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「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討

2018年3月21日 (水)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(4)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(4)

◎ 7.二段構えの叙述方法という旧来の枠組みの制約とそれの突破

 次のように大谷氏は述べている。

 〈このような,新たな認識とそれを表現する枠組みとのずれが,もっと鮮明に読みとれるのが,さきに触れた,『1861-1863年草稿』にすでに萌芽があり,第1稿で第3章の叙述方法として採用することを決め,第2稿第3章で実際に枠組みとして使われた,社会的総再生産過程の二段構えの叙述方法と,マルクスが第3章で叙述しなければならないと考えていた内容とのずれである。〉 (23頁、下線は大谷氏による強調)

 このように大谷氏は、再生産過程の考察は貨幣流通の媒介なしにはできないという、自分の勝手な思いつき(もちろん、これはエンゲルスに影響されたものであるが)を、あたかも〈マルクスが第3章で叙述しなければならないと考えていた内容〉だと強弁するのである。ではその論証を検討してみよう。

 まず大谷氏は〈社会的総再生産の過程は,生産手段生産部門(第I部門)と消費手段生産部門(第Ⅱ部門)との二部門に総括して考察する場合には,この両部門のそれぞれにおける,商品資本の循環,労働者の労働力の変態,資本家の剰余価値の変態という,六つの自立的な循環ないし変態が,商品の売買,すなわち商品と貨幣との位置変換によって絡み合うことによって進行する〉(23頁)ものであり、ここで貨幣流通による媒介を捨象するということは、〈社会的総再生産過程における商品の販売および購買をすべて商品と商品との交換に還元する, ということである〉(同)という。
  しかしここにすでに問題の歪曲がある。確かに貨幣流通による媒介を捨象するということはG-W-GをW-Wに還元することであるが、これは単に社会的総再生産過程を商品と商品の交換に還元するということだけではない。そうではなく、社会的総再生産過程を商品資本相互(W'-W')の補填関係に還元してみるということである。

  社会的総再生産過程を考察するということはどういうことであろうか。社会全体が年々その生産によって維持され再生産されている過程の内在的な関係や諸法則をみるということである。われわれが対象とする資本主義社会というのは、とりあえず労働者と資本家という二種類の人間がその構成員として存在している。その彼らがその生活を維持しこの社会を作っている。彼らが生活を維持するには、彼らが毎年必要とする消費手段が生産され、それが消費されて、この社会は維持されているわけである。しかし彼らの消費手段を生産するためには、同時に毎年その消費手段を生産するに必要な生産手段が生産的に消費されている。だから社会は毎年、労働者と資本が消費する消費手段だけではなく、その消費手段を生産するに必要な生産手段も常に再生産する必要がある。さらにそれだけではなく、その生産手段を生産する過程でも、やはりその生産に固有の生産手段が生産的に消費されるわけだから、社会は毎年、生産的に消費される生産手段のための生産手段もやはり再生産する必要がある。こうして始めて社会を構成する構成員の生活は維持され再生産されて、彼らの社会的関係もまた維持され再生産されているわけである。
  こうしたなかでとりあえず貨幣流通による媒介を捨象するというマルクスの意図は、まずはこの資本主義的な総再生産過程の基礎にある物質的な素材的な関係をみようということなのである。これはあらゆる社会がその基礎にもっているような関係である。資本主義的な総再生産過程をその素材的側面でみると、この社会は社会が必要とするさまざまな使用価値を生産している。それらの使用価値は一つは社会の構成員が個人的に消費する消費手段であり、もう一つはそうした消費手段を生産するに必要な生産手段であり、さらには生産手段のための生産手段とに大別できる。それらはその使用価値によってそれぞれ社会的な関連をもっている。例えば綿花は綿糸の原材料となり、綿糸は綿布の原材料となっている等々。綿布で作られた衣服はそれらの工場で働く人たちの服にもなる、等々。つまり社会が生産するさまざまな使用価値は、それを作る労働の社会的な分業の体系を表しているのである。社会のさまざまな労働はその有用的な属性によって社会的に結びついているが、しかし資本主義社会では、その社会的な結びつきは直接的なものではない。そうではなく、それらの労働は個々別々に私的な目的と意図のもとになされているだけである。だからそれらの労働を社会的に結びつけるためには、それらの労働の生産物を商品として互いに交換し合わなければならない。商品の使用価値は、それらの労働の社会分業の環を示しており、価値はその生産に支出された労働が社会に必要な形で支出されていることを示している。価値法則というのは、こうした社会を維持するに必要な労働が社会的に本来的に結びついて支出されるべきことが一つの客観的な自然法則として、社会の中に貫いている(これは将来の社会主義社会でも同じである)ことの商品社会に固有の現れなのである。
  資本主義的な総再生産過程を貨幣流通の媒介なしに考察するということは、年間の社会の総生産物が、社会的にどのように必要なところに配分され、補填しあっているかを見ることである。社会の総生産物は、資本主義社会では総商品資本として存在している。だから総再生産過程の貨幣流通の媒介なしの考察というのは、社会の総商品資本がその使用価値と価値にもとづいて、相互にどのような補填関係にあるかを見ることなのである。
   こうした考察がなぜ必要なのは、明らかである。それはあらゆる社会がその基礎においてなされなければならない社会的な総再生産に内在的に貫いている法則をみることだからである。それを資本主義社会は、資本家的商品の生産とその流通によって行っているわけである。だから資本主義に固有の問題は、当然、貨幣流通の媒介なしには問題にはならない。しかし資本主義的生産に固有の形態規定性は、すでに第1章(篇)、第2章(篇)においても考察してきたのである。しかし資本の循環を考察した第1章(篇)や資本の回転を考察した第2章(篇)では、問題になるのは個別の資本の運動だけであった。それに対して第3章(篇)は、商品資本の循環の形式を通して、社会的な総資本の運動が問題になるのである。そこではあらゆる社会が共通にもつ物質代謝の過程が、資本家的な商品経済という形式によって現実化されている。だからこそ第3章(篇)では、社会の総再生産を規定するもっとも基礎的な関係を、まずはそれらを媒介する貨幣や貨幣資本を捨象して考察し、そしてその後にそれらの媒介を入れて考察して、資本主義に固有の諸関係とそこに内在する諸矛盾を論じるという二段構えの考察をしようというのがマルクスの意図なのである。マルクスは第2稿で次のように述べている。

 〈直接にわれわれの目前に提示されている問題は、次のことである:すなわち、いかに,して生産過程で消費された資本が、--その価値および素材にしたがって--年生産物のなかから補填されるのか、また、この補填の運動が、資本家による剰余価値の消費および労働者による賃金の消費と、どのようにからみあっているのか?〉 (142原頁、MEGA②Ⅱ/11,S.369)
 〈最後に、問題をもっとも単純な諸条件に戻すために、さし当たり、貨幣流通から、したがって資本の貨幣形態からも、まったく切り離す必要がある。流通する貨幣量は、明らかに、それが流通させる社会的生産物の価値のいかなる部分をも形成しない。したがって、もし総生産物の価値がどのように不変価値等々に分割されるのかが問題となるならば、この問いそのものが、貨幣流通には関係がない。問題を貨幣流通への顧慮ぬきに取り上げた後にはじめて、現象が貨幣流通に媒介されたものとしてどのように現れるかが考察されるべきである。〉 (同原頁、MEGA②Ⅱ/11,S.369))

 こうしたわけで第3章(篇)のタイトルは「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」となっているのである。大谷氏はこうしたマルクスの意図をまったく理解できず、勝手な憶測をドグマにまでしてしまっているのである。

 マルクスがこうした資本主義的生産の基礎にあるものと資本主義に固有のものを区別して論じていることを示すもう一つの例を紹介しておこう。マルクスは現行版の第3篇「社会的総資本の再生産と流通」の第18章「緒論」の第2節「貨幣資本の役割」のなかで回転期間の長短が生産資本を動かすために必要な貨幣資本の量の大小を規定することを指摘しながら、次のように「社会的生産」と「資本主義的生産」を対比した考察を行っている。

 〈社会的生産の基礎の上では、このような、かなり長い期間にわたって労働力や生産手段を引きあげながらそのあいだ有用効果としての生産物を供給しない作業が、定められた基準に従って、年じゅう連続的または反復的に労働力や生産手段を引きあげるだけではなくまた生活手段や生産手段を供給しもする生産部門を害しないで遂行できるようにされなければならない。社会的生産の場合にも、資本主義的生産の場合と同様に、労働期間の比較的短い事業部門の労働者が生産物を返さずに生産物を引きあげている期間はやはり短いであろうし、他方、労働期間の長い事業部門は生産物を返す前にかなり長い期間にわたって引き続き生産物を引きあげているであろう。だから、このような事情は、その労働過程の物的な諸条件から生ずるのであって、その労働過程の社会的形態から生ずるのではない。社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に配分する。生産者たちは、たとえば指定券を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指定券は貨幣ではない。それは流通しはしないのである。〉 (全集第24巻437-438頁)

 このようにここでマルクスが「社会的生産」と述べているのは、明らかに将来の社会主義的生産のことであろう。そしてその社会では貨幣資本はなくなると述べ、しかし労働過程という物質的な条件から生じる事態は、資本主義的生産と同じだと述べているのである。ただ資本主義的生産における貨幣資本の存在は、貨幣市場の攪乱等を引き起こすし、よってまた再生産過程の攪乱をももたらすわけである。
  大谷氏が資本主義的な社会的総再生産過程は、貨幣流通の媒介なしに考察することはできないと結論するなら、資本主義的生産の基礎にある社会的な素材的な関係を見ることを拒否することである。それは資本主義的生産において、それに固有の矛盾と攪乱を繰り返しながらも急速に発展して将来の社会の物質的諸条件を形成している本質的な関係をもみることを拒否することでもあるのである。それは当然、同時に資本主義に固有の問題や矛盾をそれ自体として見ることができないことでもある。こんな一面的な理解にどうして到達してしまったのか、実に残念でならないのである。

  もうすでに結論めいたことを書いてしまったのであるが、とりあえず、大谷氏の論証なるものの検討を続けよう。大谷氏はまず次のように書いている。

 〈そこで,社会的総再生産過程での六つの自立的な循環ないし変態が,すべて,等価値量の商品と商品との交換によって絡み合い,進行するのだと考えてみよう。〉 (23頁)

  ここで〈社会的総再生産過程での六つの自立的な循環ないし変態〉というのは、〈社会的総再生産の過程は,生産手段生産部門(第I部門)と消費手段生産部門(第Ⅱ部門)との二部門に総括して考察する場合には,この両部門のそれぞれにおける,商品資本の循環,労働者の労働力の変態,資本家の剰余価値の変態という,六つの自立的な循環ないし変態が,商品の売買,すなわち商品と貨幣との位置変換によって絡み合うことによって進行する〉(同頁)というものである。 そしてそれを〈すべて,等価値量の商品と商品との交換によって絡み合い,進行するのだと考えてみよう〉というのである。しかしすでに述べたように、こうした問題提起自体にすでに問題を含んでいるのである。大谷氏には、こうした〈六つの自立的な循環ないし変態〉の背後にある素材的な関係、あるいは商品資本の使用価値と価値との両面からの補填関係を見るという視点が欠落しているのである。だからそれをただ単に〈等価値量の商品と商品との交換〉という問題に一面的に還元するのである。そして次のように問題点を指摘する。

 〈その場合,第I部門の内部での,不変資本価値を担う商品どうしの交換,第Ⅱ部門の内部での,可変資本価値を担う消費手段と労働力商品との交換,および,剰余価値を担う商品どうしのあいだでの交換,以上の三つの交換については,流通手段としての貨幣の媒介を度外視して考察できることは確かである。また,第I部門の資本家と第Ⅱ部門の資本家とのあいだで行なわれる交換,すなわち前者のもとで生産手段の形態にある剰余価値と後者のもとで消費手段の形態にある不変資本との交換でも,流通手段としての貨幣を度外視しても理解することができる。以上のすべての交換では,流通手段による媒介は,つねに双方向的に進行する販売および購買なのだから,この媒介を捨象すれば,等価値量の商品と商品との交換が残るのだからである。
  ところが,第Ⅱ部門の商品資本のうちの不変資本価値を表わす部分が生産手段に転態し,第I部門の商品資本のうちの可変資本価値を表わす部分が労働力に転態し,そして,第I部門の労働者の労働力商品が彼らの消費すべき消費手段に転態する,という三つの転態については,事情はまったく異なっている。これらが貨幣流通によって媒介されるさいには,そこで行なわれる販売および購買はいずれも,買い手にとつての一方的購買,売り手にとっての一方的販売であって,媒介する流通手段を捨象すれば,そこに残るのは,第I部門の資本家から第Ⅱ部門の資本家への生産手段の一方的移転,第I部門の労働者から同じ第I部門の資本家への労働力の一方的移転,第Ⅱ部門の資本家から第I部門の労働者への消費手段の一方的移転,という商品の三つの一方的移転であつて,等価値量の商品どおしの交換ではない。〉
(23-24頁)

   しかしおかしな話ではないか。一つだけ例を取り上げてみよう。大谷氏は〈不変資本価値を担う商品どうしの交換〉では〈流通手段としての貨幣の媒介を度外視して考察できる〉という、そしてその理由は〈以上のすべての交換では,流通手段による媒介は,つねに双方向的に進行する販売および購買なのだから,この媒介を捨象すれば,等価値量の商品と商品との交換が残るのだから〉というのである。ところが部門Ⅰの可変資本部分と部門IIの不変資本部分との関係では、そうでなく、そこでは一方的販売と一方的購買の関係が生じるから、だから貨幣流通による媒介を捨象できないのだというのである。
  しかしわれわれが先に上げた例を使ってここでも具体的に考えてみよう。綿花製造業者は、綿糸製造業者に綿花を販売するが、彼らはその代わりに綿糸を綿糸製造業者から買うわけではない。彼らはただ一方的に販売するだけである。同じく綿糸製造業者も、やはり綿糸を綿布製造業者に一方的に販売する、等々。これらは商品流通にある意味では一般的なことである。そもそも商品流通そのものが決して〈双方向的に進行する販売および購買〉ではないのである。彼らのほとんどは売る相手と買う相手とは違っているのである。もし一方的販売と一方的購買の関係にあるから、〈等価値量の商品どおしの交換ではない〉などと言えば、商品流通そのものが等価値量の商品どうしの交換関係ではないと主張することになる。しかしわれわれの想定では、綿花製造業者は綿花を売って、そのお金で一つは綿花栽培に必要な肥料や農耕機械の補填等をまかない、雇用者の賃金を支払い、彼らの生活に必要なものを買うのであるが、しかし彼が販売した綿花の価値と、彼が買う生産諸手段と労働力、生活諸手段のそれぞれの価値の合計とが、等量であることは明らかである。彼らは一方的販売と一方的購買を行うが、しかし彼らが一方的に販売する商品と、彼らが一方的に買う商品とは等価値量である。こんなことは商品流通を想定するなら当然のことではないか。
  部門Ⅰの労働者が部門Ⅰの資本家に販売する彼らの労働力の価値は、部門IIの資本家から買う生活手段の価値とは等しい。確かに彼らの販売する相手と彼らが購買する相手とは違っているが、こんなことは商品流通には当たり前のことである。それらは社会的にみれば〈等価値の商品どうしの交換〉なのである。もしそれがそうでないというなら、そもそも大谷氏は商品流通そのものを否定することになるであろう。
  とにかく大谷氏は部門Ⅰと部門IIの間の商品資本の補填関係においては、〈等価値量の商品どうしの交換〉は成立しないとして、次のように続けている。

 〈そこで,この三つの転換を,なんとかして,等価値量の商品どおしの交換に還元しようとするなら,次の二つのどちらかを想定するほかはない。第1:まず,第I部門の資本家が,自己の商品資本のうちの可変資本価値が体化した部分を,第Ⅱ部門の商品資本のうちの不変資本価値が体化した部分のうちの一部と交換し,次に,これによって入手した消費手段を第I部門の労働者の労働力と交換する,という想定。第2:まず,第I部門の労働者が自己の労働力と第I部門の生産物である生産手段と交換し,次に,こうして入手した生産手段を第Ⅱ部門の資本家がもつ消費手段と交換する, という想定である。後者の想定は,第I部門の生産手段と第Ⅱ部門の消費手段との交換を労働者が担うという,あまりにも現実離れした滑稽きわまりないものであるから論外とすると,前者の想定だけが残ることになる。〉 (24頁)

  そして大谷氏は〈実際にマルクスは第2稿で,このように想定して,次のように書いた〉と第2稿からの抜粋を紹介している。その抜粋を考察する前に、大谷氏は上記の第2番目の想定が〈あまりにも現実離れした滑稽きわまりないものであるから論外とする〉というのであるが、しかしマルクス自身は第2稿で次のように書いているのを果たして知って言っているのであろうか。

 〈資本家階級II(これは第2稿では生産手段の生産部門のことであり、第8稿、よってまた現行版では部門Ⅰのことである。--引用者)は、資本家階級(つまり現行版の部門II、すなわち消費手段の生産部門--同)と同じように、労働者に彼自身の生産物(生産手段--同)の一部分を与えることによって、労働力に対して支払う--それに前貸し、かくして自分の可変資本を補填する--。(ここではまだ貨幣流通を捨象していることを理解しておかねばならない。)しかし労働者階級II(現行版の部門Ⅰの労働者--同)は,200£に等しい生産物(これは生産手段である--同)を、それを消費しうるためには、200£の価値の生産物(現行版の部門IIの生産物、すなわち消費手段--同)と交換しなければならない。〉 (145原頁、MEGA②Ⅱ/11.S.378)

  ご覧のように、ここではマルクスは部門Ⅰ(生産手段の生産部門)の資本家は、彼の生産物(商品資本,現物形態としては生産手段)のうち可変資本部分を部門Ⅰの労働者に与えて、彼の可変資本を補填するとしている。つまり彼の商品資本(生産手段の現物形態をもっている)の可変資本部分を労働力という生産に必要な現物形態に転換するのである。そして部門Ⅰの労働者は資本家から受け取った彼の労働力商品の価値の対価である生産物(生産手段)を、彼が消費しうる部門IIの生産物(消費手段)と交換するとしているのである。つまり大谷氏が〈あまりにも現実離れした滑稽きわまりないから論外とする〉とした想定を、実はマルクス自身がやっているのである。
  確かに次に紹介するように、大谷氏がまだ〈論外〉ではないと考えているらしい想定もマルクスはやっているように見えなくもない。その一文を大谷氏の論文から重引してみよう。

 〈「われわれはここではまず,貨幣流通のない再生産過程を,だからまた貨幣資本が介在しない可変資本の前貸を考察する。いっさいの富が,総資本家階級の所有として,ここではわれわれが株式会社〔Jointstock Company〕とみなすべき手のなかにある。一部分は,生産資本の姿をとって彼らの生産ファンドのなかにあり,他の一部分は,彼らの商品資本として市場にある(市場はここでは,個別の資本家たちが自分の商品をそれぞれ手持ちしている,総資本家階級の共同のバザール〔Bazar〕とみなすことができる)。彼らは労働者たちに資本の可変的部分を--ここで行なっている,貨幣流通を度外視する,という想定のもとでは--消費手段の形態で前貸するほかはない。彼らは300ポンド・スターリングの価値の消費手段を彼らの商品資本から引きあげ,これをもって300ポンド・スターリングの労働力を買う。この労働力はいまでは彼らの生産資本の一部となっており,彼らの生産過程に合体され,そして,活動している労働力として,生産過程における可変資本部分の現実的,素材的定在となっている。生産物,つまり商品資本では,前貸された労働力価値が再生産されており,さらに剰余価値が加わつている。そしてこのことが,資本の流通としての資本の流通と見なされているのである。しかしここではわれわれは--問題となっているのは総生産物の再生産なのだから--,資本の流通に関わるだけではなく,資本家のであろうと労働者のであろうと,個人的消費にはいる商品生産物の諸要素にも関わらなければならないのである。」(MEGA② Ⅱ/11,S.406-407。)〉 (24-25頁、下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による強調)

  大谷氏はどうやらこの引用されている内容が、彼が先に論じた問題〈第1:まず,第I部門の資本家が,自己の商品資本のうちの可変資本価値が体化した部分を,第Ⅱ部門の商品資本のうちの不変資本価値が体化した部分のうちの一部と交換し,次に,これによって入手した消費手段を第I部門の労働者の労働力と交換する,という想定〉と同じことを論じていると考えたらしい。しかしそれは正しくこの文章を理解したものといえるであろうか。われわれが先に紹介した第2稿の引用文と比べてみると、先のものは200£になっていたのに、今回は300ポンドになっている。つまり数値が違うのである。なぜ違うのか。今回の引用文ではマルクスは社会の総可変資本を問題にしているのであって、部門Ⅰの可変資本だけを問題にしているのではないからなのである。われわれはそれが分かるように、マルクスが第2稿で想定している単純な規模での再生産の過程を、われわれにとっておなじみの表式を使って紹介してみよう。ただし注意が必要なのは、第2稿では、部門Ⅰと部門Ⅱの位置づけが第8稿や現行版ととは反対になっているということである。

Ⅰ)(消費手段の生産部門)400c+100v+100m
Ⅱ)(生産手段の生産部門)800c+200v+200m

 だから100ポンドというのは部門Ⅰの(現行版では部門Ⅱ、つまり消費手段の生産部門)の可変資本部分なのである。マルクスは大谷氏が引用している一文では〈いっさいの富が,総資本家階級の所有として,ここではわれわれが株式会社〔Jointstock Company〕とみなすべき手のなかにある〉と述べている。つまりマルクスが問題にしているのは決して部門Ⅰだけの問題でも、部門Ⅰと部門IIとの関係でもないのである。社会の総生産物の再生産を行うために必要な労働力を、如何にして総資本家階級は彼らの可変資本の現物補填として獲得するかを問題にしているのである。
 だから、大谷氏がいうような部門Ⅰの可変資本の補填にかぎって問題にするならば、マルクス自身は部門Ⅰの労働者が部門Ⅰの生産手段で支払を受け、それを部門IIの生産物である消費手段と交換するという、大谷氏が〈あまりにも現実離れした滑稽きわまりないから論外とする〉とした想定をこそしているのである。
  しかしまあ、このような大谷氏の読み誤りをアレコレ詮索してもしようがない。いずれにしても、貨幣流通による媒介を捨象するということはそうした想定が必要だということである。ところが大谷氏はマルクスが〈資本家は「労働者たちに資本の可変的部分を消費手段の形態で前貸するほかはない」〉と述べていることから、次のように結論するのである。

 〈ここに,「貨幣流通を捨象した叙述」と「貨幣流通を伴う叙述」ないし「それに伴う貨幣流通の叙述」という二段構えの叙述方法の決定的な問題点が現われている。〉 (25頁)

  しかしこうした想定の何が〈決定的な問題点〉であろうか。マルクスが問題にしているのは社会の総生産物の再生産のために、その総生産物(総商品資本)が如何にして補填され合うべきかを問題にしているのである。労働者たちに社会の総生産物(総商品資本)のうちの可変資本部分を消費手段の形態で前貸しするということは当たり前ではないか。大谷氏はそれを部門Ⅰの資本家が部門IIの資本家とそれぞれの生産物である生産手段と消費手段とを交換して、その交換した消費手段で部門Ⅰの労働者に支払うと考えたから、それはおかしい、部門Ⅰと部門IIの資本家たちはそんな奇妙な商品交換をするのではないと考えたのであろう。あるいは部門Ⅰの労働者が彼らの生産した可変資本部分の生産物(生産手段)で支払を受け、それを部門IIの資本家からその不変資本部分の生産物である消費手段と交換するというような想定も〈論外〉だというのであろう。貨幣流通による媒介を捨象するから、このような奇妙なことになるのだ、だから貨幣流通による媒介を捨象することなど不可能だし、無意味だというのであろう。そして第8稿では、マルクスはやっとこうしたことに気づき、だから第2稿で考えていた二段構えの叙述方法を廃棄したのだ、と言いたいわけである。しかし何度もいうが、社会的な総生産物が如何に配分されて相互に補填されあい、社会が維持され、再生産されているかを見るということこそが肝腎なのであって、だから資本家が商品交換を担うか、労働者が担うか、というようなことはその限りではどうでもいいことなのである。だからこそマルクスはとりあえず、労働者がそれを担うと想定したのである。問題は部門Ⅰの可変資本部分(部門Ⅰの労働者の消費フォンド)が部門IIの不変資本部分の一部と補填関係にあるということを究明することなのである。

  大谷氏はマルクスは第8稿ではこうした〈問題点〉を克服したとして次のように述べている。

 〈のちに第8稿でマルクスが繰り返して強調したように,社会的総再生産過程の根幹をなす資本価値の自立的循環では,貨幣形態での可変資本の前貸が, したがってまた可変資本の貨幣形態での還流が決定的に重要であつて,社会的総再生産過程の分析では捨象することができないものである。「貨幣資本が介在しない可変資本の前貸」は,第1部第7篇の「第21章単純再生産」での資本の再生産過程の把握では意味をもつ想定0ではありえても,社会的総再生産過程の分析では,旧来の枠組みに囚われた叙述方法によつてやむなくとらぎるをえなかつた,現実離れした想定だったと言わざるをえないのである。
  マルクスは第8稿で,この二段構えの叙述方法を完全に放棄し,最初から,貨幣のもろもろ
の機能を度外視せずに, したがつてまた貨幣資本を度外視せずに,これらを前提し,組み入れた叙述を行なった。これによって彼は,社会的総再生産過程の核心的な諸転換を明晰に解明することができ,旧来の枠組みを廃棄して,分析の内容に相応しいあたらしい枠組みを獲得したのであった。〉 (25頁、下線は大谷氏による強調)

  確かにマルクスは第8稿で〈繰り返して強調した〉かどうかはともかく〈貨幣形態での可変資本の前貸が, したがってまた可変資本の貨幣形態での還流が決定的に重要〉だと述べている。しかしこの問題も、実は先の『軌跡』の批判のなかでとりあげたのである。だからそれも長くなるが、紹介しておきたい。

【〈マルクスは第8稿で、資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなすこと、だからまた、社会的総資本の再生産過程の考察でも、この前貸および還流の分析が決定的に重要であることを強調した〉ということはまあよいとしましよう。確かにマルクスは「第20節 単純再生産」の「第3節 両部門間の転換  I (v+m)対IIc」(この部分は第8稿)のなかで次のように述べているからである。

 《しかし、この相互転換は貨幣流通によって成立するのであって、貨幣流通はそれを媒介するとともにそれの理解を困難にするのであるが、しかしそれは決定的に重要である。というのは、可変資本部分は絶えず繰り返し貨幣形態で現れなければならないからである。すなわち貨幣形態から労働力に転換される可変資本として現れなければならないからである。》 (全集版490頁)

 しかしこのマルクスの文言を金科玉条にして、貨幣資本の還流の決定的意義なるものをあまりにも強調しすぎることは正しくないであろう。なぜなら、マルクスがここで強調しているのは、可変資本の場合は常に貨幣形態でそれが労働力に転換されなければならないからだとの理由によるからである。労賃は例えそれが後払いであろうが、先払いであろうが、常に現金で支払われる必要がある。だから可変資本は常に貨幣形態で資本家の手許に還流する必要がある。マルクスが指摘しているのはこの事実である。しかしこうした理由は事態の具体的な側面である。そして具体的には不変資本部分の場合には資本家たちは相互に信用を与え合うことによって、貨幣を媒介せずに商品資本を相互に補填し合うケースが多く、だから必ずしも貨幣形態で還流する必要はないのである。しかし注意が必要なのは、われわれが考察している社会的な総再生産過程では、そうした信用など具体的な諸契機は捨象されているのである。だから可変資本部分だけではなく、不変資本部分も剰余価値部分も、資本家たちはそれらすべての商品資本を一旦は貨幣資本に転換すると仮定されているのである。それゆえ、可変資本が常に貨幣形態で労働力に転換されなければならないということだけをことさら強調することは、われわれが考察している抽象レベルを考慮しないことであり、それ自体が誤りに転ずる可能性を持っているのである。
 だから大谷氏らが、可変資本部分が常に貨幣形態で還流する必要があるということを強調するあまり、〈だから生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察することで満足しているわけにはいかない〉などというのはおかしな議論なのである。一体、誰が満足しているのか分からないが、このように言うことは、大谷氏は少なくとも〈生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察する〉意義そのものは認めておられるのであろうか。それは必要な考察の一つの段階ではあるが、それだけに〈満足して〉留まっていてはダメだということなら、まったくそのとおりであり、誰も文句は言わないであろう。誰もそれに満足せよとか、そこに留まっておるべきだなどとは主張していないからである。しかしその前では大谷氏はその意義さえも認めずに、「二段構えの敍述方法」をマルクスは放棄したと言われたのではなかっただろうか。それとも〈満足しているわけにはいかない〉というのは、それ自体を否定するための単なるレトリックなのであろうか。
 確かに〈資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなす〉ことは認めることにしよう。しかしだからといって、〈貨幣を媒介にしたこれらの転換(=商品相互の素材転換)が、可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか、ということがつかまれなければならないのである〉というなら、それは行き過ぎであり、問題の一面化である。なぜなら、単に問題は〈可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか〉ということだけが問題ではないし、それだけが解明されればよいという問題でもないからである。不変資本や剰余価値もそれぞれが貨幣流通に媒介されてどのように補填され合うのかも解明される必要があるからである。】

  確かにマルクスは第8稿では可変資本が貨幣形態で還流する必要を指摘している。しかしだからといって〈社会的総再生産過程の分析では〔貨幣流通を〕捨象することができない〉などと述べているわけではない。あくまでも貨幣流通による媒介を入れた叙述においてはそうだと述べているだけなのである。そもそも大谷氏は第8稿では、マルクスは単純再生産の叙述をはじめるところや、拡大再生産の叙述を開始するところに、〈先取り〉と欄外に書いていることを無視している。もちろんこの〈先取り〉を如何に理解するかで色々と議論があるが、しかし明らかにマルクスは第8稿では問題を限定して〈先取り〉して論じているという前提で書いているのである。そしてそれは貨幣流通による媒介を入れた考察そのものは、それを捨象した考察が本来は先行するべきだが、しかしとりあえずそれを〈先取り〉して論じるということなのである。つまりそれはその前に貨幣流通による媒介を捨象した叙述が来なければならないというマルクスの考えをそれらの書き込みは示しているのである。もちろん、大谷氏はこうした〈先取り〉というマルクスの欄外への書き込みに関しては氏独特の解釈をしている。それらについても先の論文(『軌跡』)を批判するなかでも論じておいたが、ここで新たに気づいたもう一つの証拠というべきものを付け加えておこう。
 マルクスは第2部の第2稿の第3章のなかで、現行版の第3篇「社会的総資本の再生産と流通」の第18章「緒論」の第1節「研究の対象」に採用された部分の叙述を行ったあと、やはり現行版の同章第2節「貨幣資本の役割」(この表題はエンゲルスによるもので、マルクスは「社会的総資本の構成部分としての貨幣資本」としている)にとりかかる直前に、〔 〕に入れて、次のように書いている。

 〈〔以下のものは、この章の後の方の部分に関するものにすぎないが、それにもかかわらず、あえてまさに今これを考察するつもりである。〕〉 (第2稿131原頁、MEGA②Ⅱ/11,S.343)

 この一文そのものは、現行版の第18章第2節の冒頭、エンゲルスによって{ }に入れられて紹介されている。
 このマルクスの断り書きが何を意味するかは明らかである。「社会的総資本の構成部分としての貨幣資本」の考察は、当然、貨幣流通による媒介を顧慮した考察においてなされるべきものである。だからそれは貨幣流通による媒介を捨象した考察のあとに行われべきものなのである。しかしわれわれはあえて今これを考察するのだ、ということである。もちろん、これは第2稿だから第2稿のプランどおりに書かれているのは当然というかも知れない。しかし注目すべきはマルクスはこのように第2稿でも問題を先取りして論じるということをやっているという事実である。だからこそマルクスは第8稿でも貨幣流通による媒介を入れた単純再生産や拡大再生産の考察を開始するところに〈後におくべきものの先取り〉と断って書き始めているのである。だからマルクスが第8稿では貨幣流通による媒介を入れた考察だけをやっているからといって、エンゲルスのように、それが〈著者(=マルクス)の拡大された視野に照応するように書き直され〉(序文)たものだなどと評価するのはお門違いなのである。

 大谷氏は、第8稿ではマルクスは最初から再生産過程を貨幣流通による媒介を入れて考察しているという事実から出発する(しかしすでに述べたように、マルクスの意図としてはそれらは貨幣流通による媒介を捨象したあとになされるべきものを〈先取り〉して考察しているつもりなのであるが)。そしてこれこそが、マルクスが第8稿に至って獲得した新しい見地であるとエンゲルスと一緒に主張し、そもそも再生産過程というのは貨幣流通による媒介を捨象して考察することはできないのだ、あるいは貨幣流通による媒介を捨象したのでは内容のない、無意味なものになるのだと主張するのである。だから貨幣流通による媒介を捨象することを想定させるような「流通過程と再生産過程の実体的諸条件」という第3章(篇)のタイトルも、貨幣流通による媒介を最初から入れて考察するべき第3章の内容には合致しなくなっていると強弁するわけである。
 無理に無理を重ねて、こうしたことを論証して、先の『軌跡』での主張を補足しようとしたのであるが、しかし残念ながらそれらは完全に失敗に終わっているとしか言いようがないのである。

(完)

2018年3月19日 (月)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(3)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(3)

(前回は「◎6.第2稿第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の意味は?」の途中で終わったので、以下は、その続きである。)

●第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」はその内容に相応しくない?

 上記のように論を展開した大谷氏は、いよいよ本題に入っていく。次のように述べている。

  〈第3章がこのような見地でこのような対象を分析するのだとすると,この章につけられたタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」はそれに相応しいものだったであろうか。もし,このタイトルのなかの「実体的諸条件」がかつての第1稿での意味のものでしかなかったとすれば,このタイトルは新たな第3章の内容を適切に表現するものではないと言うべきであろう。しかし,「実体的」という語が,いま見てきたような,「資本価値が使用価値の形態を転化させ,かつ価値を増大させながら過程を進行していく」という新たな合意をもつようになっていたのだとすれば,「実体的諸条件」とは,資本価値のこのような過程進行の諸条件という意味に理解することも不可能ではない。そして,そのように見るかぎりでは,第3章のかのタイトルはこの章の内容を表現していると言うこともできるであろう。〉 (21頁、下線は大谷氏による強調)

  ここでは大谷氏はまだやや曖昧である。「実体的」という語が、第1稿と同じ意味でなら、それは相応しくないが、第2稿の意味なら、限定付きでまあ許せるということらしい。しかしこうした言いぐさもおかしなものである。なぜなら、大谷氏は第2稿の第3章の表題を問題にしているのではないだろうか。なぜなら、第1稿の第3章のタイトルは「流通と再生産」だったのであり、第1稿の最後のプランにあるのは「流通(再生産)の実体的諸条件」というものである。だから「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルそのものは第2稿でしか見られないものだからである。だからそれを〈もし,このタイトルのなかの「実体的諸条件」がかつての第1稿での意味のものでしかなかったとすれば,このタイトルは新たな第3章の内容を適切に表現するものではないと言うべきであろう〉という言いぐさはいらざる難癖としか言いようがない。第2稿のタイトルがどうして第1稿での意味のものでしかないことがありうるのか、子供でも分かる道理である。そしてわれわれは、そもそも大谷氏がいう第1稿と第2稿とでは、「実体的」の意味が違っていて、第2稿ではその意味が拡張されているという主張の根拠のなさも指摘したのであるから、こうした大谷氏の難癖にはただただ苦笑で返すしかないのである。何とか大谷氏としてはマルクスの第3章のタイトル付けに難癖をつけたいのであるが、しかしそれもなかなか思うようにならず、条件付きなら、まあ内容を表現していると言えると認めるわけである。しかし大谷氏がいうところの条件なるものも、すでに眉唾物であることは指摘しておいた。
  そもそも大谷氏が目標とするのは、マルクスが第2稿の表紙に書いたプランは、プランではなく、単なる「目次」であり、それはエンゲルスがいうように、第8稿では獲得された新しい視点において否定されたものなのだ、すなわちそこで書かれている二段構えの再生産過程の考察は第8稿では破棄されたのだ、再生産過程の考察は貨幣流通の媒介なしには考察することはできない(あるいは考察する意味はない)、等々という結論に持っていくことが狙いなのである。ではそのお手並みを拝見しよう。

  そういうわけで大谷氏の次のターゲットは第2稿の表紙に書かれたプランそのものである。次のように述べている。

〈マルクスは,第2稿の執筆を打ち切つたのちに,「目次〔Inhalt〕」という見出しのもとに,この草稿の表紙としていた紙葉に内容目次を書きつけた。これは,草稿の該当ページもつけられていることからも明らかなように,それ自体としてはすでに書いてある草稿の内容について作成された「目次」であって,最終的に仕上げようとする第2部完成稿のためのプランではなかったが, しかし,あちこちで草稿の内部での表題に手を加え,また,のちに採用すべき用語を明示したりしたほか,第3章については,草稿では筆が及んでいなかった「拡大された規模での再生産。蓄積」の項目を書き加えているところからもわかるように,この時点での彼の第2部構想を示すものと見ることができるものである。(MEGA②Ⅱ/11,S.3-4)。〉 (21-22頁)

  ここでも大谷氏の攻撃は一進一退である。まず第2稿の表紙に書かれたものはプランではなく、「目次」であると主張する。しかし他方で、その「目次」には、実際の第2稿の本文にはない項目も書かれているから、第2稿を書き上げた時点における第2部全体のマルクスの構想を示すものだと渋々認めるわけである。第2部全体の構想を示すものと認めるなら、それを第2部全体のプランと認めることではないのだろうか。大谷氏はただ言葉を言い換えているだけではないか。大谷氏はマルクスがこの第2稿の表紙に書きつけた第2部全体のプラン(「目次」と呼ぼうがどうでもよいことである)こそが、第2部全体の見通しを書いた最後のものであるという事実にも目をつぶっている。マルクス自身が書いたものとしては、これ以降に書かれた諸草稿においては、第2部全体の、あるいは第3章(篇)に限ってもよいが、その構想らしきものについて言及しているものは皆無なのである。そしてマルクス自身が先に大谷氏が〈マルクスは,のちに1877年春に,ふたたび第2部の仕事に立ち戻ろうとして,以前に書いた諸草稿のなかの利用すべき箇所への指示ないし摘要を作成した。MEGA編集者はこれに「以前の叙述(第1-4稿)のうちの利用すべきテキスト諸箇所」という,いささか回りくどいタイトルを付けているが,これは,エングルスが彼の第2部序文で「最後の改訂のための覚え書」ないし「四つの草稿からの指示や覚え書」と呼んだものである(MEW 24,S.11)〉(17頁)と紹介していた「指示書き」において、この第2稿を常に基礎に据える必要があると指示しているのである。そしてマルクスが第2稿を基礎に据えるということは、その表紙に書いているプランを基礎に据えよ、という指示ではないか。実は大谷氏はこうしたことを知りながら、無視しているのである。どうも一旦出来上がったドグマというものは、なかなか克服できないもののようである。

●「実体的諸条件」という用語は、第2稿以降の諸草稿では、第2稿のタイトル以外では「完全に消え失せる」?

  しかしいずれにせよ、大谷氏もマルクスが第3章のタイトルとして「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を考えていたことは認めざるを得ないようである。しかしさらに大谷氏の攻撃は続くのである。大谷氏はマルクスは第2稿では、このタイトル以外ではこの用語そのものは使わなかったなどと今度は主張しはじめる。次のように述べている。

〈マルクスは,第1稿で第3章のタイトルとして考えていた「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を第2稿の第3章でもそのまま維持した。上で見たように,「実体的諸条件」という語には新たな意味が加えられており,マルクスはそのような意味をも込めて第3章のタイトルとして書きつけたのであろうが,すでに第2稿第3章の冒頭で記した,第1稿の段階をはるかに越えるこの章での問題意識を適切に表現するものとは言えなくなっていた。第2稿の「目次」ではなおこのタイトルが維持されているが,このあとの第2部諸草稿にはもはや「実体的諸条件」という表現は完全に消え失せる。これは,「実体的諸条件」という表現が新たに得られた第3章の内容にそぐわないものとなっていたからであろう。〉 (22頁)

  おかしなことに、ここでは大谷氏は〈「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を〉〈マルクスは,第1稿で第3章のタイトルとして考えていた〉としている。しかしそれなら、先にわれわれが見た〈タイトルで見るかぎりでは,「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の解明は,第3章でなによりもまず明らかにされるべき中核的課題という位置から,第3章がその全体をもって答えるべき課題という位置に引きあげられた〉(15頁)という主張とどのように整合するのであろうか。
  しかしまあ、そんなことはどうでも良い問題である。大谷氏は「実体的諸条件」という文言だけを問題にしている。そしてその用語が第2稿の本文ではまったく使われていないとか、第2部のそれ以降の諸草稿では、〈完全に消え失せる〉などという。そしてそこから大谷氏は〈これは,「実体的諸条件」という表現が新たに得られた第3章の内容にそぐわないものとなっていたからであろう〉などと推論するのである。何と無茶苦茶で乱暴な推論ではないか! タイトルにある文言が本文では使われていないということだけから、だから本文の内容はタイトルとはすでにそぐわないものになっていた、などというのは暴論としかいいようがない。大谷氏は実際の第3章の内容を具体的に検討することもせずに、ただタイトルに使われた文言が、本文のなかにはないと言っているだけである。しかしこんなことは一般的にはよくあることではないか。小説などでもその本のタイトルに使われた文言が本文のなかで必ず出てくるというものではない。例を挙げよう。今、私は宇野弘蔵著作集の最後巻である「別巻」を読んでいるが、ここには随想や評論などさまざまな雑文が集められている。もちろん、雑文だからといって内容がないと言っているのではない。その今読んでいる随想の一つを見てみよう。「学究生活の思い出」という随想がある(同著作集別巻88~103頁)。ではその本文のなかに「学級生活」という文言や「思い出」という文言が出てくるかといえば一つも出てこない。大谷氏流に言えば〈完全に消え失せる〉! では、果たして大谷氏はここからこの宇野の随想のタイトルはその本文の内容にそぐわないと結論するのであろうか。しかし実際にはその随想はそのタイトルどおりの内容なのである。これを見ても大谷氏の論証の仕方はあまりにも杜撰でいい加減なものであることが分かるであろう。
 大谷氏はその少し前では、「実体的諸条件」の「実体的」の意味が第1稿でのそれより第2稿では拡張されているとして、「実体的変態」という文言の使用例を第2稿や第4稿、さらには1877年の覚書等々から紹介していたのではないだろうか。「実体的変態」は使われているが、「実体的諸条件」は使われていない、というのであろうか。しかし「実体的変態」は「実体的諸条件」の具体的な内容の一つではないだろうか。そもそも大谷氏は「実体的諸条件」の意味の拡張を論じるために、「実体的変態」という用語を取り上げたのではないだろうか。つまりそれは両者が共通した対象を論ずるものと考えたから、後者ではマルクスは二重の意味をもつと述べているから、だから前者でもそうだとしたのではないのだろうか。もしそうであるなら、例え「実体的諸条件」という文言がないからといって大騒ぎすることもないし、それを根拠に、もはや〈「実体的諸条件」という表現が新たに得られた第3章の内容にそぐわないものとなってい〉るというのは、あまりにも乱暴であり、飛躍し過ぎた論理ではないだろうか。問題はマルクスが「実体的諸条件」という言葉で何を論じようとしているかということであろう。そしてその同じ問題を第2稿やそれ以降の諸草稿(例えば第8稿等々)でマルクスは問題にしているのかどうかということではないか。大谷氏がご丁寧にもいろいろと紹介してくれているように、それらの諸草稿でマルクスは「実体的変態」という用語を使っていろいろと論じているのだから、やはりマルクスはそれらの諸草稿でも「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を具体的に探求しているということではないのか。マルクスが第3章(篇)の考察において、再生産過程の実体的諸条件といえるものを考察の対象にしていないというのなら、確かに大谷氏の主張にも一定の根拠があるが、しかし大谷氏はそれを論証したわけではない。そればかりかむしろそれを反証する数々の抜粋をわれわれに紹介してくれている。ただ字面だけを調べて(こんなことはデジタル・データを検索にかければ簡単に分かることだが)、一つもヒットしなかったということだけではあまりにも安易であり、根拠薄弱としか言いようがない。

 確かに大谷氏が指摘するように第1稿には「実態的諸条件」という用語が頻出する。それに対して、それ以降の諸草稿では、第3章のタイトル以外にはそれを使っていないらしい(とりあえず大谷氏の言明を信用しよう)。しかしこれは第1稿の性格から来ているように私には思える。第1稿には第2部を考察し、叙述する上での方法上の問題が常に意識され書き留められているからである。しかし第2稿以降では、そうした方法上の問題意識はもちろんあるにしても、背後に隠され、明示的に書き留められているわけではないからである。だから第2稿以降の諸草稿に「実体的諸条件」という文言がないということには何の不思議もないのである。

 そこで少し思い出したことがある。大谷氏はこの論文を、以前、『経済』誌に発表された論文(『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――『経済』09年3・4・5月号掲載)の補足として書かれたものだそうだが、確かその論文の中でも同じような主張をされていたのである。そこで昔のその大谷氏の論文を批判的に検討して書いたものを捜してみたら、やはりあった。そこでは私は次のように批判している。長くなるが、ご容赦ねがいたい。以下、【 】内は私の同論文の批判的検討(『資本論』第2部諸草稿(特に第8稿)の研究)からである。

 【●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問

 これは「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」の二つ目の項目であるが、ここで大谷氏は、それを次のように説明されている。

 〈第8稿では、第3篇の課題について、さきに第2稿で獲得された「e 第3章の課題についての新たな視点」として述べた観点が、考察の全体を貫くようになった。ここにはもはや、第2稿までの、社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない。〉 (中130頁)

 しかし第8稿が貨幣流通による媒介を顧慮した社会的総再生産過程(単純および拡大)の考察に、マルクス自身は限定して、それを「先取りして」論じているということが理解され得るなら、すなわち第8稿がそうした限定された性格のものであることが分かっておられるなら--そしてわれわれはすでに「利用すべき諸箇所」の「ノートII」のところで、マルクスが《この第二の叙述が基礎に置かれなければならない》と書いたこと、そしてこの指示のあとに書かれたマルクスの諸草稿は、まさにそうした指示にもとづいた性格を持っていること、すなわちそれらすべてが部分的・断片的なものにすぎず、第8稿もその例に洩れないことを指摘した--、そこで〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉ことは、何ら不思議でもなんでもないことに、大谷氏も気付かれたのではないだろうか。というのはすでに問題の重点はそうした問題にはないからである。しかしそのことは「実体的素材変換」や「実体的諸条件」がどうでもよいものであるということでは決してない。事実、マルクス自身も第8稿の《II 蓄積または拡大された規模での生産》でもそうした考察を行なっているからである。その一例を次に紹介してみよう。

 マルクスは蓄積にはそれに先行する潜勢的貨幣資本である貨幣の蓄蔵が不可欠なことを指摘して、その蓄蔵貨幣が如何に形成されるかを論じているところで、次のように述べている(下線はマルクスによる強調)。

  《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこでcII)となるべき生産手段生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。……
  したがって、単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産されるということになる。それはまさにとりもなおさず(当面の場合には)、《直接に》生産手段の生産に支出された剰余労働 I 、すなわち可能的剰余不変資本の創造に支出された、労働者階級( I )の剰余労働である。だから、 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである。
  したがって、可能的追加貨幣資本の生産は、ここでは……、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない。》
(大谷訳『経済志林』54-58頁)

 ここではマルクスは、蓄積の本質、その概念を解明しているのであるが、蓄積に必要な貨幣蓄蔵は剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵するのであるが、しかしその販売される剰余生産物そのものがすでに追加的な生産手段として生産されていなければならないこと、だから蓄積というのは剰余生産物を生産する労働者の《充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけ》が問題なのであり、だから蓄積というのは--そしてそれに必要な潜勢的貨幣資本の形成というのは--、《生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない》と述べている。つまりここでマルクスが問題にしているのは、資本の蓄積の一契機である蓄蔵貨幣の形成という問題の背後にあるまさに「実体的諸条件」そのものなのである。そしてこれが資本家Aから資本家Bに生産手段の生産手段として販売されるのであるから、それが「実体的素材変換」でもあることはいうまでもないであろう。だから第8稿では〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉などという大谷氏の主張はまったく正しくないであろう。】

 このように先の『経済』掲載論文では、大谷氏は第8稿では「実体的諸条件」という文言はどこにも見い出せないと主張していたのであるが、今度は、さらにそれを拡大して、第2稿における第3章のタイトルを除くと、その本文でも、さらにはそれ以降の諸草稿でもそれは〈完全に消え失せる〉などと主張しているわけである。しかし上記において批判しておいたように、マルクス自身は第8稿でもその内容において、実体的諸条件を考察していることはあきらかなのである。大谷氏はただ「実体的諸条件」という文言だけを問題にしているから、こんな馬鹿げた結論になってしまうのである。先に紹介した第8稿のなかでもマルクスは〈したがって、可能的追加貨幣資本生産は、ここでは……、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない〉と述べている。これは蓄積の概念としてきわめて重要な指摘なのであるが、ここでは明確にマルクスは〈実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象〉という形で「実体的諸条件」について述べているわけである。

 ついでにやや前後するが、上記の引用文のなかで大谷氏が〈第8稿では、第3篇の課題について、さきに第2稿で獲得された「e 第3章の課題についての新たな視点」として述べた観点が、考察の全体を貫くようになった〉と述べている〈第2稿で獲得された「e 第3章の課題についての新たな視点」〉なるものについても、私は次のように批判したので、これも長くなるが関連すると思うので、紹介しておこう。

 【●[a 第3章の課題についての新たな視点]なるものの説明も納得がいかない

 次に大谷氏が第2稿の理論的進展として説明されているもので引っ掛かったのは、〈第3章の課題についての新たな視点〉というものである。というのは、その論旨が今一つジグザグしているような気がしたからである。……

 ……(中略・ジグザグしている理由を述べている部分はカット)……

 また大谷氏は「実体的諸条件」ということでマルクスが何を考えていたかについて、次のように説明されている。

 〈第1稿で頻出するこの「実体的〔realまたはreell〕」という形容詞でマルクスが考えていたのは、資本の循環に即して言えば、W_Gが、商品形態から貨幣形態への資本のたんなる「形態的〔formalまたはformell〕」な変態であるのにたいして、生産過程での変態は、生産手段および労働力という特定の使用価値をもつ生産諸要素が特定の使用価値をもつ生産物に形態変化するという変態であり、したがってまたG_Wも、貨幣がそのような特定の使用価値をもつ生産諸要素に転化するという変態だということであって、こうした意味でG_Wおよび _P_ は、ともに実体的な変態なのである。このように、「実体的」とは、使用価値にかかわる、という意味であった。だから、第3章が明らかにすべき「再生産の実体的諸条件」とは、社会的再生産の進行のために、使用価値の観点から区別される生産諸部門のあいだで、使用価値を異にする生産物が相互に転換されるのに必要な諸条件、ということであった。マルクスは、社会の生産諸部門を生産手段生産部門と消費手段生産部門との二つの部門に分割し、両部門の内部補填と両部門間での相互補填とによって再生産が進行するために必要な諸条件、諸法則がどのようなものであるか、ということを明らかにしなければならないと考え、これを「再生産の実体的諸条件」と呼んだのである。〉 (上154頁)

 もちろん、こうした説明が間違っているというのではない。しかしここでも大谷氏は〈資本の循環に即して言えば、……〉として資本の循環から説明されているのであるが、これは果たして問題の説明としては正しいやり方であろうか。これはすでに紹介した一文であるが、マルクスは《実体的な再生産過程の考察のためには、貨幣をひとまず捨象することができる》理由を次のように説明していた。

 《そのかぎりでは資本の貨幣形態は、商品の変態W-G-Wにおける貨幣一般と同様に、再生産の、媒介的ですぐに消えてしまう形態として〔機能する〕にすぎないし、また、現実的再生産過程そのものとはなんのかかわりももたない。……したがってどちらの場合にも、実体的(レアール)再生産過程の考察のためには、貨幣をひとまず捨象することができるのである(つまり、資本が貨幣に形態的に転化すること、資本が貨幣形態を周期的にとることが、摩擦なしに行なわれるものと前提する場合には〔そうすることができるのであり〕、またじっさいわれわれはさしあたりこのように前提するのである)。それゆえわれわれは、この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する。》 (200-201頁)

 だから問題は資本の形態転換が問題になる「資本の循環に即し」た説明ではなく、ここでマルクスが述べているようにW-G-Wの過程における貨幣と同様に、それを捨象して問題を捉えなければならないということである。つまりW-Wの過程として問題を考えるべきだということである。これは資本の再生産過程としては社会的な総商品資本の相互の補填関係を意味している。社会の総商品資本を素材と価値との両面からの相互の補填関係を論じる場合には、貨幣はただ媒介的な契機として現われるだけだから、捨象して考えることができるし、しなければならないというのが、マルクスの考え方なのである。
 またマルクスは第1稿の「第1節 資本の諸変態」の最初のあたりで、それぞれの章の課題を明らかにしているが、そこでは「第3章」について、次のような説明がある。

 《{第3章で行なうように、流通過程を現実の再生産過程および蓄積過程として考察するさいには、たんに形態を考察するだけではなくて、次のような実体的(レア-ル)な諸契機がつけ加わる。
 (1) 実体的(レアール)な再生産(これは蓄積--ここではただ、拡大された規模での再生産のことである--を含む)に必要な諸使用価値が再生産され、かつ相互に条件づけあう、そのしかた。
 (2) 再生産は、再生産を構成するその諸契機の、前提された価値=価格諸関係によって条件づけられているのであるが、この諸関係は、諸商品がその価値で売られる場合は、労働の生産力変化よって生じるその真実価値の変動によって変化しうるものである。
 (3) 流通過程によって媒介されたものとして表現される、不変資本可変資本剰余価値関係。》
(9頁)

 つまりマルクスが第3章でやろうとしていることは、社会の総商品資本を素材(使用価値)と価値(これは与えられた諸使用価値の生産諸力において、社会の総労働を諸使用価値の生産諸部門に如何に配分すべきかの指標を意味している)の両面から、それらがどのように交換されて補填し合わなければならないかを考察しようということである。だからこそ、ここでは諸使用価値が重要な考察の対象になってくるのである。そしてそれをマルクスは《実体的(レアール)な再生産過程》と述べているのである。
 マルクスは諸商品の諸使用価値においては、社会的な分業が示されていることを次のように説明していた。

 《さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体--社会的分業--が現れている。……どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。》 (全集版第1巻57頁)

 社会的総再生産過程を考察する第3章の課題は、社会の総生産物が過不足なく、社会的分業にもとづいて、それぞれが必要な生産諸部門や諸個人に配分され消費される過程を(商品資本の流通過程として)考察することである。そうした社会的分業を体現しているのが、諸商品の使用価値なのである。だからこそ第3章では諸使用価値が問題にならなければならないのである。生産手段部門と生活手段部門とに社会的生産が大きく分けられるのは、それが一つの多岐的な体制となっている社会的分業のもっとも基本的な構成部分だからである。実際には、社会的な総生産物は、素材的にも価値的にも、社会的分業にもとづいて、あらゆる生産部門間における生産的消費や社会を構成する労働者や資本家たちの個人的消費に対して、相互に補填し合わなければならないのである。それらは部門 I 内部での、あるいは部門 I と部門IIとの間での、さらには部門II内部での相互の補填関係として捉えることができる。使用価値が問題になる理由はそうしたところにあるのであって、そうした観点が大谷氏には欠けているように思えるのである。
 大谷氏は〈第2稿の第3章では、第1稿の第3章ではまだ十分に意識されていなかった見地を基本に据えることになった〉として次のようにその内容を説明されている。

 〈すなわち、第一に、商品資本→貨幣資本→生産資本→商品資本、と形態を変化させていく資本の循環過程。第二に、商品資本のうちの剰余価値を表わす部分→貨幣→資本家の個人的消費手段、と形態を変化させていく資本家の収入(剰余価値)の変態。そして第三に、労働力→貨幣→必要生活手段、と形態を変化させていく労働者の労働力の変態、この三つの循環ないし変態が互いにどのように絡み合って社会的総再生産過程を形成しているのか、ということを、商品資本の循環を基礎に据えて全面的に考察する、という見地である。第2稿の第3章の各所でマルクスは、社会的総再生産過程をこの視点から考察しようと努めた。〉 (上154-155頁)

 しかしこれらも、やはり貨幣流通と貨幣資本を考慮した場合の問題である。それらを捨象して考察している第1稿で、そうした「見地」が「十分に意識されていなかった」どころか、マルクスは「十分に意識して」それらを捨象しているのである。そして第2稿では、今度は問題は「二段構えの構成」で考察されており、よって単純再生産もまずは「a 貨幣流通による媒介なしの敍述」がなされたあと、「b 貨幣流通による媒介を入れた敍述」がなされているわけである。だからその意味では貨幣流通や貨幣資本の契機も考察の対象に入ってくるわけで、大谷氏が指摘するような「見地」が入ってくることは確かであろう。しかしそのことは何かそうした「見地を基本に据えることになった」ことを意味しないであろう。そうした見地も考察の対象として入ってくることになったということだけではないかと思うのである。】

 そして大谷氏は、マルクスが第2稿の第3章のタイトル以外には、第2稿の本文やそれ以降の諸草稿で、「実体的諸条件」という用語を使わなくなったことについて、次のようなもっともらしい理屈を考え出すのである。

 〈このこと(つまり〈肝心のこの第2稿で,マルクスはこのタイトルのなか以外には,この語そのものをまったく使わなかった〉ということ--引用者)が示唆しているのは,あらたなより深い認識は,それが得られたときにいつでもただちにそれに相応しい概念や枠組みを獲得できるわけではなく,多くの場合,とりあえずそれ以前の概念や枠組みを使って表現されるのだ,ということである。このようなずれは,マルクスにかぎったことではない。それは,偉大な思想家たち,理論家たちの認識の深化の過程でつねに見られるものである。彼らの思想や理論の形成の過程を解明するさいには,一方で,生まれ育まれたあらたな認識やそれまでの認識の刷新を旧来の概念や枠組みのなかでの叙述のなかに発見することが必要であり,他方では,その新たなものが古い枠組みや概念によって受けている制約を見抜き,理論家たち自身によつて古い概念や枠組みがついに脱ぎすてられていく過程をリアルに見ることが必要である。〉 (22頁)

 このような理屈を述べて、大谷氏は次のテーマ、いわばその最終目標(二段構えの叙述プランの放棄)に入っていくわけである。

(以下、4に続く)

2018年3月16日 (金)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(2)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(2)

◎6.第2稿第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の意味は?

  さて、いよいよ第2稿の第3章のタイトルとしてマルクスが書いている「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の意味が問題とされるところまて来たわけである。ところで、大谷氏はこのタイトルで追求するテーマが、第1稿と第2稿とでは位置づけが変わっていると次のように述べている。

  〈マルクスは,第1稿の最後のページに書き付けた第3章プランではこの章の第1節のタイトルとしていた「流通(再生産)の実体的諸条件」という句を,第2稿の第3章冒頭で,いわば一段の格上げを行なって,第3章全体のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」にした。これによって,タイトルで見るかぎりでは,「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の解明は,第3章でなによりもまず明らかにされるべき中核的課題という位置から,第3章がその全体をもって答えるべき課題という位置に引きあげられたのであった。〉 (15頁)

  しかしこうした指摘にはやや首を傾げるところがある。第1稿の最後に書かれたプランはすでに紹介したが、そこでは〈したがって、この第3章の項目は次の通りである〉と書かれており、第3章のタイトルそのものは書かれていなかった。とすれば、マルクスは第1稿の本文の第3章につけたタイトル「流通と再生産」を前提してこのように述べていると考えるしかない。とするなら、大谷氏はこの第3章のタイトルについて次のように述べていたことを思い出すからである。

  〈第1稿の第3章につけられたタイトルは「流通と再生産〔Circulation uo Reproduction〕」(MEGA② Ⅱ/4.1,S.301)であったが, じつは,第1稿の第3章でマルクスが書こうとしていたものの実際の内容が第2稿第3章のタイトルに合致するものであって,第1稿での「流通と再生産」というタイトルは第2稿での「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルのいわば短縮形であったことは,第1稿の各所での記述から明確に読み取ることができる。〉 (2頁)

つまり大谷氏のこの主張にもとづけば、マルクスは第1稿の段階でも「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」という表題を第3章の表題として考えていたのであり、ただそれを「流通と再生産」という短縮した形でつけたのだということになる。つまりこの主張にもとづけば、マルクスは第1稿の段階から「流通および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルを〈第3章がその全体をもって答えるべき課題〉として位置づけていたということではないのか。となると大谷氏の先の〈という位置に引きあげられた〉という評価には納得ゆかないものが生じてくる。しかしまあ、これは大した問題ではない。
  次に疑問とするのは、先に紹介した第1稿の最後にマルクスが書いた第3章のプランそのものは、まだかなり大雑把なものだということである。というのは、このプランを書く直前に、つまり本文の最後で、マルクスは〈第9節 再生産過程の攪乱〉という表題を書いているが、しかしそこにはただ〈これは、第3部第7章で考察すべきである〉(上掲294頁)と書かれているだけなのである。だからこの第9節が書かれた時点では、マルクス自身はこれは第3部第7章で考察されるべきものだと考えていたということになる。ところがそれに続く、草稿の最後の部分で第3章の全体のプランを書いた時には、いまだそれは第2部第3章の課題だとマルクス自身は考えていたという奇妙なことになるからである。だから第1稿の本文とこの最後に書かれた第3章全体のプランとにはある程度の時間的ずれがあることも考えられるのである。草稿の状況を直に調べることができたなら、このプランが、第3章の本文の最後の一文に続けて書かれているのか、それとも別の紙葉に書かれたものなのかによって、そこらあたりの見当はつけられるであろうが、それは今の時点ではかなわぬことである。いずれにせよ、その直前の本文で第3部第7章で考察すべきとしているのに、どうしてその直後の第3章のプランのなかに、依然として今度は項目としては6に変更されているが、〈再生産過程の攪乱〉が入っているのかという疑問が当然生じるであろう。

  第1稿の第3章の本文のなかにつけられた項目を掲げてみよう。

第3章 流通と再生産
  第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産
  第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)
〔第3節 再生産過程における固定資本の役割〕
〔第4節 再生産の弾力性〕
  第5節 蓄積、すなわち、拡大された規模での再生産
  第6節 蓄積を媒介する貨幣流通
  第7節 再生産過程の並行、段階的連続、上向的進行、循環
  第8節 必要労働と剰余労働(剰余生産物)
  第9節 再生産過程の攪乱

  {ここで〔 〕に括られた項目と表題は訳者によってつけられたものであり、第3節は、ここからはじまるパラグラフの冒頭に(3)と番号が打たれて、それ以降の課題が書かれてあるのを、それをそのまま表題にしたものであり、第4節は、内容的にここからは明らかに最後に書かれているプランにあるものと一致するということでつけられたもののようである。}

 いま単純に、先に紹介した第1稿の最後に書かれているプランと、第1稿本文の中の項目とを引き比べてみると、もし本文を書いてから、このプランが書かれたとするなら、プランの〈1、流通(再生産)の実体的諸条件〉に該当するのは次の三項目であろう。

 第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産
  第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)
〔第3節 再生産過程における固定資本の役割〕

 これは両者に共通な「再生産過程の弾力性」の位置から推し量ることができる。だからこれらの三項目に書かれている表題の内容を考察するということは、すなわち〈流通(再生産)の実体的諸条件〉を解明していくということだと分かる。

  いずれにしても、この第1稿の最後に書かれたプランそのものは、マルクスが第1稿を書いたあと、『資本論』第1巻の執筆に取り組み、それを刊行、後にようやく第2部第2稿の執筆に取り組み、それを途中まで書き上げたあとに、第2部全体を見渡してそのプランを第2稿の表紙に書いた時点では、すでに過去のものになったと考えるべきであろう。ただそうだと言っても、マルクス自身のプランに何か大きな変化や転換があったとは考えられない。事実、これらの三つのプラン、すなわち①第1稿の本文の中に書かれた項目、②第1稿の最後に書かれたプラン、③第2稿の表紙に書かれたプランについて、第3章に限ってみても、やはり内容的には引き継がれたものがあることが分かるのである。それが分かるように、第2稿の表紙に書かれた第2部全体のプランのうち、第3章の項目を紹介してみよう。

第3章 流通過程および再生産過程の現実的諸条件
  (1)社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値
  (A) 単純な規模での再生産
    (a)  貨幣流通による媒介なしの叙述
    (b)  貨幣流通による媒介を入れた叙述
  (B) 拡大された規模での再生産、蓄積
    (a)  貨幣流通なしの叙述
    (b)  貨幣流通による媒介を入れた叙述
  (2)

  {ここで(2)は項目番号が打たれているだけであるということである。}

 ここで「(1)社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値」というのは、内容的には、第1稿の本文の項目の「第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産」「第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)」の内容に合致するものであろう。だからまたそれはすでに指摘したように、第1稿のプランの〈流通(再生産)の実体的諸条件〉に通じ、よって第2稿の第3章の表題「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」に一致しているわけである。このようにマルクスの第2部第3章(篇)の構想そのものは基本的には第1稿からそれほど大きな変化もなく引き継がれていると考えるべきではないだろうか。

●「実体的諸条件」の意味の拡張?

  大谷氏は、第1稿でマルクスが〈実体的諸条件〉と述べている意味が、第2稿では拡張されて使われていると指摘している。確か大谷氏の先の『経済』連載論文でもそのような指摘があったが、その時にはその詳しい説明が省かれていた。私はそれについて次のように書いたことがある。

  【ついでにいうと、大谷氏は「実体的」という概念を第2稿では拡張しているとして次のように指摘されている。

 〈第2稿の第1章では、価値増殖過程での価値量の変化(増大)をも「実体的変化」と呼ぶことによって、この「実体的」という概念は価値の量的変化をも含むものに拡張された〉 (11頁下段)
 
 しかし具体的には第2稿の当該部分が引用されているわけでもなく、指示されてもいなので何とも確認しようがない(第2稿の第1章については、すでに八柳良次郎氏による翻訳があるのではあるが)。このあたりも少し配慮が必要なように思えた。
 因みに、この問題については、早坂啓造氏の詳細な考察がある(《『資本論』第II部の成立と新メガ》東北大学出版会、250-264頁)。ただし同氏も第1稿だけにもとづいて考察しているだけである。同氏は概念の拡張といった観点ではなく、マルクスはこの用語を「2様に使い分けて」いると指摘されている。これはただ参考のために紹介するだけであるが。】

  しかし今回、大谷氏はマルクスの諸草稿を紹介しながら、その意味の拡張について具体的に論じている。そのために、大谷氏は〈実体的変態〉という用語を検討し、次のように指摘されている。

  〈ところが,第2稿では,②P(生産過程)が「実体的変態」と呼ばれるのに,生産諸要因すなわち生産手段および労働力が生産物に変わるという使用価値の変化という意味のほかに,明らかにもう一つの意味が付け加わったのである。すなわち,この過程を通過するなかで資本価値が増大する,量的に変化する,という観点である。こうして,P(生産過程)は,二重の意味で「実体的変態」と呼ばれることになった。〉 (16-17頁)

  そして大谷氏はこのことをはっきり示している箇所として、第2稿からと第2稿と前後して書かれたという第4稿、さらには1877年にふたたび第2部の仕事にたち戻ろうとして、以前に書いた諸草稿の利用すべき諸箇所を摘要して作成したもの(エンゲルスは第2部序文で「最後の改定のための覚書」と呼んだ)から、幾つかの文書を紹介している。とえあえず、われわれは最後のもの(覚書の文章)を重引しておこう。

  〈「実体的変態〔reelle Metamorphose〕。二重に,すなわち素材的に,つまり新生産物,第2に,価値変化,価値増殖過程。」(MEGA②II/11,S.541.)〉 (18頁)

  こうして大谷氏は次のように結論している。

  〈以上のところからはっきりと読みとれるように,マルクスはいまや,生産過程は,労働過程としての観点において,および,価値増殖過程の観点において,ともに「実体的な変態」が生じる過程であり,前者においては使用価値の形態の変化が生じ,後者においては価値の量の変化=増大が生じるのだ,このような意味において,生産過程は二重の意味で「実体的変態」なのだ,という認識をもつようになったのである。〉 (18頁)

  つまり第1稿では、〈実体的変態〉という言葉は、生産過程において使用価値の異なる生産物に変わるという意味で使われていたが、第2稿では、〈実体的変態〉には、生産過程において資本価値の素材的担い手である使用価値が変化するという意味でだけではなく、価値も増大するとういう意味でも、マルクスは〈実体的変態〉と述べているというのである。そしてそれが第1稿から第2稿へのマルクスの問題意識の発展であり、展開だと主張されている。
   しかし大谷氏は、資本価値が増大することを、なぜマルクスは実体的な変態としてとらえているのかということを深く考えなかったように思われる。もしそれを深く考えたなら、そのような認識が第2部の諸草稿の第2稿の段階でマルクスがはじめて到達したなどということがありえないことが分かったであろう。(ついでにいえば、大谷氏は「資本価値」という用語を資本の運動の主体として捉えたのも第2稿になってからであるかに述べているが、これも噴飯ものといえるが、これについては項を改めて論じたい)。
  なぜ、マルクスは資本価値が増大することについて、それを実体的な変態だと述べているのであろうか。それは『資本論』の第1巻を読めば分かる。つまり第2部の第1稿の後の諸草稿が書かれる前に書かれた第1巻のなかにそれが書かれているのである。
  資本の価値が増大するということは、最初に投じた貨幣資本GがG'になるということである。そしてそのために最初に投じたG(貨幣資本)は、まず生産過程に必要な、商品資本と商品に、つまり生産手段と労働力に転化しなければならない。この貨幣資本の生産資本への転化をマルクスは形態的な変態と述べているわけである(もちろん、生産された商品資本(W')を貨幣資本(G')に転化する過程も、やはり形態的な変態である)。それにたいして、資本はその価値を増殖するためには、貨幣資本から転化した生産資本の現物形態である生産手段と労働力を使って、新たな使用価値を生産しなければならない。それがすなわち実体的な変態である。そしてその過程を通して、資本はその最初に投じた資本を維持するだけではなく、増殖するわけである。では、それが行われるということはどういうことであろうか。生産過程で何が行われているのか。まず生産過程で消費される生産諸手段の価値が、その生産過程のなかで維持されるばかりでなく、新たな使用価値(生産物)の価値として移転され保持される必要がある。そしてこうした価値の保持と移転が行われるのは、まさに生産過程の実体的な過程においてなのである。マルクスは次のように述べている。

 〈生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれる。労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。〉 (全集23a270頁)

  労働者がその労働の特定の有用な形態で生産手段に働きかけ、それを加工し、変形して、要するに生産的に消費して、新たな生産物(使用価値)を形成するという実体的な変態の過程こそ、同時に、生産手段の価値を維持し移転させる過程なのである。この生産手段の価値の移転と保持は具体的有用労働の契機によって行われる実体的な過程である。そして労働者はいうまでもなく、生産手段の価値を移転し保持するだけでなく、その過程を通じて新たな価値をも付け加えるのであるが、労働者は自身の労働力の価値部分を越えてそれを行うのであり、だからこそ資本価値は増殖するわけである。そしてこうしたことからマルクスは資本価値の増殖を実体的な変態の過程だと述べているのである。資本価値の形態の変態(G-W、W'-G')は資本の流通過程の問題であり、価値の大きさには何の変化ももたらさない。だから資本価値の量的変化は、生産過程という実体的過程において行われるわけである。だからマルクスは資本価値の増大を実体的な変態としているのである。
  だから敢えていうまでもないが、こうしたことは『資本論』の第1巻を執筆し終えていたマルクスにとっては当然了解済みのことであり、第2部の第2稿の執筆段階において始めて獲得されたというようなものでないことは明らかである。大谷氏はマルクスの文章の字面だけを追って、その内容を深く考えることをしなかったために、こうした誤りに陥ったのであろう。

●「資本価値」も概念的把握は第2稿からだって?(商品価値と資本価値)

  大谷氏は先の〈実体的変態〉の意味を二重の意味として、マルクスが第2稿ではじめて獲得したものであると論じたあとに、すぐに続いて、次のように述べている。

〈この認識(つまり〈実体的変態〉を二重の意味でとらえるという認識--引用者)は, じつは,第1稿までにはなかった, もう一つの概念的把握の誕生と結びついていた。それは,「資本価値〔Capitalwerth〕」という概念である。〉 (18頁)

  こういう主張を聞いて、多くの人は驚くであろう。そして実際、大谷氏もそれを予想して、次のように続けている。

〈「資本価値」という概念は, きわめてありふれたもので,それが新たな概念的把握だなどと言うのは滑稽きわまる, という粗忽な論者もあるに違いない。
  もちろん,マルクスは『経済学批判要綱』以前から,資本が運動するなかで増殖する価値であることを知っており, したがってそのような資本の価値を「資本価値」と呼んだことも当然にあってしかるべきだ,と言つてもいいであろう。
  ところが,『経済学批判要綱』でも『1861-1863年草稿』でも,運動の主体としての「資本」についてはいたるところで語られているけれども,「資本価値」が資本の循環運動のなかで量的に増大して行く「主体」として注目されている箇所はほとんど存在しない。およそ,「資本価値〔Capitalwerth〕」という語がきわめてわずかしか使われていないのである。
   このいわば平凡きわまる「資本価値」という概念は,いま見ている第2部の第4稿および第2稿で使われ始めると,このあと,重要な概念としていたるところに登場するようになるのである。〉
(18頁)

  はっきり言って、私も、大谷氏がいうところの、その〈粗忽な論者〉の一人であることを正直に認めざるを得ない。しかし、果たしてどちらが〈粗忽な論者〉なのであろうか。
  マルクスが「資本価値」という用語を資本の運動の主体としてとらえて、それが増殖していくものとして捉えているのは、第2部第2稿の段階からだなどという馬鹿げた主張をしている人こそ、〈粗忽な論者〉とは言えないか。
  例えば、マルクスは、すでに商品の流通においても、「商品価値」を主体としてとらえて、その姿を商品体から金体へと変換していくものと捉えている。だから資本の運動においても、その主体が「資本価値」であることは、マルクスにとってはまったく自明のことである。まず「商品価値」について、マルクスはどのように述べていたかを見てみよう。

 〈W-G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔本全集、第13巻、71(原)ページ〕、商品の命がけの飛躍である。〉 (全集23a141頁、赤字は引用者)

  次ぎに「資本価値」についても、マルクスは次のように述べている。

 〈われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。〉 (全集23a273頁、赤字は引用者)

  このようにマルクスは資本の増殖を資本価値を主体としてそれが増大するものと捉えている。これは『資本論』第1部であるから、いうまでもなく、第2部第2稿の前に書かれたものである。〈粗忽な論者〉が誰かは明白である。

●第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」についても、意味の変化があった?

  上記のように、大谷氏は〈実体的変態〉の意味が第1稿から第2稿に移る過程で、その意味が拡張して使われているとし、そしてそこから次のような結論を導き出す。

  〈このように,第1稿での「再生産の実体的変態」では,それが「実体的」と呼ばれたのが,資本の使用価値の形態変化についてであったのにたいして,第2稿での「資本価値の実体的変態」では,いまや,使用価値の形態の変化についてだけでなく,価値の量的変化についても「実体的な変態」と呼ばれるようになったとすれば,第3章のタイトルとされた「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」についても,それに対応する意味の変化があったと考えるのが至当であろう。〉 (19頁)

  こうした意味の変化は〈どのような新しい合意を得ていると考えられるであろうか〉(20頁)というのが、次の大谷氏の問題意識である。そしてそれは「資本価値」を主体として捉えて、それが実体的な変態を通過するだけではなく、価値量の増大という実体的変態をも通過するという二重の観点からみられた「諸条件」だというのである。次のように述べている。やや長くなるが、正確を期すために必要な部分を全文紹介しておこう。

  〈すなわち,一方では, どの個別資本も,「一般的商品流通のなかで貨幣として,あるいは商品として機能」し,G-WおよびW′-G′によって「商品世界の諸変態列のなかでつなぎ合わされて〔verkettet〕いる」, という観点,他方では,個別資本が「一般的商品流通の内部で取つたり捨てたりする諸形態」は,「過程を進行する資本価値の機能的に規定された諸形態」にすぎず, どの個別資本も,「生産部面を一つの通過段階とする自己自身の自立的な循環」を描いて,つねにその出発点での形態に戻つてくる」, という観点,この二重の観点である。
  もちろん,一般的商品流通の内部で「つなぎ合わされている」のは,個別資本の自立的な循環の相互のあいだだけではなく,さらに,資本家の剰余価値を表わしている商品生産物=商品資本の価値部分の自立的な変態,および,労働力のW-G-Wという商品変態をも加えなければならない。しかし,資本価値の自立的循環,剰余価値の自立的変態,労働力商品の自立的変態,の三つの循環ないし変態をそれぞれ自立的な運動としてとらえて,これらの自立的な運動相互間の「つなぎ合わせ〔Verkettung〕」ないし「絡み合い〔Verschlingung〕」をとらえる, という視点のかなめは,過程の全体を統括する〔ibergreifen〕資本の運動を「過程を進行する資本価値」の自立的循環としてとらえることにある。この把握の徹底は,剰余価値の自立的変態運動および労働力商品の自立的変態という他の二つの自立的運動をそのようなものとしてとらえて,これらと「過程を進行する資本価値」の循環との「絡み合い」を解明する,という新たな視点を切り開くことになるのである。ここで「新たな視点」というのは,第1稿では,社会的再生産過程を三つの異なる自立的な変態ないし循環の「絡み合い」としてとらえる観点が, ときおりあちらこちらで見え隠れしてはいても,基本的な視角とはなっていなかったのたいして,第2稿では,まさにこの観点こそが,社会的再生産過程を分析するさいの基本的観点となっているからである。ここに,第1稿に対する第2稿の「新しさ」がある。〉
(20頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

  しかしこうした大谷氏が指摘する「新しさ」なるものも眉唾物である。というのは、われわれが最初にみた、第1稿の本文の項目を思い出してみよう。それは次のようなものであった。

第3章 流通と再生産
  第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産
  第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)

  大谷氏によれば、こうした観点は第2稿や第8稿では「克服」されるらしいのだが、ここでマルクスが「資本と資本との交換」や「資本と収入との交換」「収入と収入」との交換をそれぞれ独自に見ているということは、それらが独自の運動をするとともに絡み合っているということではないのか。その全体をとらえるために、まずはそれぞれを独自に考察するということではないだろうか。そんな観点が、第2稿で新たに獲得された「新しい」観点だなどといわれるとそれまでのマルクスの考察を振り返ると納得がいかないのである。
  そして大谷氏は、以上の観点を端的に示しているものとして、第2稿の第3章の冒頭部分の中で第3章での分析を特徴づけている次の一文だというのである(この一文は現行版の第3篇第18章第1節「研究の対象」の最後の部分に使われている)。

  〈「個別資本の循環は,互いに絡み合い,互いに前提し合い,互いに条件をなし合っているのであって,まさにこの絡み合いというかたちをとって社会的総資本の運動を形成している。単純な商品流通の場合に一商品の総変態が商品世界の変態列の環として現われたように,いまでは個別資本の変態が社会的資本の変態列の環として現われる。しかし,単純な商品流通はけつして必然的には資本の流通を含んではいなかったが--というのも,それは非資本主義的な生産の基礎の上でも行なわれうるのだからである--,すでに述べたように,社会的総資本の流通,循環は,個々の資本の循環には属さない商品流通,すなわち資本を形成しない諸商品の流通をも含んでいる。/そこで今度は,社会的総資本の構成部分としての個別諸資本の流通過程(その総体において再生産過程の形態であるもの)が,つまりこうした社会的総資本の流通過程が,考察されなければならない。」(MEGA②II/11,S.342-343;MEW24,S.353-354.)〉 (21頁)

  確かにこれは第3章の課題を明らかにするものであるが、しかし大谷氏が自説を〈端的に示している〉というのであるが、しかし残念ながら、このマルクスのこの一文には大谷氏が〈視点のかなめ〉とする、「資本価値」という文言そのものが見当たらない。そもそも〈これらの自立的な運動相互間の「つなぎ合わせ〔Verkettung〕」ないし「絡み合い〔Verschlingung〕」をとらえる, という視点のかなめは,過程の全体を統括する〔ibergreifen〕資本の運動を「過程を進行する資本価値」の自立的循環としてとらえることにある〉と力説されていた観点が、果たして上記のマルクスの一文にはあるであろうか。

  上記の一文でマルクスが述べているのは、次のようなことである。

  (1)個別資本の循環は、互いに絡みあい、互いに前提し合い、互いに条件をなしあって、社会的総資本の運動を形成している。
  (2)(個別資本の循環を考察している限りでは)、単純な商品流通は決して必然的に資本の流通を含んでいなかったが、社会的総資本の流通、循環は、個々の資本の循環には属さない商品流通、資本を形成しない流通をも含んでいる。
  (3)だから、今度は、社会的総資本の構成部分としての流通過程、つまりこうした社会的総資本の流通過程が考察される。

  この三つの項目で、例えば(1)で述べていることが、果たして第2稿でマルクスが新しく到達した観点だなどとは言えないことは明らかではないか。例えば第1稿の第3章の全体がそうしたものの考察といえるし、「第7節 再生産過程の並行、段階的連続、上向的進行、循環」や、とりわけそのなかにある小項目「再生産における資本の実体的変態」では、まさにそうした個別資本の循環の社会的な絡み合いや、相互の前提関係、条件をなしあう関係が考察されているのである。文言として〈個別資本の循環は,互いに絡み合い,互いに前提し合い,互いに条件をなし合っているのであって,まさにこの絡み合いというかたちをとって社会的総資本の運動を形成している〉という一文があるかどうかではなく、第1稿第3章で論じられている内容を考えれば、まさにそした文言に合致するものが考察されているのである。
  そもそも(1)で述べられているようなことは、ある意味では直感的にでも捉えられるようなことである。実際の諸資本の運動の内的関連やその法則性を解明し、社会的総資本の運動全体を解明していくことは、決して簡単なことではないし、詳しい科学的な考察を必要とするが、社会的な総資本の運動が、それを構成するさまさまな個別資本の、個々別々の運動が互いに絡まりあい、相互に前提し合い、条件づけあっているというような認識は、別に科学的な認識なくしても、現象的をただあるがままに見るだけでもわかる道理ではないだろうか。
 では(2)はどうであろうか。社会的総資本の流通や循環では、個々の資本の循環を考察している限りでは、入ってこなかった単純な商品流通、つまり労働者や資本家の消費を媒介する流通も考察の対象に入ってくるというのは、別に第2稿で新しく獲得された観点などではない。これもすでに第1稿でも述べられている。
 つまり大谷氏が〈ここに,第1稿に対する第2稿の「新しさ」がある〉と述べ、それを〈端的に示している〉とする一文には、まったく第2稿で新しく獲得されたものといえるようなものは何もないということである。

(以下、3に続く)

2018年3月15日 (木)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(1)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(1)

◎はじめに

 《「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか》というのは、これから批判的に検討する大谷禎之介氏の論文のタイトルである(なお、以下の中見出しもすべて大谷氏の論文のものをそのまま紹介したものである)。正確なものは《「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか--『資本論』第2部形成史の一齣--》というもの。『立教経済研究』第66巻第4号(2013年)に収められている(この論文は公開されていて、ここで見ることができる)。
 この論文が発表されてすでに5年も経ってしまったが、私はようやくこの論文の存在を知り、読むことができた。なぜ、今になって批判的に検討して、しかもこのブログに発表することにしたのかというと、この論文がこのブログでも取り上げたことのある大谷氏の以前の『経済』連載論文(「第2部仕上げのための苦闘の軌跡――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――」09年3・4・5月号掲載)の補足として書かれたもののようだからである。先の論文を批判的に検討した手前、やはり今回の論文も検討せざるを得ないと思ったわけである。だから、当然、今回、この論文を検討するにあたり、以前の私自身の書いたものも必要に応じて、とりあげることになった。
  先の『経済』連載論文では、MEGA第11巻刊行によせて書かれたという性格から主に第2部第2稿から始まる諸草稿に言及したものだが、それ以前に刊行されていた第2部第1稿については、それらの諸草稿に関連するかぎりでとりあげただけだったとして、大谷氏は今回の論文の課題を次のように述べている。

 〈とりわけ, 第1稿, 第2稿, 第8稿と三たびにわたって執筆された第3章--第1稿および第2稿での「章」はのちに「篇」と呼び換えられたので第8稿では第3篇--の課題についてのマルクスの把握について, 第2稿第3章でのタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」が, 第1稿での第3章の課題設定を引き継いだものであったことは述べたものの, マルクスが第1稿のときにこのタイトルのもとでどのようなことを考えていたのか, 第2稿の執筆時にもこのタイトルで第1稿のときと同じことを考えていたのか, ということをマルクスの叙述に即して説明することはしなかった。
  本稿では, 第1稿を引き継いで, 第2稿の第3章に付された「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルでマルクスがどのようなことを考えていたのか, ということを,まず第1稿でのマルクスの記述から読み取り, それが第2稿にどのように引き継がれ, またどのように変更が加えられたのか, を見ることにしたい。〉
(1頁)

◎1、第3章を第1章および第2章から区別するもの

  さて、大谷氏は上記の課題を果たすために、まず〈第3章を第1章および第2章から区別するもの〉を問題にしている。ここで第3章、第1章、第2章というのは、第1稿や第2稿の段階のもので、現行版では第3篇、第1篇、第2篇のことである。つまり第3篇は、第1篇や第2篇とどのような点で区別されるのか、ということである。これを端的に示すものとして、大谷氏は第1稿の一文を紹介して次のように述べている。

〈マルクスは第1稿の第3章にはいってまもなく,次のように書いている。

  「資本の総流通過程=再生産過程のこれまでの考察では,われわれはこの過程が経過する諸契機あるいは諸局面を,ただ形態的に〔formell〕考察してきただけであった。これにたいして,今度はわれわれは,この過程が進行できるための実体的な〔real〕諸条件を研究しなければならない。」(MEGA② I1/4.1,S.302.以下,引用のなかでの下線はマルクスによる強調であり,太字は引用者による強調である。)

  ここでマルクスは,これまでの第1章および第2章もこれからの第3章もともに「資本の総流通過程=再生産過程〔der gesammte Circulationsproceß=Reproductionsproceß〕」を考察するのだが,前の二つの章では「この過程〔すなわち資本の総流通過程=再生産過程〕が経過する諸契機あるいは諸局面」をただ「形態的に考察」してきたのにたいして,こんどの第3章では「この過程〔すなわち資本の総流通過程=再生産過程〕が進行できるための実体的な諸条件」を研究するのだ,と言つている。ここで第3章について言われているものが「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」という第2稿第3章のタイトルと完全に合致していることは明らかである。〉 (2-3頁)

  こうしたことから、大谷氏は第1稿の本文の第3章の実際のタイトル「流通と再生産」は、「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」という第2稿につけられたタイトルの短縮形だと次のように述べている。

 〈第2稿の第3章は「流通過程および再生産過程の実体的諸条件〔Die reale Bedingungen des Cirkulations- u..Reproduktionsprozesses.〕」(MEGA②Ⅱ/11,S.340)というタイトルをもつ。第1稿の第3章につけられたタイトルは「流通と再生産〔Circulation u Reproduction〕」(MEGA②Ⅱ/4.1,S.301)であったが, じつは,第1稿の第3章でマルクスが書こうとしていたものの実際の内容が第2稿第3章のタイトルに合致するものであって,第1稿での「流通と再生産」というタイトルは第2稿での「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルのいわば短縮形であったことは,第1稿の各所での記述から明確に読み取ることができる。〉 (2頁)

  そして大谷氏は第1稿から幾つかの抜粋を紹介して、そこから「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」としてマルクスは何を考えていたのかを次のように説明する。

〈すなわち,「流通過程および再生産過程が進行できるための諸条件」とは,「資本の生産物」として, したがって「商品資本」として存在する「諸商品」の「相互のあいだの交換」の「実体的な諸条件」である。この「諸商品」とは,一部は消費手段の使用価値形態にある商品であり,他の一部は生産手段の使用価値形態にある商品であるが,マルクスはここでは前者を「資本家にとつてであれ労働者にとってであれ収入をなす諸商品」ないし「収入にはいる商品資本」と呼び,後者を「不変資本の構成要素をなす諸商品」ないし「不変資本を形成する商品資本」と呼ぶ。マルクスはここでは,「収入にはいる商品資本と不変資本を形成する商品資本との交換」と「不変資本を形成する商品資本の相互のあいだの交換」との二つを挙げているが,これにはさらに「収入にはいる商品資本の相互のあいだの交換」をも加えるべきであったろう。こうした「商品資本の相互のあいだの交換が行なわれなければならない」のは,それによってのみ,「収入をなすべき諸商品」が資本家および労働者の手に渡って実際に収入となり,「不変資本の構成要素をなす諸商品」が両部門の資本家の手に渡って実際に不変資本となるのだからである。ここでのマルクスはこのように考えているので,貨幣形態での可変資本の前貸も,それによって可変資本が労働力の形態に転化することも,また,労働者が「収入」によつて再生産した労働力を商品として資本家に販売することも,そうした「商品資本の相互のあいだの交換」の視野のそとに置かれている。そして,「こうした交換の実体的な諸条件」こそが, ここで「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」という句で考えられていたものなのである。 〉 (3頁)

  さらに第1稿からの抜粋が続くが、それは割愛して、大谷氏の結論だけを紹介しておこう。

  〈これらの記述から,ほとんどただちに,第1稿での,第3章を第1章および第2章から峻別するキーワードが,後者における「形態的な〔formal,formell〕」諸規定ないし形態規定性にたいする,前者における「実体的な〔real,reell〕」諸規定,諸契機,諸側面,諸条件であることが読みとれるであろう。〉 (4頁)

  これまで大谷氏の主張されていることをただ概略的に抜粋して紹介しているだけであるが、それはそれらの主張されていることに私自身は何の異論も問題も感じないからである。以下のものも異論のないかぎりでは、ただ大谷氏の主張を紹介するだけにとどめる。

◎2.「実体的な〔real,reell〕」という語の意味

   上記の中見出しも大谷氏の論文のものをそのまま紹介したものであるが、ここでは言葉の意味をあれこれ細かく見ているだけなので、われわれとしてはパスしたい。興味のある方は大谷氏の論文を参照されたし。

◎3.マルクスは「実体的」という語でなにを考えていたのか

  この論文のタイトルを思い出していただきたい。〈「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか〉というものである。このタイトルにある〈実体的諸条件〉の意味を探るために、大谷氏は〈実体的な変態〉という用語に注目して、第1稿におけるこの用語の使用例を丁寧に辿ってみていく。しかしわれわれはそれを詳しく追うことはやめておく。それをやるとただ大谷氏の論文をながながと紹介するだけになるからである。とりあえず、われわれはその結論らしきものだけを紹介しておこう。

 〈以上,マルクスが第1稿で「実体的変態」と呼んだものを見てきたが,見られるように,いずれも,使用価値の姿態の変化を伴う変態,過程である。〉 (9頁)
  〈以上のところから,マルクスが第2部第1稿でrealという語を,貨幣から商品へ,商品から貨幣へ,という社会的形態の変化だけにかかわるformal,formellにたいして,使用価値の変化をもたらす,あるいはそれを準備する, という意味で使ったことが分かる。〉 (10頁)

◎4.第3章プランでの「流通(再生産)の実体的諸条件」の意味は?

  このタイトルにある〈第3章プランでの「流通(再生産)の実体的諸条件」〉というのは、第1稿の一番最後に、マルクスが第3章のプランを次のように書いたものを指している。

  〈したがって、この第3章の項目は次の通りである。
1、流通(再生産)の実体的諸条件
2、再生産の弾力性
3、蓄積あるいは拡大された規模での再生産
   3a、蓄積を媒介する貨幣流通
4、再生産過程の並行上向的進行での連続循環
5、必要労働と剰余労働
6、再生産過程の攪乱
7、第3部への移行
(『資本の流通過程』『資本論』第2部第1稿〔大月書店〕294頁)

  大谷氏はマルクスが第1稿の最後のプランのなかで〈流通(再生産)の実体的諸条件〉と書いたとき、何を考えていたのかを第1稿から幾つかの抜き書きを紹介しながら、探っている。そして次のように述べている。

  〈第1稿の第3章で,マルクスは,社会的総生産物を使用価値の観点から消費手段として消費される生産物と生産手段として消費される生産物との二つの部類に区別し,これに対応して,社会の総生産を消費手段生産部門と生産手段生産部門との二大部門に区別したうえで,両部門の総生産物=総商品の価値諸成分--すなわち不変資本価値,可変資本価値,剰余価値--が流通過程における形態的な諸変態W-G-Wを通じて互いに転換しあい,それぞれのWが他のWによって自己を補填する過程--これは労働者のWすなわち労働力(Ak)が形態的な変態W(Ak)-G-W(Km)を通じて,自己を再生産すべき消費手段(Km)に転換する過程を含むべきものである--を分析し,「この経過が進行しうるための実体的な諸条件」(MEGA②II/4.1,S.302),「こうした交換の実体的な諸条件」(MEGA②II/4.1,S.306)を研究する。この「諸条件」が「実体的」と呼ばれているのは,まさに,そうした流通過程, したがつてまた再生産過程が,生産過程--ならびに労働者の個人的消費過程における労働力の再生産--における実体的な変態によって規定される,社会的総生産物の使用価値のさまざまの姿態の相違によって制約されている,ということによるのである。〉 (10-11頁、下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による強調)
〈この「実体的な素材変換」は,両部門の生産物の内部での価値から見た構成部分によつても条件づけられており,制約されている。このことは,マルクスが第1章の冒頭で,「第3章で行なうように,流通過程を現実の〔wirklich〕再生産過程および蓄積過程として考察するさいには,たんに形態を考察するだけではなくて,次のような実体的な〔reell〕諸契機が付け加わる」と言つて,まず「(1)実体的な〔real〕再生産……に必要な諸使用価値が再生産され,かつ相互に条件づけ合う,その仕方」を挙げたあと,さらに,「(2)再生産は,再生産を構成するその諸契機の,前提された価値・価格諸関係によって条件づけられているのであるが,この諸関係は,諸商品がその価値で売られる場合は,労働の生産力の変化によって生じるその真実価値の変動によって変化しうるものである」ということ,および,「(3)流通過程によって媒介されたものとして表現される不変資本,可変資本,剰余価値の関係」,の三つを挙げているところに見ることができる(MEGA②II/4/1,S.140-141)。〉 (11頁、同)
 〈このような「実体的諸条件」を把握するために,再生産過程を媒介する流通過程W-G-Wを分析するさいには,この変態の始点であるWの使用価値と終点であるWの使用価値との違いが決定的である。これを媒介する貨幣流通は,それ自体としては形態的な(formell)契機に属するのであり,これを度外視することによって実体的な転態が求める「実体的諸条件」をつかみだす,というのが,第1稿の第3章でなによりもまず果たさなければならない課題としてマルクスが意識していたものだった, と言うことができるであろう。〉 (12頁)

  とりあえず、これも大谷氏の説明をただ紹介するだけにしておこう。

◎5.「貨幣流通なし」と「貨幣流通を伴う」との二段構えによる叙述方法

  大谷氏はこうしたいわゆる「二段構えによる叙述方法」の必要なことについて、マルクスが第1稿で述べている部分を紹介しているので、われわれもそれをただ重引紹介するだけにしておく。後に、大谷氏はこうした叙述方法をマルクスは第8稿では廃棄したと主張されるのであるが、それはそのときにまた検討することにする。

 〈「これまでの考察から,次のことが明らかになっている。--貨幣は,一方では,諸商品が一般的消費フアンドにはいるための通過点として役立つにすぎず,また資本が可変資本であるかぎりでは,貨幣は,労働者たちにとっては,彼らの消費用の必需品を買うための通貨に帰着するのであり,他方では貨幣は,資本が完成生産物の形態から自己の対象的な生産諸要素の現物形態に再転化するための通過点として役立つにすぎない。そのかぎりでは資本の貨幣形態は,商品の変態W-G-Wにおける貨幣一般と同様に,再生産の,媒介的かつ瞬過的な形態として〔機能する〕にすぎないし,また,現実的再生産過程そのものとはなんのかかわりももたない。ただ一つの例外をなすのは,貨幣資本すなわち貨幣形態にある資本が遊休資本を表わし,またそれが,生産資本として機能することが予定されてはいるがまだ現実にはそうしたものとして機能していないというその合い間にある資本を表わしている場合である。したがってそれは,この形態ではまだ流通過程および再生産過程にはまったくはいっていかない。それゆえ,以上に述べたところから次のことが出てくる。--貨幣は,それが資本の形態として現実に機能するかぎりでは,現実的再生産過程の形式的かつ瞬過的な媒介にすぎない。貨幣は,それが自立して自己を固守するかぎりでは,再生産過程にはまだまつたくはいつていないのであり,ただ,それにはいることが予定されているだけである。したがってどちらの場合にも,実体的な再生産過程の考察のためには,貨幣をひとまず捨象することができるのである(つまり,資本が貨幣に形態的に転化すること,資本が貨幣形態を周期的にとることが,摩擦なしに行なわれるものと想定する場合には〔そうすることができるのであり〕,またじっさいわれわれはさしあたりこのように想定するのである)。それゆえわれわれは,この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する。われわれはそれを,せいぜい,現実的再生産過程を考察することによつて貨幣流通にとつての特殊的規定がこの過程の契機として生じてくる場合に,ときおり考慮に入れるだけである。」(MEGA②II/4.1,S.302-305.)〉 (12-13頁、下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による強調)

  なお、大谷氏はマルクスは「61-63草稿」の段階でもこうした二段構えの叙述の方法をとるべきだ、という考えを述べていると指摘されているが、これは各自、草稿に当たって確認して頂きたい。私も一応、確認してみたが、それほど明示的にマルクスが述べているわけではないように思えた。確かに資本の変態のうち、労働過程で行われる実体的な変態は流通過程における形態的な変態とは無関係であり(草稿集⑨559頁)、貨幣を伴うケースは、後に考察する(同571頁)という文言は見られる。

(以下、2に続く)

2009年11月 7日 (土)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その66)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その6)

 さらにこのマルクスの冒頭の敍述を見てわれわれは奇妙なことに気付く。マルクスは単純再生産の最後に部門 I の4000cの考察をやろうとしているのであるが、その冒頭で I (1000v+1000m)とII(2000c)との関連やII(500v+500m)の内部の相互転換、および《単純再生産の全構図》については、《後に立ち戻ることの保留をつけて》やると述べている。これが奇妙であるのは一見して明らかだ。というのはマルクスはこの第8稿の単純再生産の部分では、以前にも紹介したが、市原氏によると次のような順序で考察しているのである。

(1)「第3節 両大部門間の変換-- I (v+m)対IIc」
(2)「第4節 大部門IIの内部での変換。必要生活手段と奢侈品」
(3)「第5節 貨幣流通による諸変換の媒介」
(4)「第11節 固定資本の補填」
(5)「第12節 貨幣材料の再生産」
(6)「第10節 資本と収入--可変資本と労賃」

 つまりマルクスがここで《後に立ち戻ることの保留をつけて》と述べている問題は、実際には草稿ではすでに考察済みの問題なのである。にも関わらず、ここでマルクスがこのように断っているということは、このマルクスの断りは、実際のこれまでの草稿での敍述を前提にしたものではないということを示している。それならそれは何を前提にしているのか。それはいうまでもなく、本来マルクスが構想している執筆順序以外の何物でもない。つまり将来まとめるであろう完全稿では、マルクスは I )4000cの考察を最初にやる考えであるということである。あるいはもしエンゲルスに編集を委ねることを前提にしているなら、エンゲルスにこの部分が単純再生産の冒頭に来るべきことを知らしめるために書いているということである。
 つまりマルクス自身のプランとしてはまず最初に部門 I の4000cの考察が来て、そのあと I (1000v+1000m)とII(2000c)との関係が考察され、さらにII(500v+500m)内部の相互転換が考察され、そして最後に《単純再生産の全構図》が考察される予定であったということである。だからこれは以前、「二段階の敍述構想」の放棄という、プランの変更をマルクス自身は果たして考えていたのかどうか、という問題を論じたときに、われわれが指摘していたとおりに、やはりマルクス自身は第8稿の段階でも、第2稿の敍述と同じように(しかし生産手段の生産部門を部門 IIから部門 I にし、生活手段の生産部門を部門 I から部門IIにするという、位置づけの変化に対応させてではあるが)、部門 I の不変資本の転換の考察⇒両部門の転換の考察⇒部門IIの内部の転換の考察⇒全体の構図の考察、という順序で考えていたことが分かるのである(そしてこの点では早坂啓造氏の問題提起は的確であったことが分かる)。これを見てもマルクス自身には第2稿の段階で立てたプランを変更する意図など第8稿の段階でも、まったく無かったことが明瞭に分かるのである。
 とするなら、大谷氏が単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が自己のこれまでの見解を自己批判をしているという部分は、単純再生産を締めくくるどころか、本来は単純再生産の一番最初に論じなければならない部門 I の不変資本の転換をマルクスが単純再生産の考察の最後で論じているだけのものだと考えなければならないのである(このように敍述の順序が前後するのは、他方で第8稿の性格を物語っている。すなわちそれはあくまでもノートであり、しかも第2稿で明らかにした全体のプランをべーすに第2稿の敍述の不十分さや欠落個所を部分的に補足するために書かれているという性格をである)。そして実際、現行の第10節の敍述を追ってみると、確かに最初の部分は明らかにマルクスの問題意識が不変資本の考察にあることが分かるのである(そうした問題意識でこの冒頭部分を読んでむしろ初めてマルクスは何を言おうとしているのかが分かったほどである)。しかし途中からどうやらマルクスの問題意識は変化していくような感じも受けるのである。実際、市原健志氏も次のように指摘している。

 〈つまり第10節の対象は I )4000cの考察であったことになる。そして実際そうした文章を受けて続けて読むならば,第10節の初めの部分(現行版435ページ8行目〔邦訳,699ページ3行目〕から437ページ2行目〔邦訳,7011ページ9行目〕まで)は,確かに部門 I の不変資本に関連した叙述を展開しているように見える。しかし,そのあとでは,なぜかマルクスはエンゲルスによって付けられた第10節の表題「資本と収入--可変資本と労賃」に一致する内容に考察の対象を絞っていってしまう。したがって結局,この第10節では I)4000cの考察はせずに終り,ついに「第20章 単純再生産」に該当する第8稿の部分ではこのことの考察ははずされる結果になった。〉(同論文上146頁、なお邦訳頁数は新日本新書版のもの)

 このように市原氏もいうのであるが、しかしもしマルクス自身の問題意識がそのように変化したのなら、マルクスは恐らく草稿にそうしたことを書いたのではないかと思う。つまりそういう断りを入れるか、あるいは横線でも引いて、ここからは違う問題を論じるということがわかるようにした筈である。しかし市原氏の草稿解読ではそうした断りや横線などは見当たらないのである。だからマルクス自身は恐らく最初に立てた問題を追究しているのではないかという見当が立つのである。

 問題はなぜ、マルクスは最初は部門 I の4000cの考察を行なうと断って始めているのに、そして実際、最初の部分では明らかに不変資本cの考察を行なっていると思えるのに、どうして途中から I (1000v+1000m)とII(2000c)の貨幣流通による媒介を入れた補填関係を、特に I (1000v)とII(1000c)とのそれの考察に移ってしまっているように思えるのかということである。

 結局、この問題を考えるためには、エンゲルスが「第10節 資本と収入、可変資本と補填」 とした部分の草稿全体を復元して、マルクスの敍述を逐一追って、その詳細な解読を行なう以外にないのである。しかしそうすると、あまりにも問題が横道に逸れ過ぎてしまうことになってしまう。だからわれわれは、とりあえずはこの問題は保留し、後にもう一度この問題には立ち返ることにしてまずは大谷氏の敍述を追って行くことにしよう。

 大谷氏は先の引用文で〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、以下のマルクスの一文を引用し、さらにそれを次のように論じている。

 〈「今はやりの観念――{俗物と一部の経済学者たちはこの観念によって理論的な困難から、すなわち現実の関連の理解から、わが身を遠ざけているのだ}、すなわち、一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念は、部分的には正しいにしても、もし一般的にそう観念するなら、まったくまちがいになる――つまり、それは、年間再生産に伴って行なわれる全転換過程の完全な誤解を含んでおり、したがってまた部分的には正しいことの事実的基礎に関する誤解を含んでいる。――。そこで、われわれは、この見解の部分的な正しさの基礎をなしている事実的諸関係をまとめてみることにしよう。そうすれば同時にこの諸関係のまちがった把握も明らかになるであろう。」(S. 780.31–41.)
 ここで言う、「一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念」こそ、まさに、上に引用した第八稿の第一層でのマルクスのそれであり、第一稿での「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握そのものである。マルクスはここで、かつての自分の「誤解」とそれを生みだした「事実的諸関係」を明らかにしようとする。〉
(下188-9頁)

 この引用文の内容に対する大谷氏の解釈を問題にする前に、大谷氏は先にも紹介したが、〈マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う〉として、上記の引用文を紹介するのであるが、そもそも〈社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていること〉と引用文の内容が、どのように関連しているのかが、大谷氏の説明ではまったく分からないということである。どうして上記のような説明のあと、マルクスは《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明に入っているのであろうか。それがさっぱり分からないのである。どうして年間総生産物の価値が生産手段によって移転された価値とその年に支出された人間的労働の対象化された価値とを含むことや、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられているということが、《一方にとって資本であるものは他方にとっては収入であり、またその逆である、という観念》の説明と結びついているのであろうか、それがさっぱり分からないのである。
 これは分からないのは、ある意味では当然なのである。というのは、大谷氏が上記にまとめている部分と引用文との間には、マルクスの一連の敍述が挟まっており、それを大谷氏はここでは飛ばして、その二つ部分をただ機械的にくっつけているだけなのだからである。しかしこの大谷氏が飛ばしている部分は、どうしてマルクスは最初に「 I )4000c」の考察を行なうと言明しながら、途中から「 I )1000v」と「II)1000c」との貨幣流通を媒介にした補填関係の考察に移ってしまっているのかを考える上で重要な部分なのである。
 だからこの問題も、結局は、やはり草稿そのものをマルクスの敍述を丁寧に追って考えてみるしかないわけである。よってこの問題も、われわれはやはり後回しにしなければならない。しかし大谷氏はこうしたマルクスの問題意識のつながりや展開について何の注意も払わずに、問題を論じていることがよく分かるであろう。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 6日 (金)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その65)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その5)

 さて大谷氏は以上のようなマルクスの問題ある敍述(ただ氏がそう考えるだけなのだが)を指摘したあと、次のように述べている。

 〈このような表現は、第8稿の第二層では完全に消える。消えるだけではない。マルクスは、自分がかつて頻繁に使っていたそのような表現を明示的に掲げたうえで、それを批判する。すなわち、彼はここで、はっきりと自己批判をしているのである。〉(下188頁)

 しかしわれわれは大谷氏が第8稿の〈第一層〉と言われている部分においても、マルクス自身は決して間違って問題を論じていなかったことを確認した。ただ確かに大谷氏が読み誤ったように、マルクスは一見すると分かりにくい表現をしていたことは事実である。それはどうしてであろうか。そしてそれに対して、これから大谷氏がマルクスが〈ハッキリと自己批判している〉という〈第二層〉として持ち出しているところでは、どうしてマルクスは大谷氏が〈このような表現は、……完全に消える〉と思えるほどに問題を論じているのであろうか。それを少し考えてみよう。
 それは他でもない、すでにこれまでの検討でも示唆してきたように、大谷氏が〈第一層〉〈第二層〉として持ち出してきている草稿部分でマルクスが何を論じているのかを考えてみれば分かるのである。大谷氏がマルクスが依然として曖昧な間違った論じ方をしているとして例示した〈第一層〉の部分というのは、すでに指摘したが、マルクスがスミスのいわゆる「v+mのドグマ」を批判している部分である。この部分はマルクスが《あとに置くべきものの先取り》として考察を始めている単純再生産の考察より前に位置する。だからここでは社会の総再生産過程を「第 I 部門」と「第II部門」に分けて論じる前のところであり、だからそれらはまだ《第一種部門》《第二種部門》というように表現されている。また「不変資本」、「可変資本」、「剰余価値」という用語さえ、大谷氏が例示した部分では避けられている。ましてや大谷氏が書いているような、「 I (v+m)」というような、われわれにとっては再生産表式でおなじみの記号ももちろん使われていない(しかしもちろん、大谷氏が引用している部分以外では、スミス批判のなかでもこれらの用語は使われているのであるが)。しかもここで問題なのは、スミスの「v+mのドグマ」、すなわちスミスが社会の年生産物の交換価値を賃金、利潤、地代に分解したり、それによって構成するという主張を批判することにある。だからここでは貨幣流通が問題なのでなく、社会の総生産物の価値と素材における補填関係が問題なのである。だからここでは一見すると大谷氏が問題として挙げたくなるような敍述が見られたのである(しかし断るまでもないが、詳細にマルクスがいわんとすることを読み取れば、そうした大谷氏のような捉え方は誤りであり、マルクスは問題を正確に論じていることが読み取れたはずである)。
 それに対して、大谷氏が〈第8稿の第二層〉として上げているところは、単純再生産の敍述の一番最後の部分に位置している。つまりこの部分は、マルクスが《あとに置くべきものの先取り》と断って考察を進めているところなのである。だからここでは最初から貨幣流通による媒介を入れた考察を《先取り》して論じている部分なのである。だからマルクスが大谷氏らが満足のいくような敍述をしているのはある意味では当然なのである。それを大谷氏らは、貨幣流通による媒介を捨象して論じていたときの敍述をマルクス自身が〈ハッキリと自己批判している〉などと捉えているだけの話なのである。しかし果たしてその部分はそうしたマルクス自身の〈厳しい自己批判〉といえるのかどうか、それは引き続いて検討して行かなければならない。

 まず大谷氏は、マルクス自身の〈厳しい自己批判〉だとする部分を紹介をするに当たって、次のように書きはじめている。

 〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている (S. 779.4–790.13)。マルクスはまず、社会的年間総生産物の場合にも、それの価値は、有用的労働によって生産手段から移転された価値と年間の人間的労働が体化した価値生産物とから成っていること、および、資本主義社会では、年間労働のうちのきわめて大きな部分が不変資本を補填する生産手段の生産に向けられていることに注意を向けたあと、次のように言う。〉(下188頁)

 この後続けて、大谷氏はマルクスの一文を引用しているのであるが、その引用文の大谷氏の解釈の検討は後回しにして、この部分に対する異議をまず提起しておきたい。
 大谷氏がマルクスが〈厳しい自己批判〉をしているとして引用しているのは、現行の「第20章 単純再生産」「第10節 資本と収入、可変資本と補填」と題されている部分におけるマルクスの記述である。この部分は、草稿では単純再生産に関する敍述が見られる一番最後に書かれているものである(だから草稿では「第12節 貨幣材料の再生産」の敍述に続けて区切りを示す横線を引いた後に書かれている)。だから大谷氏は〈第8稿の単純再生産の部分で、社会的総再生産過程における金生産について論じたあと、マルクスは、単純再生産の叙述を締め括っている〉と考えているわけである。しかしこの部分の解釈として、果たして〈単純再生産の叙述を締め括っている〉という理解は正しいのかどうかである。確かにそれは第8稿の単純再生産を考察している部分の一番最後に位置しており、その位置だけを見るなら〈締めくくっている〉という大谷氏の理解は正しいかに見える。しかし大谷氏は草稿のこの部分の正確な情報を読者に伝えていない(意図的に?)。というのは、そこには現行版では欠けている冒頭部分があるからである。おそらくエンゲルスは、自身がつけた表題(「第10節 資本と収入、可変資本と補填」)に相応しくないと判断して削除したのであろうが、しかしこの冒頭の部分は、この個所でマルクスが何を論じようとしていたのか、またこの部分がマルクスの単純再生産全体の敍述プランのなかでどういう位置を占める予定であったのかを考える上で重要な意味を持っているのである。大谷氏は、この部分が、単純再生産の敍述の締めくくりとして、マルクス自身が、それまでの古典派経済学の貨幣ベール観を引きずっていた自身の見解を自己批判するために書かれたものであるかにいうのであるが、そうした自分の主張にとって不都合なところ、つまり実際には草稿には存在する冒頭部分を、エンゲルスと同様に、敢えて論じずにいるように思えてならないのである。単純再生産の最後で論じているこの部分は、果たして大谷氏がいうような目的で書かれたものであるのかどうか、あるいはマルクスの全体の構想のなかでどういう位置を占めているのか、われわれは草稿に直接当たって検討してみることにしよう。

 市原健志氏はこの第10節(もちろん節もその表題もエンゲルスによるものであるが)の冒頭にエンゲルスによって削除された一文があるとして次のようにそれを紹介している(市原健志《『資本論』第2部第3篇第19・20章と第2部第8稿》下187頁)

 《3) I 1000v+1000m
                             および単純再生産の全構図
    II2000c+500v+500m

に後に立ち戻ることの保留をつけて、今やわれわれはさしあたり I )4000cに目をむけることにしよう。》

 そしてこの部分に市原氏は次のようなコメントを書いている。

 〈つまり、第10節の初めは「 I )4000c」の考察を目的にしていたと言える。なお、この部分の冒頭にある「3)」に対応する「1)」と「2)」がどれであるかについては判然としない。〉

 われわれは、このエンゲルスによって削除された冒頭部分を見て気付くのは、この部分でマルクス自身は何を論じようとしていたかが明確に述べられていることである。すなわち第 I 部門の商品資本のうちの不変資本の価値部分、「 I )4000c」の考察である。だから大谷氏がいうようなそれまでの自身の見解を「自己批判」するために書かれたものなどでは決してないことがこの一文だけでも明瞭であろう。

 (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 5日 (木)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その64)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その4)

 (以下は前回、文章の途中で中断したところからの続きである。)

つまりcは再生産の観点から見るなら、価値部分としては、再び部門 I の不変資本に充てられる部分なのである。つまりその部分の商品資本が販売された貨幣で再び購入されるのは、やはり部門 I の生産物であり、部門 I で充用される生産手段なのである。つまり I cというのは、商品資本のうち再生産の補填関係から捉えられた価値部分として見た場合に、再び部門 I で生産手段として充用されるものに該当するということを表しているのである。だからこの部分の商品資本の現物形態も、再び部門 I で生産手段として役立つ使用価値でなければならない。そして I (v+m)は、やはり部門 I の商品資本のうち、再生産の補填関係から見た場合、vは再び可変資本として部門 I で充用される部分であり、mは資本家が彼らの剰余価値として取得する価値部分なのである。そして可変資本として部門 I で充用される価値部分ということは、部門 I の労働者に支払われた賃金と価値額として等しいことを意味するのである。だから I (v+m)は補填関係としてみた価値部分としては、労働者と資本家の収入として消費される部分であり、だから部門IIの生産物と交換されなければならないわけである。だから I (v+m)の商品資本は現物形態としては、部門IIの生産手段として存在していなければならない、等々。こうしたことはマルクスにとってはまったく明瞭なことである。だから大谷氏の批判などは不当な言い掛かりでしかないのである。先に紹介しておいたマルクスの説明をもう一度思い出そう。マルクスは次のように説明していた。可変資本部分(v)=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分(m)=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分。これらは部門 I の商品資本を《価値によって次のように分割される》としてマルクスが説明していたものである。このマルクスの説明にはどんな混乱も不明確さもないことは明らかではないか。
 それではどうして、マルクスはここで大谷氏が問題にするような表現を使っているのだろうか。それはスミスがすべての生産物の価値は賃金、利潤、地代に分解すると主張していることを問題にし、それを批判するために論じているからである。つまりこの部分(すなわち I 〔v+m〕)は、価値部分としては、この生産に参加するすべての当事者にとっては彼らの収入に充てられるものであるが、《しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》のだ、つまりそれは素材的には生産手段であり、だから社会的に考えるなら、資本としてしか機能し得ないものだ、つまりスミスのいうように収入に分解しうるように見えるものも、社会的には収入には分解しえないものが存在するのだというのがマルクスのいわんとすることなのである。もちろん、ここで社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》という場合の「収入」や「資本」は、スミスを意識してスミス流の使い分けをそのまま使っているのである。だからマルクスは問題をきわめて正確に論じていることは明らかなのである。

 次はマルクスが「2)」と番号を打っている部分の検討に移ろう。
 この「2)」は、スミスが彼自身の考えをきちんと総括したなら、到達したであろう結論の二つ目の項目という意味である。そしてここでは、 I (v+m)の価値部分は《社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する》するが、それが資本として機能するのは、《第一種部門の資本家》、つまり部門 I の資本家においてではなく、《第二種部門の資本家》、つまり部門IIの資本家たちのためにであり、彼らはそれによって消費手段の生産に際して消費された「資本」(生産手段)を補填するのだ、ということである。そして彼らの手にある商品資本の価値部分、《すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する〔商品〕資本》は、《社会的立場から見れば》--つまりその素材(使用価値)を社会的分業の観点から見るなら--《第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす》と述べているのである。こうした説明はまったく正確であり、どんな曖昧さや混乱もないことは明らかであろう。

 そしてこうしたスミスが彼が断片的に述べているものを総括したなら到達したであろう二つの結論を述べたあと、マルクスは、もし上記のような結論までスミスが分析を進めたなら、《全問題の解決に欠けるところはほんのわずかだったであろう》《彼は核心に迫っていた》として、スミスがすでに気付いていたこととして述べている部分が大谷氏が次に引用している部分(われわれが(2)と番号を打った引用文)なのである。だからそれはスミスがすでに気付いていたこととして、マルクス自身がまとめている文章なのである。われわれはその一文をもう一度引用しておこう。

 《社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。》

 この一文に対して、大谷氏の批判ももう一度並べて書いてみよう。

 〈ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉

 果たして大谷氏はマルクスが述べていることを十分解読していると言えるであろうか。大谷氏は I (v+m)について〈それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではな〉いと述べている。〈それ自体としては〉ということで何を言いたいのかは、先の引用文(1)に対する批判から類推するに、それは「それ自体としては部門 I の商品資本だ」と言いたいのであろう。しかしそんな批判をして批判になっていると思うことが驚きであり、大谷氏がこのマルクスの一文をほとんど理解していないことを反対に暴露しているのではないだろうか。それにそもそもマルクス自身は大谷氏がいうように〈それ自体としては〉などという断りは一言も述べていない。《それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとって》は彼らの《収入をなす》と述べているのである。大谷氏はマルクスが「個別の生産当事者の観点」(これは商品資本の価値部分を再生産の補填関係から見るということである)と「社会的な観点」(これは生産物の使用価値を社会的分業の観点からみるということである)とを使い分けていることに何の関心も示していない。それが大谷氏がこのマルクスの一文を読み誤った原因であろう。マルクス自身はそれに続けて「それらは素材からみるなら」《しかし社会の収入の構成部分をなすものではな》いとも明確に述べているのである。このマルクスの言明を詳細に検討すれば、最初の(1)の引用文と同様に、マルクスは部門 I の総生産物(総商品資本)のうちの一定部分(すなわち I 〔v+m〕)は、その生産の当事者にとっては再生産の観点からみて、どういう役割を与えられたものか、という視点と、それが社会的には、つまり社会全体の分業という観点からみた場合、その生産物の使用価値がどういう役割を担っているか、という二つの観点から問題をみていることが分かるであろう。だからマルクスが言いたいのは、部門 I の商品資本の一定部分、すなわち I (v+m)の価値部分は一方で労働者の収入と資本家の収入に分解するが、しかし他方ではその現物形態は生産手段だから、社会的には資本を構成するのだと述べていることが分かる。つまりスミス自身はそこまで気付いていたのだ、というのがマルクスがここで言いたいことなのである。だからそこに表現上すっきりしないところがあるといえば、いえるかも知れないが、しかしそれはスミスが気付いていたという内容だからであり、スミスの言い回しを使いながらそれを述べているからである。またここで重要なのは、部門 I の総生産物(総商品資本)の価値と素材における補填関係であり、大谷氏が問題にするような、資本の循環における形態転換などはまったく問題になっていないからでもある。だからマルクスはこうした論じ方をしているということが大谷氏にはまったく理解されていないといわざるをえない。

 (以下、この項目は次回に続く。)

2009年11月 4日 (水)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その63)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その3)

 この大谷氏が引用している部分は、現行版では第2部第19章「対象についての従来の諸論述」「第2節 アダム・スミス」「1 スミスの一般的観点」に該当する草稿から引用されている。そこでわれわれは大谷氏が引用している部分の草稿そのものをその前後も含めて少し長く紹介してみよう(これは市原健志氏の草稿研究にもとづいて草稿を復元したものである。翻訳文は新日本新書版をベースにしている。エンゲルスの編集によって草稿が書き換えられている部分はそれが分かるように赤字にしてある〔だからエンゲルス版とその部分を比較すれば、エンゲルスがどのようにマルクスの草稿に手を入れているかが分かる〕。【 】で括った部分が大谷氏が引用している部分であるが、全集版をベースにしている大谷氏の訳文とは少し違っている。なお大谷氏の引用部分を最初のものには(1)、あとのものには(2)と番号を便宜的につけてある)。

 1)社会的年生産物の一部は生産手段から構成され,その価値は次のように分割される。--一つの価値部分は、これらの生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない。第二の部分は、労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい。最後に、第三の価値部分は、この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす。
 第一の構成部分、すなわちA・スミスによればこの部門で仕事をする個別諸資本全部の固定資本の再生産された部分は、個別資本家なり社会なりの「純収入から明らかに除外されていて、決してそれの一部をなすことはありえない」。それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない。しかし、
(1)【生産諸手段として存在する社会の年生産物の他の価値諸部分--したがってまた、この生産諸手段総量の可除部分のうちに実存する価値諸部分--は、確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する。しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入を形成するのではなく、資本を形成する--社会のこの年生産物は、その社会に属する個別資本家たちの生産物の総計からなるにすぎないにもかかわらず、そうなのである。これらの価値部分は、たいていはすでにその本性上、生産諸手段として機能しうるだけであって、必要な場合には消費諸手段として機能しうるような部分でさえも、新たな生産の原料または補助材料として役立つように予定されている。しかし、それらの価値部分がこのようなものとして--すなわち資本として--機能するのは、その生産者たちの手中でではなく、その使用者たちの手中でである。すなわち--
 2)、消費諸手段の直接的な生産者たちの手中でである。それらの価値部分〔生産諸手段〕は、第二種部門の資本家たちのために、消費諸手段の生産にさいして消費された資本(この資本が労働力に転換されない限りで、すなわちこの第二種部門の労働者たちの労賃の総額をなすものではない限りで)を補填するのであるが、他方では、この資本、すなわちいまや消費諸手段を生産する資本家たちの手中に消費諸手段の形態で存在する資本は、それはそれで--すなわち社会的立場から見れば--第一種部門の資本家たちと労働者たちとが彼らの収入をそこにおいて実現する消費元本をなす
 もしA・スミスがここまで分析を進めたのであれば、全問題の解決に欠けるところはほんのわずかにすぎなかったであろう。彼は核心に迫っていた。というのは、すでに次のことに気がついていたからである。すなわち一方では
(2)【社会の年々の総生産物を構成する一方の種類の商品資本の価値の一定の諸部分は、それの生産に従事する個別的な労働者と資本家とにとっての収入を確かになしはするが、しかし社会の収入の構成部分をなすものではなく、他方では、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、それの個別的所有者すなわちこの投資部面に従事する資本家たちにとっての資本価値を確かになしはするが、それでもなおそれは社会的収入の一部をなすにすぎない、ということがそれである。(全集版451-2頁)

 さて、この草稿の引用文全体をしっかり検討すれば、大谷氏の批判はまったく不当な言い掛かり以上ではないことが分かるであろう。そのために、引用文全体を解読してみよう。

 引用文を正しく理解するためには、この一文が全体としてどういう文脈のなかで書かれているものかを踏まえておく必要がある。まずこの引用文は《ところで、もしA・スミスが、まえには彼が固定資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、そして、こんどは彼が流動資本と呼ぶものの再生産の考察にさいして、彼の頭に浮かんだ思想の諸断片を総括したとしたら、彼は次のような結論に到達したことであろう--》(全集版451頁)という導入文があって、そのあとに続く文である。つまりこの引用文は、スミスが不変資本の存在を「総収入」と「純収入」とを使い分けることによってこっそり導入しようとしていることを暴露したあと、スミスがもっと自分の考えを整理したなら至っていたであろう結論として述べられているものである。マルクスはそれを二つの点にまとめている。
 最初は大谷氏による(1)の引用文が含まれる部分である(マルクスが「1)」と番号を打っている部分)。第一パラグラフでは社会的年生産物の一部は生産手段からなり(すなわち部門 I の生産物であり)、それは三つの価値部分に分割される、すなわち不変資本、可変資本、剰余価値である。しかしマルクスは「不変資本、可変資本、剰余価値」という用語はまだ使わずに、それを、不変資本部分=《生産諸手段の生産にさいして消費された生産諸手段の価値にすぎず、したがって、更新された形態で再現する資本価値にすぎない》価値部分、可変資本部分=《労働力に投下された資本の価値、または、この生産部面の資本家たちによって支払われた労賃の総額に等しい》価値部分、剰余価値部分=《この部門の産業資本家たちの利潤と地代の源泉をなす》価値部分と説明している。これはまったく正確な説明であり、大谷氏も文句のつけようがないであろう。特に可変資本部分についての説明に注意して頂きたい。ここには大谷氏が主張するような、どんな曖昧さも不明確さもない。つまりマルクスにはもともとは大谷氏が指摘するような可変資本の概念を不明確に捉えているようなことがないことが、これを見ても分かるのである。
 そしてマルクスはまず最初の構成部分(不変資本部分)を問題にし、そして次は可変資本部分と剰余価値部分の説明に入っている。そして後者の説明の一部を大谷氏は引用しているわけである。第一の構成部分(部門 I の商品資本のうちの不変資本部分)は、《それは、つねに資本として機能し、決して収入としては機能しない。その限りでは、各個別資本家の「固定資本」は〔全〕社会の固定資本となんら異なるところはない》と説明されている。ここで「固定資本」が鍵かっこに入ってるのは、スミスがいうところの「固定資本」だからである。重要なことはこの場合は各個別資本家にとっても、全社会にとっても同じだと述べていることである。つまり決して収入として機能しないという意味でそうだと述べているのである。つまりどんな意味でも、スミスが主張するような収入には決して分解しない部分だとマルクスは述べているわけである。
 それに対して、次に見ている可変資本部分と剰余価値部分の場合は、個別の生産当事者にとってと、社会にとってとでは違っている、というのが次にマルクスが述べていることなのである。つまり《確かに同時に、この生産に参加するすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃銀、資本家にとっての利潤および地代を形成する》と述べているのは、この部分( I 〔v+m〕)は個別の生産当事者にとっては、価値部分としては彼らの消費に充てられる部分だというのである。あくまでも「価値部分」としてマルクスが述べていることは、それまでの敍述から明らかである。ところが大谷氏は、〈第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない〉と批判している。しかしこんな当たり前の批判でマルクスを批判したつもりなのは驚きである。大谷氏は、 I (v+m)が部門 I の〈商品資本の一部であ〉ることをマルクスは知らないとでも主張されるのであろうか。大谷氏がマルクスが商品資本が三つの価値部分に分けられること、そしてそのうちのv+mの価値部分について述べていることをまったく無視している(理解されていない?)。大谷氏にお聞きするが、 「 I (c+v+m)」は何を表していると考えておられるのか。「これは商品資本であり、そのうちのcもvもmもその一部である」、これが大谷氏の説明である。これではcもvもmも何も説明されたことにはならない。これらは直接には決して不変資本、可変資本、剰余価値そのものではない。それらはあくまでも部門 I で生産された商品資本を、再生産の観点から、その価値を構成する諸部分として分けられたものに過ぎないのである。

 (以下、文章の途中ですが、字数の関係で、次回に続きます。)

2009年11月 3日 (火)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その62)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討


●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その2)

 それは例えば、大谷氏がこうしたマルクスの誤った敍述の典型として〈資本と資本との交換〉を例に上げて次のように述べている場合にも、それは当てはまるのである。

 〈第2部の第1稿でこの不明確さがきわめて明瞭に現われていたのが、すでに見た、「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という把握である。たとえば、第 I 部門内部での不変資本の相互補填の場合、資本が資本として相互に位置を変換するのではない。どちらの不変資本もその形態を変えるだけであって、位置を変換するのは商品または貨幣である。商品と貨幣の持手変換すなわち商品の売買を通じて、資本の変態と資本の変態とが絡み合うのである。「資本と資本との交換」という表現には、資本循環の形態と商品流通の形態との関連についての混同が纏い付いている。〉(下187頁)

 こうしたマルクス批判も、やはり私には、マルクスにとっては濡れ衣でしかない、と思わざるをえない。というのは、大谷氏はあくまでも貨幣流通による媒介を前提にしてこうしたことを述べているのであるが、しかしマルクスが「資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換」という場合には、貨幣流通を捨象して問題を価値と素材の両面による補填関係として見ているのだからである。それは次のような一文に明瞭に表れている。

 《(3)さて、まず第一に労働者について言えば、素材的にみれば、事柄はあたかも、彼らは各人が自分の生産物のうちで彼のものとなる部分を現物で受け取り、これらの生産物を彼ら相互のあいだで交換しあう、というのと同じことである。つまり、収入と収入との交換である。》(『資本の流通過程』207頁)

 ご覧の通り、マルクスが収入と収入との交換》として述べているのは、あくまでも《素材的にみれば》という限定をつけ、しかも《事柄はあたかも》そうしたことと《同じである》と述べていることが分かる。これは部門で言えば、生活手段の生産部門(第1稿では《資本A》)の労働者について述べているのであるが、つまり素材的に見れば、さまざまな生活手段を生産している労働者たちは、結局、自分たちが生産した生産物(=生活手段、消費者によって収入として消費されることを予定している生産物)を互いに交換して消費するのと同じ結果になると述べているわけである。それがすなわち収入と収入との交換》ということでマルクスが述べている内容なのである。そしてこれは価値と素材の両面による補填関係としてみるなら、まったくその通りである。マルクスは問題を混乱して捉えていないことは、そのすぐあとで、次のようにも述べていることから明らかである。

 《というのは、資本家は商品のうちの労働者が受け取るはずの部分をも売るのであり、したがって労働者たちは生産物のうちの自分たちの分け前をたがいに直接に交換しあうわけではないからである》(同上)

 だから大谷氏にわざわざ指摘してもらわなくても、貨幣流通を考慮すれば、こうした収入と収入との交換》といったことが直接には妥当しなくなることぐらいはマルクスも十分承知の上で述べていることが分かるのである。しかし貨幣流通をとりあえずは捨象して総商品資本を価値と素材における両面からの補填関係として捉えるならば、それは、現実的(リアール)には、《資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換》に、結果としてはなるのだ(それと同じことである)、ということがマルクスが、この言葉で本来は述べていることなのである。それを大谷氏らはマルクスの主張を厳密に検討もせずに、自説の誤った前提--貨幣流通による媒介を捨象して考察することは出来ない、という--を絶対化して、常に貨幣流通による媒介を入れて問題を考えているから、こうしたマルクスの主張を混乱とするだけなのである。自己の誤った前提のもとに、マルクスを批判することこそ、混乱以外の何物でもないであろう。マルクス自身は大谷氏に指摘されなくても、貨幣流通を入れた場合にどうなるかについても、明確に問題を把握して論じているわけである。ただマルクスはそうしたものをいちいちその前提をその都度断って述べていないがために(その限りでは確かにマルクスもそれほど自覚的では無かったと言えるかも知れないが)、ある場合には素材的に問題を見たり、他の場合には貨幣流通を入れて考察しているがために、ある場合にはやや曖昧な表現と思える敍述をしてる場合もあれば、他の場合には正確に問題を論じている場合もあるというように、われわれには見えるだけなのである。私にはそのように思えるのである。

 さて、大谷氏は上記のようなマルクスの〈不明確〉な敍述が、第8稿の1877年3月に書かれた〈第一層〉でも、まだ見られるとして、二つの文を引用し、その不明確さを次のように指摘している。

 〈「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――は、同時に、この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤、そして地代をなしている。」(S. 708.30–35.)
 ここで言う、「社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の可除部分のうちに存在する価値部分――」、すなわち第 I 部門のv+mは、この部門の商品資本の一部ではあっても、けっして「この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代」ではありえない。
 その少しあとでも、次のように言う。
 「一方では、社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分は、その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしてはいるが、しかし社会の収入の成分をなしてはいないのであり、また、他方の種類の商品資本の価値の一部分は、この種類の商品資本の個別的所有者すなわちこの投資部面で仕事をする資本家にとっての資本価値をなしてはいるが、それにもかかわらずそれはただ社会的収入の一部分でしかない、ということにスミスは気がついていたのである。」(S. 709.12–19.)
 ここで「社会の年間総生産物をなしている商品資本の一方の種類の価値の一定の部分」、すなわち第 I 部門の商品資本のv+mの部分は、それ自体としては、けっして「その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしている」のではなく、「他方の種類の商品資本の価値の一部分」、すなわち第II部門の商品資本のcの部分は、それ自体としては、けっして「社会的収入の一部分」ではない。〉
(下188頁、傍点は下線に変換してある)

  (この項目は次回に続きます。)

2009年11月 2日 (月)

大谷禎之介著「『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡」の批判的検討(その61)

 

大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡 ――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》 (『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その1)

 さて、いよいよ最後の項目である。ここでは大谷氏が〈第2稿の第3章から第8稿の第3篇にかけて、マルクスが決定的な理論的飛躍を成し遂げた〉(下187頁)と評価する問題が論じられている。ここで論じられている問題は、簡単にいうなら、マルクスは当初は“可変資本は労働者の収入になる”というような論じ方をしている点が指摘され、それが第8稿では「自己批判」されているということなのである。大谷氏らの(というのはこうした指摘をするのは大谷氏に留まらず、宮川彰氏や伊藤武氏らも同様の主張を行なっているから)この主張は、確かに部分的には当てはまるところがあるように私には思えたこともあったのである。だから何を隠そう、私自身もそうした理解に以前は半ば賛意を示してもいた。しかし第8稿でマルクスがそれまでの自己の主張を「自己批判」しているとの判断には、やや行き過ぎの感が拭えなかった。というのは、確かにマルクスは第8稿以前の諸草稿のなかで、そうした概念的にやや首をかしげる表現をしていることは確かであるが、しかし同時に同じ文献のなかでも問題を正確に論じている場合も多々見られるからである。だから確かにマルクス自身に問題を十分意識的に整理して論じる姿勢が無かったにしても、マルクス自身が概念的に対象を十分に捉えておらず、混乱していたかに言われると抵抗を感じざるを得ないのである。ましてやマルクスが以前の自身の見解を「自己批判」しているなどという評価には、やはり違和感を禁じえなかった。だからこの問題での大谷氏の主張の批判的検討にはやや微妙なところがあり、問題をとにかく厳密に検討していくしかないと考えている。だから、この部分の検討も、あるいは読者の皆様には、まどろっこしいものと受けとめられるかも知れないが、ご容赦願いたい。というのは、この部分の批判的検討は、ある意味では自分自身が以前支持していた見解に対する、それこそ「自己批判」的検討でもあるからである。しかしとりあえず大谷氏の説明を追って行くことにしよう。

 まず大谷氏は第5-7稿でマルクスが第2部第1篇第1章を何度も書き直した内容について、次のように述べている。

 〈マルクスはその後も、貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環、という三つの循環形態が示しているものを正確に叙述する試みを繰り返した。
 そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる。資本の側ではG-W(A) である可変資本の前貸に対応する、労働者の側での労働力商品の変態はW(A)-Gであり、労働力を再生産するための流通W(A)-G-W(Km)の第一の変態である。その第二の変態であるG-W(Km) が労働者の収入の支出である。資本の変態と収入の支出が絡み合うのは、この第二の変態であって、可変資本の前貸であるG-W(A) は直接には収入の支出と絡み合ってはいない。このような関連や絡み合いの正確な把握には、資本の形態としての可変資本の変態の運動と労働者の商品である労働力の変態の運動との明確な区別、労働力商品の第二の変態としての、賃金の支出による消費手段への転化と資本家の側での商品資本の貨幣資本への転化との明確な区別が不可欠である。〉
(下187頁)

 こうした理解が大谷氏によれば、第5-7稿において第1篇第1章を繰り返し練り直すなかで到達したものだというのである。しかしこうした理解にはやはり納得が行かない部分が残るのである。というのは、第1稿の中にも次のように明確に問題を理解しているマルクスがいるからである。

 《他方、可変資本について言えば、それは貨幣の形態で労働者に前貸しされるのであって、労働者は、これと引き換えに彼の労働を引渡すが、その受け取った貨幣で彼は自分の生活手段を買う。労賃は労働の価値に、いなもっと正確に言えば労働能力の価値に等しい、と前提されているのだから、労働者は彼の全賃銀を彼の労働能力の再生産のために、それゆえ必需品の購入に支出する、ということが同時に前提されている。それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出されるのであって、資本家にとってはそれは労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する。》(『資本の流通過程』202頁)

 以前は私もこのマルクスの一文にはやや混乱が見られると受けとめていたのであるが、しかしよくよく吟味してみるとそうではないと思うようになった。ここでマルクスは可変資本は貨幣の形態で労働者に前貸されるということをまず指摘している。これは大谷氏が〈そのなかでマルクスは、次第に、資本家がつねに貨幣形態で前貸しなければならず、したがってつねに貨幣形態で還流してこなければならない可変資本の運動の重要性に目を向けるようになる〉などと述べている問題であるが、しかしそんなことはある意味では当たり前のことであり、改めて力説しなければならないことであろうか、との疑問は禁じえない。そして、労賃が労働力の価値の転化形態であることもここでは明確に語られている。しかしこれもまた当然のことであり、ことさら改めて強調しなけれはならないほどのことでもない。そしてそれが収入として生活必需品の購入に支出される。《それゆえ、全可変資本が実際には(レアリーテル)収入として支出される》と述べている。この一文が以前には、やや問題があると考えていたのである。しかしよく考えてみると、マルクスは《実際には(レアリーテル)》と限定して述べている。つまりマルクスはこの場合は貨幣を捨象して素材的に問題を見ているのである。というのは、マルクスはその直前(201頁)で《この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する》と前提しているからである(とは言うものの、マルクスはこれ以後においてもこうした前提を無視して、貨幣流通を入れた考察もやってはいるのであるが。ここらあたりはノートということからくる一定の厳密にさに欠けるところがあると言えば言えるかもしれない)。マルクスはここでは「可変資本が、実際には貨幣の形態で労働者に前貸されるが、しかしそれを労働者はすべて生活必需品の購入に支出するのであり、それが前提されているなら、貨幣流通を捨象すれば、全可変資本は実際には(レアリーテル)収入として支出される、つまり生活必需品との補填関係にある」と述べているのである。マルクスがこうした限定のもとに論じているものを(あるいは特に限定しなくても、特定の条件のもとに論じているものを)、大谷氏らは、常に貨幣流通による媒介を前提した上で(というのは大谷氏らは貨幣流通による媒介を捨象した考察の意義そのものを認めていないから--いうまでもなく私はそれは間違っていると考えている)、だから最初からマルクスが想定している条件とは違ったものを想定した上で、マルクスの敍述の不十分さや混乱を指摘しているように思えてならないのである。だからこの場合も、貨幣資本や貨幣流通を捨象して、問題を価値と素材との補填関係として見るなら、すべての可変資本は実際には(レアリテール)、つまり商品資本の価値の構成部分としては、収入に分解するものであり、素材的には、生活手段の生産部門の生産物と補填し合わなければならないと述べているのである。そしてそう理解すればここには何の問題もない。マルクスは同時に《資本家にとってはそれ(=可変資本--引用者)は労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する》とも述べており、可変資本が資本の循環としては、その貨幣形態を脱ぎ捨てて、労働力に転換し、生産資本の形態をとることも明確に述べているわけである。だからこうした敍述を見れば、マルクス自身が問題を混乱して捉えているわけではないことが分かるのである。ただどういう前提のもとに論じているかについて必ずしもその都度マルクスは明確にせずに論じている場合が多いために、ある場合は価値と素材の面だけからその補填関係を論じ、ある場合には貨幣流通の媒介を入れて資本の形態転換の側面から捉えている等々ではないかと思うのである。それを大谷氏らは常に問題を一面的な前提のもとに--つまり貨幣流通による媒介のもとに--捉えようとするがために、そうしたマルクスの敍述に、問題が無区別に整理されずに論じられていると見えるだけであるように思えるのである。

   (この項目は次回に続きます。)

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