451-2頁)

 さて、この草稿の引用文全体をしっかり検討すれば、大谷氏の批判はまったく不当な言い掛かり以上ではないことが分かるであろう。そのために、引用文全体を解読してみよう。

 引用文を正しく理解するためには、この一文が全体としてどういう文脈のなかで書かれているものかを踏まえておく必要がある。まずこの引用文は《ところで、もしA・スミスが、まえには彼が固定資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、そして、こんどは彼が流動資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、彼の頭に浮かんだ思想の諸断片を総括したとしたら、彼は次のような結論に到達したことであろう--》(全集版451頁)という導入文があって、そのあとに続く文である。つまりこの引用文は、スミスが不変資本の存在を「総収入」と「純収入」とを使い分けることによってこっそり導入しようとしていることを暴露したあと、スミスがもっと自分の考えを整理したなら至っていたであろう結論として述べられているものである。マルクスはそれを二つの点にまとめている。
 最初は大谷氏による(1)の引用文が含まれる部分である(マルクスが「1)」と番号を打っている部分)。第一パラグラフでは社会的年生産物の一部は生産手段からなり(すなわち部門 I の生産物であり)、それは三つの価値部分に分割される、すなわち不変資本、可変資本、剰余価値である。しかしマルクスは「不変資本、可変資本、剰余価値」という用語はまだ使わずに、それを、不変資本部分=《生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない》価値部分、可変資本部分=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分と説明している。これはまったく正確な説明であり、大谷氏も文句のつけようがないであろう。特に可変資本部分についての説明に注意して頂きたい。ここには大谷氏が主張するような、どんな曖昧さも不明確さもない。つまりマルクスにはもともとは大谷氏が指摘するような可変資本の概念を不明確に捉えているようなことがないことが、これを見ても分かるのである。
 そしてマルクスはまず最初の構成部分(不変資本部分)を問題にし、そして次は可変資本部分と剰余価値部分の説明に入っている。そして後者の説明の一部を大谷氏は引用しているわけである。第一の構成部分(部門 I の商品資本のうちの不変資本部分)は、《それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない》と説明されている。ここで「固定資本」が鍵かっこに入ってるのは、スミスがいうところの「固定資本」だからである。重要なことはこの場合は各個別資本家にとっても、全社会にとっても同じだと述べていることである。つまり決して収入として機能しないという意味でそうだと述べているのである。つまりどんな意味でも、スミスが主張するような収入には決して分解しない部分だとマルクスは述べているわけである。
 それに対して、次に見ている可変資本部分と剰余価値部分の場合は、個別の生産当事者にとってと、社会にとってとでは違っている、というのが次にマルクスが述べていることなのである。つまり《確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する》と述べているのは、この部分( I 〔v+m〕)は個別の生産当事者にとっては、価値部分としては彼らの消費に充てられる部分だというのである。あくまでも「価値部分」としてマルクスが述べていることは、それまでの敍述から明らかである。ところが大谷氏は、〈第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない〉と批判している。しかしこんな当たり前の批判でマルクスを批判したつもりなのは驚きである。大谷氏は、 I (v+m)が部門 I の〈商品資本の一部であ〉ることをマルクスは知らないとでも主張されるのであろうか。大谷氏がマルクスが商品資本が三つの価値部分に分けられること、そしてそのうちのv+mの価値部分について述べていることをまったく無視している(理解されていない?)。大谷氏にお聞きするが、 「 I (c+v+m)」は何を表していると考えておられるのか。「これは商品資本であり、そのうちのcもvもmもその一部である」、これが大谷氏の説明である。これではcもvもmも何も説明されたことにはならない。これらは直接には決して不変資本、可変資本、剰余価値そのものではない。それらはあくまでも部門 I で生産された商品資本を、再生産の観点から、その価値を構成する諸部分として分けられたものに過ぎないのである。

 (以下、文章の途中ですが、字数の関係で、次回に続きます。)

2009年11月 3日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その62)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その2)

 それは例えば、大谷氏がこうしたマルクスの誤った敍述の典型として〈資本と資本との交換〉を例に上げて次のように述べている場合にも、それは当てはまるのである。

 〈第2部の第1稿でこの不明確さがきわめて明瞭に現われていたのが、すでに見た、「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握である。たとえば、第 I 部門内部での不変資本の相互補填の場合、資本が資本として相互に位置を変換するのではない。どちらの不変資本もその形態を変えるだけであって、位置を変換するのは商品または貨幣である。商品と貨幣の持手変換すなわち商品の売買を通じて、資本の変態と資本の変態とが絡み合うのである。「資本と資本との交換」という表現には、資本循環の形態と商品流通の形態との関連についての混同が纏い付いている。〉(下187頁)

 こうしたマルクス批判も、やはり私には、マルクスにとっては濡れ衣でしかない、と思わざるをえない。というのは、大谷氏はあくまでも貨幣流通による媒介を前提にしてこうしたことを述べているのであるが、しかしマルクスが「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という場合には、貨幣流通を捨象して問題を価値と素材の両面による補填関係として見ているのだからである。それは次のような一文に明瞭に表れている。

 《(3)さて、まず第一に労働者について言えば、素材的にみれば、事柄はあたかも、彼らは各人が自分の生産物のうちで彼のものとなる部分を現物で受け取り、これらの生産物を彼ら相互のあいだで交換しあう、というのと同じことである。つまり、収入と収入との交換である。》(『資本の流通過程』207頁)

 ご覧の通り、マルクスが収入と収入との交換》として述べているのは、あくまでも《素材的にみれば》という限定をつけ、しかも《事柄はあたかも》そうしたことと《同じである》と述べていることが分かる。これは部門で言えば、生活手段の生産部門(第1稿では《資本A》)の労働者について述べているのであるが、つまり素材的に見れば、さまざまな生活手段を生産している労働者たちは、結局、自分たちが生産した生産物(=生活手段、消費者によって収入として消費されることを予定している生産物)を互いに交換して消費するのと同じ結果になると述べているわけである。それがすなわち収入と収入との交換》ということでマルクスが述べている内容なのである。そしてこれは価値と素材の両面による補填関係としてみるなら、まったくその通りである。マルクスは問題を混乱して捉えていないことは、そのすぐあとで、次のようにも述べていることから明らかである。

 《というのは、資本家は商品のうちの労働者が受け取るはずの部分をも売るのであり、したがって労働者たちは生産物のうちの自分たちの分け前をたがいに直接に交換しあうわけではないからである》(同上)

 だから大谷氏にわざわざ指摘してもらわなくても、貨幣流通を考慮すれば、こうした収入と収入との交換》といったことが直接には妥当しなくなることぐらいはマルクスも十分承知の上で述べていることが分かるのである。しかし貨幣流通をとりあえずは捨象して総商品資本を価値と素材における両面からの補填関係として捉えるならば、それは、現実的(リアール)には、《資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換》に、結果としてはなるのだ(それと同じことである)、ということがマルクスが、この言葉で本来は述べていることなのである。それを大谷氏らはマルクスの主張を厳密に検討もせずに、自説の誤った前提--貨幣流通による媒介を捨象して考察することは出来ない、という--を絶対化して、常に貨幣流通による媒介を入れて問題を考えているから、こうしたマルクスの主張を混乱とするだけなのである。自己の誤った前提のもとに、マルクスを批判することこそ、混乱以外の何物でもないであろう。マルクス自身は大谷氏に指摘されなくても、貨幣流通を入れた場合にどうなるかについても、明確に問題を把握して論じているわけである。ただマルクスはそうしたものをいちいちその前提をその都度断って述べていないがために(その限りでは確かにマルクスもそれほど自覚的では無かったと言えるかも知れないが)、ある場合には素材的に問題を見たり、他の場合には貨幣流通を入れて考察しているがために、ある場合にはやや曖昧な表現と思える敍述をしてる場合もあれば、他の場合には正確に問題を論じている場合もあるというように、われわれには見えるだけなのである。私にはそのように思えるのである。

 さて、大谷氏は上記のようなマルクスの〈不明確〉な敍述が、第8稿の1877年3月に書かれた〈第一層〉でも、まだ見られるとして、二つの文を引用し、その不明確さを次のように指摘している。

 〈「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――は、同時に、この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤、そして地代をなしている。」(S. 708.30–35.)
 ここで言う、「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――」、すなわち第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない。
 その少しあとでも、次のように言う。
 「一方では、社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分は、その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしてはいるが、しかし社会の収入の成分をなしてはいないのであり、また、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、この種類の商品資本の個別的所有者すなわちこの投資部面で仕事をする資本家にとっての資本価値をなしてはいるが、それにもかかわらずそれはただ社会的収入の一部分でしかない、ということにスミスは気がついていたのである。」(S. 709.12–19.)
 ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉
(下188頁、傍点は下線に変換してある)

  (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 2日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その61)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その1)

 さて、いよいよ最後の項目である。ここでは大谷氏が〈第2稿の第3章から第8稿の第3篇にかけて、マルクスが決定的な理論的飛躍を成し遂げた〉(下187頁)と評価する問題が論じられている。ここで論じられている問題は、簡単にいうなら、マルクスは当初は“可変資本は労働者の収入になる”というような論じ方をしている点が指摘され、それが第8稿では「自己批判」されているということなのである。大谷氏らの(というのはこうした指摘をするのは大谷氏に留まらず、宮川彰氏や伊藤武氏らも同様の主張を行なっているから)この主張は、確かに部分的には当てはまるところがあるように私には思えたこともあったのである。だから何を隠そう、私自身もそうした理解に以前は半ば賛意を示してもいた。しかし第8稿でマルクスがそれまでの自己の主張を「自己批判」しているとの判断には、やや行き過ぎの感が拭えなかった。というのは、確かにマルクスは第8稿以前の諸草稿のなかで、そうした概念的にやや首をかしげる表現をしていることは確かであるが、しかし同時に同じ文献のなかでも問題を正確に論じている場合も多々見られるからである。だから確かにマルクス自身に問題を十分意識的に整理して論じる姿勢が無かったにしても、マルクス自身が概念的に対象を十分に捉えておらず、混乱していたかに言われると抵抗を感じざるを得ないのである。ましてやマルクスが以前の自身の見解を「自己批判」しているなどという評価には、やはり違和感を禁じえなかった。だからこの問題での大谷氏の主張の批判的検討にはやや微妙なところがあり、問題をとにかく厳密に検討していくしかないと考えている。だから、この部分の検討も、あるいは読者の皆様には、まどろっこしいものと受けとめられるかも知れないが、ご容赦願いたい。というのは、この部分の批判的検討は、ある意味では自分自身が以前支持していた見解に対する、それこそ「自己批判」的検討でもあるからである。しかしとりあえず大谷氏の説明を追って行くことにしよう。

 まず大谷氏は第5-7稿でマルクスが第2部第1篇第1章を何度も書き直した内容について、次のように述べている。

 〈マルクスはその後も、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環、という三つの循環形態が示しているものを正確に叙述する試みを繰り返した。
 そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる。資本の側ではG-W(A) である可変資本の前貸に対応する、労働者の側での労働力商品の変態はW(A)-Gであり、労働力を再生産するための流通W(A)-G-W(Km)の第一の変態である。その第二の変態であるG-W(Km) が労働者の収入の支出である。資本の変態と収入の支出が絡み合うのは、この第二の変態であって、可変資本の前貸であるG-W(A) は直接には収入の支出と絡み合ってはいない。このような関連や絡み合いの正確な把握には、資本の形態としての可変資本の変態の運動と労働者の商品である労働力の変態の運動との明確な区別、労働力商品の第二の変態としての、賃金の支出による消費手段への転化と資本家の側での商品資本の貨幣資本への転化との明確な区別が不可欠である。〉
(下187頁)

 こうした理解が大谷氏によれば、第5-7稿において第1篇第1章を繰り返し練り直すなかで到達したものだというのである。しかしこうした理解にはやはり納得が行かない部分が残るのである。というのは、第1稿の中にも次のように明確に問題を理解しているマルクスがいるからである。

 《他方、可変資本について言えば、それは貨幣の形態で労働者に前貸しされるのであって、労働者は、これと引き換えに彼の労働を引渡すが、その受け取った貨幣で彼は自分の生活手段を買う。労賃は労働の価値に、いなもっと正確に言えば労働能力の価値に等しい、と前提されているのだから、労働者は彼の全賃銀を彼の労働能力の再生産のために、それゆえ必需品の購入に支出する、ということが同時に前提されている。それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出されるのであって、資本家にとってはそれは労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する。》(『資本の流通過程』202頁)

 以前は私もこのマルクスの一文にはやや混乱が見られると受けとめていたのであるが、しかしよくよく吟味してみるとそうではないと思うようになった。ここでマルクスは可変資本は貨幣の形態で労働者に前貸されるということをまず指摘している。これは大谷氏が〈そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる〉などと述べている問題であるが、しかしそんなことはある意味では当たり前のことであり、改めて力説しなければならないことであろうか、との疑問は禁じえない。そして、労賃が労働力の価値の転化形態であることもここでは明確に語られている。しかしこれもまた当然のことであり、ことさら改めて強調しなけれはならないほどのことでもない。そしてそれが収入として生活必需品の購入に支出される。《それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出される》と述べている。この一文が以前には、やや問題があると考えていたのである。しかしよく考えてみると、マルクスは《実際には(レアリーテル)》と限定して述べている。つまりマルクスはこの場合は貨幣を捨象して素材的に問題を見ているのである。というのは、マルクスはその直前(201頁)で《この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する》と前提しているからである(とは言うものの、マルクスはこれ以後においてもこうした前提を無視して、貨幣流通を入れた考察もやってはいるのであるが。ここらあたりはノートということからくる一定の厳密にさに欠けるところがあると言えば言えるかもしれない)。マルクスはここでは「可変資本が、実際には貨幣の形態で労働者に前貸されるが、しかしそれを労働者はすべて生活必需品の購入に支出するのであり、それが前提されているなら、貨幣流通を捨象すれば、全可変資本は実際には(レアリーテル)収入として支出される、つまり生活必需品との補填関係にある」と述べているのである。マルクスがこうした限定のもとに論じているものを(あるいは特に限定しなくても、特定の条件のもとに論じているものを)、大谷氏らは、常に貨幣流通による媒介を前提した上で(というのは大谷氏らは貨幣流通による媒介を捨象した考察の意義そのものを認めていないから--いうまでもなく私はそれは間違っていると考えている)、だから最初からマルクスが想定している条件とは違ったものを想定した上で、マルクスの敍述の不十分さや混乱を指摘しているように思えてならないのである。だからこの場合も、貨幣資本や貨幣流通を捨象して、問題を価値と素材との補填関係として見るなら、すべての可変資本は実際には(レアリテール)、つまり商品資本の価値の構成部分としては、収入に分解するものであり、素材的には、生活手段の生産部門の生産物と補填し合わなければならないと述べているのである。そしてそう理解すればここには何の問題もない。マルクスは同時に《資本家にとってはそれ(=可変資本--引用者)は労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する》とも述べており、可変資本が資本の循環としては、その貨幣形態を脱ぎ捨てて、労働力に転換し、生産資本の形態をとることも明確に述べているわけである。だからこうした敍述を見れば、マルクス自身が問題を混乱して捉えているわけではないことが分かるのである。ただどういう前提のもとに論じているかについて必ずしもその都度マルクスは明確にせずに論じている場合が多いために、ある場合は価値と素材の面だけからその補填関係を論じ、ある場合には貨幣流通の媒介を入れて資本の形態転換の側面から捉えている等々ではないかと思うのである。それを大谷氏らは常に問題を一面的な前提のもとに--つまり貨幣流通による媒介のもとに--捉えようとするがために、そうしたマルクスの敍述に、問題が無区別に整理されずに論じられていると見えるだけであるように思えるのである。

   (この項目は次回に続きます。)

2009年9月17日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その60)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その5[最終回]です。)


 明らかにここでマルクスが《重農学派やA. スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだ》という主張に対置しているのは、一方的購買や一方的販売という事態である。すなわち単純な商品流通ではなく、商品資本の流通においては蓄蔵貨幣もその媒介の必然的契機として入ってくるということである。そしてそれは単純再生産の場合の固定資本の補填においてすでに見たことであるが、《ここ》、つまり蓄積の場合においても同じであり、貨幣を蓄蔵する部門A、A'、等の単なる販売が、現実の蓄積を行なうB、B'等の単なる購買と価値額で一致することが均衡の条件として現われてくることを明らかに示しているのである。
 だからここでは〈個別諸資本の循環の絡み合い〉などを、直接にはまったくマルクスは問題にもしていないことが分かるであろう。そしてこれは当然である。何度もいうが、社会的総資本の運動には〈個別諸資本の循環の絡み合い〉が前提されていることは誰も否定しないし、否定しようがない。しかしそのことは社会的総資本の運動を考察する場合においても、直接に〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を問題にするということとは別問題なのである。マルクスは第2稿第1章で次のように述べている(下線は引用者、下線部分に注目)。

 《個別資本ということで理解されなければならないのは、社会的総資本のうち個別資本家たちの資本として分離され機能している部分である。社会的資本はそのような個別諸資本からなるにすぎず、それゆえ社会的資本の運動は個別諸資本の諸運動の複合体からなるに過ぎない。けれども、この複合体そのものを描くことと、この複合体を構成する孤立的諸運動を描くこととは、別問題である(八柳訳第2稿、MEM研究No.7〔1989.7〕60頁)。

 また現行の第1篇第3章(第6稿)にもつぎのような一文がある(下線は引用者、下線部分に注目)。

 《たとえば、われわれが一国の一年間の総生産物を考察して、その一部分が全ての個別事業の生産資本を補填し他の部分が色々な階級の個人的消費にはいって行く運動を分析するならば、われわれはW'・・W'を、社会的資本の運動形態としても、また社会的資本によって生産される剰余価値または剰余生産物の運動形態としても、考察するのである。社会的資本は個別資本の総計(株式資本も含めて、また政府が生産的賃労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能する限りでは国家資本も含めて)に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、このようなことは決して次のことを排除するものではない。すなわち、この運動は、単純な個別資本の運動としては、同じ運動が社会的資本の総運動の一部分という観点から、したがって社会的資本の他の諸部分の運動との関連の中で考察される場合とは違った諸現象を呈するということ、また、同時にこの運動は、色々な問題、すなわち、個々の個別資本の循環の考察によって解決されるのではなくそのような考察では解決が前提されていなければならないような諸問題を解決すること、これである。》(24巻120-1頁)

 だからわれわれは、どうして大谷氏が第1稿の〈商品と商品との交換〉に対して第8稿では〈個別諸資本の循環の絡み合い〉にマルクスの視点が〈変化〉しているなどと主張されているのか皆目分からないのである。

 もう一つの(2)で大谷氏が指摘する〈変化〉なるものは、結局は、第1稿(あるいは第2稿)では、社会的総資本の再生産過程を、貨幣流通による媒介を考慮に入れて考察する場合に、蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の役割やその運動を考察の対象にしていないが、第8稿ではそれを対象にしているということに過ぎない。確かにこれは事実としてはその通りである。しかしそれは、第1稿では、固定資本の補填も蓄積も貨幣流通による媒介を考慮して考察していないから、そうであるに過ぎないのであって、そのことは第2稿についても同じことが言える。そして第8稿では、ただ、そうしたそれまでの諸草稿では考察の対象になって来なかった問題が考察の対象になっているというだけのことである。しかし蓄蔵貨幣が蓄積や固定資本の補填といった資本の流通の過程でそれを媒介するための必然的な契機として現われてくるというようなことは、すでに第1部でもまた第2部第2章(篇)でも解明済みのことであり、決して第8稿で始めて解明されたというようなものではないのである。第8稿では、それを社会的総資本の再生産の観点から考察しているだけである。ついでにマルクスが第2稿において蓄積のためには蓄蔵貨幣の形成が必然的な一契機として入ってくることを論じている部分を紹介しておこう(これは第3章ではなく、第1章である。すでに指摘したが、第2稿の第3章では「拡大された規模での再生産。蓄積」は論じられなかった)。

 《変化する他のあらゆる事情を捨象するとしても、それにもかかわらず、生産過程が拡大されうる諸比率は、恣意的なものではなく、生産過程の性格に規定されていることを念頭に置かなければならない。すなわち、貨幣に転化された剰余価値は、例え資本化するように予定されていても--資本化によってさまざまな循環の反復が〔行なわれうる〕--、現実に追加資本として機能しうるような大きさにまで、すなわち過程進行中の資本価値の循環に入り込みうるような大きさにまで、蓄積されなければならないことがありうる。このような場合には、剰余価値はしばらく潜在的貨幣資本として、すなわち蓄蔵貨幣形態で存在する。したがって、厳密に言えば、ここでは蓄蔵貨幣の形成は、資本主義的蓄積過程から生じるがそれでもこの過程とは本質的に区別される一契機として、現われる。なぜなら、潜在的貨幣資本の形成によっては、再生産過程そのものは拡大されていないからである》(八柳訳第2稿、MEM研究No.7〔1989.7〕51頁)。

 だからマルクスが第1稿や第2稿でそうした問題を考察していないから、そうした問題が分かっていなかったということには決してならないし、ましてやだから第1稿や第2稿の段階におけるマルクスに〈貨幣ベール観〉〈残滓〉があったのだなどとは決して言えないのである。

 もちろん、マルクス自身にも、第1稿や第2稿では、表現に曖昧さを残すものがあったというならその通りである。そして第8稿ではより厳密に問題が論じられている、等々というようなものはいくらでもあるであろう(例えば上記の引用文中、マルクスは潜在的貨幣資本を「蓄積」すると述べているが、第8稿ではこうした表現は消えて、厳密に「蓄蔵」すると述べている等々)。しかしそのことはマルクスが第1稿や第2稿では〈貨幣ベール観〉を古典派経済学と共有していたなどということには決してならないし、その〈残滓〉があったなどということもできないのである。概念に曖昧さがあったり、問題が十分整理されていなかったということと、古典派経済学的な限界を残していたということとは決して同じではないからである。あくまでもマルクスが、社会的総資本の再生産の過程を、理論的により深く解明していく過程で、問題がより整理され、概念もより厳密化されていったということに過ぎないのである。

2009年9月12日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その59)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その4です。)


 さて、大谷氏はこのように二つの〈変化〉を指摘したあと、次のようにそれをまとめている。

 〈この二つの変化が意味するのは、一言にして言えば、「経済学、ことに重農学派やA・スミス以来の自由貿易学派がやっているような、実際にはただ、商品と商品との転換が行なわれるだけだということを前提すること」(S. 794.39–41)という、古典派経済学に纏い付いていた貨幣ベール観の最終的な払拭であり、第二稿までのマルクスにもなお残っていたその最後の残滓の除去であり、それによるマルクス独自の社会的再生産の理論の最終的仕上げである。〉(下186-7頁)

 しかしこれはマルクスに対する不当な言い掛かりであるとしか言いようがない。大谷氏は何をもって、〈貨幣ベール観〉〈残滓〉が、〈第二稿までのマルクスにもなお残っていた〉と主張されるのであろうか。大谷氏は〈この二つの変化が意味するのは〉と述べている。つまり、これまで考察した〈二つの変化〉からそう結論付けているわけである。だからそれまでの大谷氏の主張をもう一度振り返って整理してみよう。
 まず大谷氏は〈第1稿から第2稿を経て第8稿にいたる過程で、第3章(第3篇)でのマルクスの叙述には、さまざまの点での変遷が見られたが、決定的であるのは、社会的総再生産過程の分析の中心課題の変化〉だと主張され、そして〈社会的総再生産過程の分析の中心課題〉がどのように〈変化〉したかを論じてきた。それを大谷氏は第1稿と第8稿とを比較して、次の二つの〈変化〉であると主張されたわけである。

(1)一つは〈社会的総再生産過程を観察するさいに〉〈第1稿では、……主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていた〉のが、〈第8稿では、……二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった、という変化〉というものであった。
(2)もう一つは〈社会的総再生産過程における貨幣の役割〉を問題にされ、〈第1稿では、……主として素材変換を媒介する流通手段の機能に見てい〉たが、〈第8稿では、……流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能との区別は厳然として貫徹しているだけでなく、再生産過程におけるこの二つの機能を峻別することによってはじめて、単純商品流通とは異なる資本主義的流通過程の独自の諸現象を解明して〉いると主張され、さらに〈再生産過程における貨幣運動〉としても〈第1稿では、……いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では、……流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化〉というものであった。

 しかしすでに検討したように、(1)で述べている問題は、むしろ大谷氏の側の混乱としかいいようがない問題意識である。社会的な総資本の再生産過程において、〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものが直接の対象になりうると考えること自体が間違っているからである。それは前提されているというなら否定はしないが、それ自体が直接の対象にはなりようがないからである。もし大谷氏がそうした〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を直接対象にして社会的総資本の再生産過程を考察できるというならやって貰いたいものである。個別諸資本というのは、それを構成する諸部分すら、循環や回転期間がそれぞれ異なっており、それらは極めて複雑に絡み合っているのである。そうしたものをそのまま前提してそれを対象に科学的な考察ができる筈はないのである。科学的には現実の複雑な錯綜したものをそのまま前提するのではなく、物理学や化学における実験のように、一定の純粋な条件をわれわれの抽象力によって前提して考察する以外にやりようがないのである。そして社会的総資本の再生産においては、マルクスはすべての資本が年一回転する(流通期間はゼロ)という条件のもとに考察している。だから社会的には大きくは第 I 部門と第II部門、すなわち生産手段の生産部門と消費手段の生産部門が前提され、第 I 部門には、さらに消費手段の生産のための生産手段を生産する部門と生産手段の生産のための生産手段を生産する部門が、第II部門には、必要消費手段の生産部門と奢侈品を生産する部門にそれぞれ分けられているが、しかしそれらはまだ決して〈個別諸資本〉などは決してない。それは大部門に対して、中部門を構成するだけである。それ以上のより詳細な生産部門の区別はマルクス自身は考察していない(ましてや〈個別諸資本〉など問題にもしていない)。そしてそれぞれの生産部門間のそれぞれの商品資本の価値構成の諸部分が如何に補填し合うかを考察しているのであって、ここには〈個別諸資本の循環〉など出てくることはないし、ましてそれらの〈絡み合い〉もまったく出てくる余地はないのである。そしてこれ以外にわれわれは社会的な総資本の再生産過程を科学的に考察する方法を知らないのである。いやそうではない、社会的総資本の再生産の考察においても〈個別諸資本の循環の絡み合い〉が考察されなければならないと、大谷氏がいうのであれば、何度もいうが、是非、その見本を見せて貰いたいものである。そしてマルクスが第8稿でそうした考察を行なっているというのであれば、マルクスのそうした文章をお示し頂きたい。大谷氏はマルクスは第8稿で〈個別諸資本の循環の絡み合い〉という視点を新たに据えていると言いながら、何一つ具体的にマルクス自身の文章を示していないからである。

 大谷氏が〈第8稿では、……二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉ということに対置されているのは、〈第1稿では、……主として、再生産の諸要素のあいだの交換、したがって結局は、商品と商品との交換に目を向けていた〉ということである。この後者の〈商品と商品との交換〉というのは、最初に大谷氏がマルクスから引用した文章の中にある言葉である。果たしてマルクスは、大谷氏が引用した文章において、この〈商品と商品との交換〉に対して、何を対置しているのか、本当に〈個別諸資本の循環の絡み合い〉を対置しているのかをわれわれは検証してみよう。まずそれが分かるように、マルクスの文章を大谷氏が引用してる前後を含めて少し長く引用してみよう(大谷氏が引用した部分を赤字で示す)。

 《ついでに,ここでふたたび,次のことを述べておこう。以前(単純再生産の考察のところで)と同様に,ここでふたたびわれわれは次のことを見いだす。年間生産物のさまざまな構成部分の転換,すなわちそれらの流通{これは同時に,資本の構成部分の回復――単純な規模での,または拡大された規模での資本の再生産,しかもさまざまな規定性における資本(不変資本,可変資本,固定資本,流動資本,貨幣資本,商品資本)の再生産――でなければならない}は,われわれが1)〔単純再生産〕のところで,たとえば固定資本の再生産のところで見たのとまったく同様に,けっして,あとから行なわれる販売によって補われるたんなる商品購買,またはあとから行なわれる購買によって補われるたんなる販売を前提していない。したがって,経済学,ことに重農学派やA. スミス以来の自由貿易学派が前提しているような,実際にはただ商品対商品の転換が行なわれるだけだということを前提してはいないのである。単純再生産のところで見たように,たとえば不変資本IIcの固定諸成分の周期的更新{――(その総資本価値は (v+m)( I ) の諸要素に転換される),それは,固定資本の最初の出現〔と更新〕との中間期間には,つまりその機能期間の全体にわたって,まだ更新されないで以前の形態のままで働き続けるが,他方ではそれの価値がだんだん貨幣として沈澱していく――}は,cIIのうち貨幣形態から現物形態に再転化する固定部分のたんなる購買を前提するが,この購買にはm( I ) のたんなる販売が対応する。他方ではそれは,cIIのたんなる販売(すなわちcIIのうち貨幣として沈澱する固定価値部分の販売)を前提するが,この販売にはm(I) のたんなる購買が対応する。この場合に転換が正常に行なわれるためには,たんなる購買(cIIの側からの)が価値の大きさから見てたんなる販売(cIIの側からの)に等しいということ,また同様に,m( I ) からcIIのA)へのたんなる販売がcIIのB)からのm( I ) のたんなる購買に等しいということが前提される。〔/〕同様にここでは,m( I ) のうちの貨幣蓄蔵部分であるA,A' のたんなる購買(「販売」の誤記?--引用者)が,m I のうちの,蓄蔵貨幣を追加生産資本の諸要素に転化させる部分であるB,B',等々と均衡を保っている,ということが前提される。》(草稿51、大谷訳上48-9頁、〔/〕は引用者が付けた)

 実はこの引用文に続く文章は、われわれが先に(1)(2)と便宜的に番号を打って紹介した文章なのである。
 この引用文では、前後の関連が分かりにくいので注意が必要なのは、マルクスは単純再生産のときに考察した固定資本の補填のケースについて論じているのであるが、それはあくまでも蓄積に関連させて論じているということである。だから最初の部分(大谷氏が引用した部分まで)と、〔/〕以下の部分とは蓄積について述べているということである。すなわち、最初に2回出てくる《ここでふたたび》と、〔/〕以下で出てくる《同様にここでは》の、《ここ》とは、同じ内容であり、それまで考察してきている部門 I における不変資本の蓄積の場合のことである。それに気をつけて、この文章を検討して頂きたい。

 (この引用文の検討は、字数オーバーになるために、次回でやります。)

2009年9月10日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その58)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その3です。)


 次に大谷氏が〈中心課題のこの変遷のなかに、二つの点での大きな変化を見る〉としている二つ目というのは、次のようなものである。

 〈第二に、第1稿では、社会的総再生産過程における貨幣の役割を主として素材変換を媒介する流通手段の機能に見ていて、再生産過程における貨幣運動は、いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では、社会的総再生産過程においても、流通手段としての貨幣の機能と蓄蔵貨幣の形態にある貨幣の機能との区別は厳然として貫徹しているだけでなく、再生産過程におけるこの二つの機能を峻別することによってはじめて、単純商品流通とは異なる資本主義的流通過程の独自の諸現象を解明しており、再生産過程における貨幣運動については、流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化である。こうした変化が、まず貨幣流通を捨象し、次にそれを導入して叙述するという二段構えの叙述方法を放棄したことと深く結びついていたことは、ここで再説するまでもないであろう。〉(下186頁)

 第1稿では資本の流通過程の契機として蓄蔵貨幣の役割を見ていなかったというのであるが、しかし固定資本の補填や蓄積を貨幣流通を媒介にして考察しない限り、それが問題にならないのは当然ではないだろうか。それらが第8稿では考察の対象になったというに過ぎないのである。しかしだからと言って、蓄積や固定資本の補填において蓄蔵貨幣が資本の流通において必然的な契機として入ってくるということが第8稿で初めて解明されたかに考えるのはまったく間違っている。まず蓄積についていうなら、すでに見たように、第8稿の《蓄積または拡大された規模での生産》と題された最初の部分、すなわち第1、第2パラグラフで個別資本を例に論じたときに、《第1部では、蓄積が個々の資本については次のように現われる》と述べていたように、こうした問題はすでに「第1部 資本の生産過程」で、すでに個別資本の観点から明らかにされていたことなのである。だから蓄積のためにはそれに先立って一定の必要な額になるまで貨幣蓄蔵が必要となるということは第一部で解明済みである。だから資本の流通過程で蓄蔵貨幣の形成が必然的にその契機に入ってくるというようなことは自明のことだったのである。また固定資本の補填についても、すでに第2部第2篇の「固定資本の回転」を論じたときに、それは指摘されていたことである(これは第2稿ではあるが)。固定資本を流動資本と区別するのは、まさにその価値の移転の相違によるのであって、だから固定資本はその部分的な磨滅とともに、その磨滅分が蓄蔵貨幣の形態で堆積され、そして完全に磨滅した時点で、その堆積され終わった蓄蔵貨幣で、固定資本全体が更新されるといったことはすでに考察済みのことなのである。このことは、例えば次のような一文をみれば、明瞭である。

 《われわれがこれらのことを、ただ単純な貨幣流通だけを前提して、もっと後ではじめて展開される信用制度を少しも顧慮することなしに、考察するならば、運動の機構は次のようなものである。第一部(第三章第三節a)で明らかにしたように、ある社会に現存する貨幣の一部分はいつでも蓄蔵貨幣として遊休しており、他の部分は流通手段として、または直接に流通している貨幣の直接的準備金として機能しているとしても、貨幣の総量が蓄蔵貨幣と流通手段とに分かれる割合は絶えず変動する。われわれの場合には、ある大きな資本家の手の中に蓄蔵貨幣として大量にたまっているはずの貨幣が、いま固定資本の購入にさいして一度に流通に投げ込まれる。それはそれ自身また社会の中で再び流通手段と蓄蔵貨幣として分けられる。固定資本の損耗の程度に応じてその価値は償却基金という形で出発点に還流するのであるが、この償却基金によって、流通貨幣の一部分は、前に固定資本を購入したときに自分の蓄蔵貨幣を流通手段に転化させて手放したその同じ資本家の手の中で、再び--長短の期間--蓄蔵貨幣を形成する。それは、社会に存在する蓄蔵貨幣の絶えず変動する分割であって、この蓄蔵貨幣は交互に流通手段として機能してはまた再び蓄蔵貨幣として流通貨幣量から分離されるのである。大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行する信用制度の発展につれて、この貨幣は蓄蔵貨幣としてではなく資本として機能するのであるが、しかしその所有者の手の中でではなく、その利用をまかされた別の資本家たちの手の中で機能するのである。》(第2部全集版222頁)

 だから第8稿であらためて、社会的総資本の再生産の観点から、そうしたことが論じられたからと言って、そうしたことが第8稿で初めて解明されたかに考えるのは間違いである。第8稿では、そうした問題が社会的な年間再生産の過程として貨幣流通を媒介にして考察されているだけなのである。

 そして大谷氏は問題が〈貨幣運動〉であるかに述べているのは、如何なものであろうか。例えば第1稿では〈いわゆる「貨幣還流法則」――すなわち流通手段の前貸と還流の法則――とそのバリエーションでしかなかったのにたいして、第8稿では……再生産過程における貨幣運動については、流通手段の前貸と還流の運動とは明確に区別されるべき、一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出している、という変化である〉と述べている。しかし第8稿でマルクスが考察の対象にしているのは、大谷氏が指摘するような〈貨幣運動〉といったものではない。例えば次の一文を検討してみよう。

 (1)購買のあとに販売が,また販売のあとに購買が同じ価値額で続いて行なわれるということによって均衡がつくりだされるかぎりでは,購買のさいに貨幣を前貸した側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる。しかし,商品転換そのもの――年間生産物のさまざまな部分のそれ――にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とするのである。
 
(2)しかし,たんに一方的な諸変態,すなわち一方では大量のたんなる購買,他方では大量のたんなる販売が行なわれるかぎり――そしてすでに見たように資本主義的な基礎の上での年間生産物の正常な転換はこれらの一方的な変態を必然的にする――,均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない。商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだすのであるが,均衡は――この生産の形成は自然発生的であるので――それ自身一つの偶然だから,それらの条件はそっくりそのまま,不正常な経過の諸条件に,恐慌の諸可能性に一転するのである。》(草稿51頁、大谷訳上48-49頁、(1)、(2)は引用者が便宜的に付けた)

 ここでマルクスが述べていることは、まさに大谷氏が第1稿と第8稿の〈変化〉として論じている内容と同じものが明らかにされている。(1)の内容は大谷氏が第1稿でマルクスが主に考察していると述べているものであり、(2)の内容はマルクスが第8稿で論じているものだとしていることである。しかしいずれもマルクスが問題にしているのは、「均衡の条件」である。確かに(1)では、購買のさいに貨幣を前貸した側への,ふたたび買うまえにまず売ったほうの側への貨幣の還流が行なわれる》「貨幣の還流法則」についても言及しているが、しかしマルクスが主として論じていることは、商品転換そのもの――年間生産物のさまざまな部分のそれ――にかんする現実の均衡は,互いに転換される諸商品の価値額が等しいということを条件とする》ということである。
 ましてや(2)では貨幣運動など問題にもなっていない。ここでも問題なのは、《均衡はただ,一方的な購買の価値額と一方的な販売の価値額とが一致することが前提されている場合にしか存在しない》という「均衡の条件」なのである。そしてこれこそ商品生産が資本主義的生産の一般的形態だということは,貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本として資本主義的生産において演じる役割を含んでいるのであり,またそのことは,単純な規模のであれ拡大された規模のであれ再生産の正常な転換の,正常な経過の,この生産様式に特有な一定の諸条件を生みだす》とマルクスが述べていることの本当の内容なのである(なぜこういうことを強調するかというと、第8稿では、貨幣は流通手段としてだけではなく、貨幣資本としても捉えられていることを強調する人たちは、実際には、その内容について、つまり貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本としても捉えられる必要があるということでマルクスが実際には何をいわんとしているのかということについて、あまりにも曖昧であり、だからとんでもないことまで言い出しているからである。例えば社会的総資本の再生産過程を商品資本の循環として捉えるだけでは不十分で、貨幣資本の循環としても捉える必要がある、などという大谷氏の主張などはその典型である!)。だから問題は〈一方的販売および一方的購買による、蓄蔵貨幣から流通手段へ、流通手段から蓄蔵貨幣へという反対方向への二つの貨幣運動を明確に摘出〉することなどにあるのではないのである。
 そしてこれはもはや言うまでもない事であるが、ここで大谷氏が、氏が言うところの〈中心課題の変化〉〈まず貨幣流通を捨象し、次にそれを導入して叙述するという二段構えの叙述方法を放棄したことと深く結びついていた〉などと述べていることもまったく正しくないことは、すでにこれまで述べてきたことからも、十二分に論証されていると思う。

 (この項目は、次回に続きます。)

2009年9月 9日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その57)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


 (以下は、項目●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?の続きであり、その2です。)


 さらに問題なのは、大谷氏が〈第8稿では、二つの部門にまとめられた個別諸資本が、諸要素の転換運動に媒介されて経ていく価値増殖と価値実現の運動に、したがって結局は、二つの部門にまとめられた個別諸資本の循環の絡み合いに目を向けるようになった〉などと述べていることである。先に引用した文章のなかでも、〈社会的総再生産過程における個別諸資本の循環の相互の絡み合いを明らかに〉しているという文言があったが、こうした理解はまったく納得がいかない。どうして〈個別諸資本の循環の絡み合い〉なのか。そんなことを第8稿のどこでマルクスは論じているというのであろうか、まったくもって不可解である。われわれが知っているのは、マルクスが《蓄積または拡大された規模での生産》と題した草稿の最初のあたりで、個々の資本家にとって現われた現実の蓄積は、年間再生産においても現われざるをえないと述べて、われわれがこれから対象にするのは《年間再生産》であり《年間の社会的再生産》であると述べていたことである。確かに《年間の社会的再生産》には個別諸資本の運動が含まれていること、あるいは〈個別諸資本の循環〉〈絡み合〉って存在していることが前提されているというならそうである。しかしそのことは年間の社会的再生産においては、直接には考察の対象としては現われないのである。それはただ前提されているだけである。そればかりかマルクスは社会的総再生産の過程をすべての資本が年1回転すると仮定して考察している。つまり個別諸資本がすべて年1回転するということは、流通期間をゼロとするなら、結局、すべての資本が周期を同じくして年1回転することを意味するのであり、だから個別諸資本の循環の絡み合いと言っても、そこには自ずから制限があることは最初から明らかなのである。個々別々の諸資本がそれぞれ異なった周期や循環期間を異にして絡み合っているような実際の社会的総資本の再生産過程をそのまま直接前提しては科学的な考察は不可能だからである。もしマルクスが第8稿では〈個別諸資本の循環の絡み合いに目を向ける〉ようになったというなら、具体的にマルクス自身の敍述を引き合いに出してそれを説明すべきであろう。

 確かに、マルクスは第8稿では、次のような〈絡み合い〉については論じている。

 《労働者階級 I によって労働力がたえず販売されるということ,〔 I の〕可変資本部分が彼らの商品資本の一部分から貨幣資本へと回復されること彼ら〔II〕の不変資本の一部分が彼らの商品資本の一部分から彼らの不変資本の自然形態へと補填されること,--これらは互いに条件となり合っているが,しかし非常に複雑な過程によって媒介されるのであって,この過程は実際には次の3つの互いにからみ合いながら互いに独立に進行する流通過程を含んでいるのである。
 1)労働者( I )の側ではA-G(=W-G),資本家 I への彼らの労働力の販売。G-W(II)(資本家IIの諸商品の購買。したがって,A-G( I )…G-W(II)。結果--(労働力)を維持し,それをふたたび商品として《労働》市場( I )で〔売ることができる〕。
 2)資本家II)の側ではW-G(労働者 I への彼らの商品の販売)…G-W(資本家 I の諸商品(v I )の購買)。結果--彼らの不変資本の一部分の,現物形態への回復
 3)資本家 I )の側ではG-A(労働力 I の購買)-W-G資本家IIへの彼らの商品の一部分の,すなわち労働者 I によって新たに創造された(v+m) I のうちのv部分の販売)。結果--彼らの可変資本価値の,商品資本( I )の価値部分から可変貨幣資本としての回復
 過程そのもののもつこの複雑さが,そっくりそのまま,不正常な経過にきっかけを与えるものとなるのである。》
(大谷訳上51-2頁)

 この部分はエンゲルスが編集の段階で削除した部分であるが(エンゲルスはこの部分の敍述が必ずしも拡大再生産に固有の問題ではないと考えて削除したのかも知れないが)、しかし非常に重要なことを論じていることは確かである。だがここでマルクスが述べていることは決して〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものではない。まずどこにも〈個別諸資本〉などでて来ない。ここでマルクスが述べているのは次のようなことである。まずマルクスは、このパラグラフの一つ前のパラグラフで、一方的販売による貨幣蓄蔵と一方的購買による蓄蔵貨幣の現実の蓄積のための投資とが、価値量において釣り合わなければならないが、しかしそれは資本主義的生産においてはまったく偶然的であり、だからそれらは恐慌の諸可能性に転化すると述べていた。そしてこのパラグラフでは、一方的販売や一方的購買という点では、こうした過程においてもまったく同じことが言えるとマルクスは指摘しているのである。例えば労働者 I は常に資本家 I に彼らの労働力をただ一方的に販売するだけで、販売の見返りに資本家 I からその生産物を購入するわけではないこと、労働者 I は、資本家IIから一方的に生活手段を購買するだけで、彼らに労働力を売るわけではないこと、逆に資本家IIは労働者 I に一方的に生活手段を販売するだけであること、資本家 I は資本家IIに可変資本部分(生産手段)を一方的に販売するが、資本家IIから必要生活手段を購入するわけではないこと、等々。つまりこれらの過程はすべて一方的であり、相互に独立した流通過程であるが、にもかかわらずそれらは社会的には、偶然的な諸運動を通じて、量的に釣り合う必要があるのである。だからこそ、こうした過程の複雑さは、そのまま不正常な経過にきっかけを与えるのだということなのである。どこにも〈個別諸資本〉などでて来ないし、また〈個別諸資本の循環の絡み合い〉といったものが問題になっているわけではない。ここで問題になっているのは、やはり社会の総商品資本と労働力とが貨幣流通を媒介して相互に転換し合い補填し合う過程での〈絡み合い〉なのである(もちろん、ここで対象になっているのはそのすべてではなく、その一部分なのではあるが)。

 (この項目は次回に続きます。)

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